第5話 椎菜の真実

 振り返ろうとした瞬間、ドンと背中に温かいものがぶつかる。

 体をじって見てみれば、それは立ち去ったはずの椎菜シーナだった。

「しい……」

「どうしてよ!」

「え……」

「どうして約束守ってくれないのよ!」

 約束?

 俺の背中にしがみついていた椎菜が顔を上げる。

 その瞳は涙で濡れていた。

「浮気したら、私を解体するって! 私を食べて後を追うって、言ったじゃない!」

「そんなこと……、俺が本当に出来るわけがないだろうが!」

 俺が叫ぶと、椎菜はビクッと体をこわばらせた。


「どうしてよ……」

「お前のことがマジで好きだからだよ!」

 みっともなく、俺の眼からも涙が零れ落ちる。

「お前に幸せでいてほしいんだよ! お前が笑っているなら、俺の隣でなくたっていいんだよ。お前が好きだから、大切だから……!」

 声は上ずり掠れ、喉に引っ掛かる。鼻水も流れ落ち、これまでで最も無様な姿を椎菜に晒している。それでも、伝えずにいられなかった。

「幸せになってくれ、椎菜!!」

 正面から向かい合い、すっかり細くなってしまった彼女の両肩を掴む。

 椎菜がくしゃりと表情を歪めた。

「なんで、殺してくれないのよ……」

 椎菜も俺に負けず劣らずの、ぐちゃぐちゃな顔になる。

「私のこと、その程度にしか思ってなかったの? あの言葉は、そんな軽いものだったの?」

「椎菜……」

「洋ちゃん、どうして!?」

 悲鳴に近い声が椎菜の口からほとばしり出る。

 その瞬間、椎菜の体がぐらりとかしいだ。

「椎菜!?」


 俺は慌てて彼女を抱きとめる。その体は,ひどく軽かった。

「椎菜? どうした、椎菜!」

 椎菜は目を開くことなく、ぐったりと俺の腕の中に身をもたせかけている。

(救急車か? いや、それより……)

 俺は連絡先を交換していた、椎菜の母親にメッセージを打った。




「直接会うのは久しぶりね、洋ちゃん」

 椎菜の母親と共に、俺は病院の待合室のソファに座っていた。

 外はすっかり陽が落ち、白々とした光が待合室を照らしている。

「すぐに連絡してくれて、助かったわ。今あの子は、応急処置をしてもらってるから」

「……どういうことなんですか」

 やつれ切った面差しのおばさんに、俺は窓ガラスの反射越しに目を合わせる。


 椎菜の運ばれた病室からは、生活感がにじみ出ていた。

 椎菜の箸、歯ブラシとコップ、スマホの充電器。

 椎菜の好きな本、そして見覚えのあるイヤホン。

 彼女が長期にわたってここで寝起きしていたことを、俺は一目で悟った。

「椎菜、病気だったんですね」

「……」

「話してください、お願いします!」

 おばさんは眉間にしわを寄せ、グッと何かを飲み込むと、大きく息をついた。

「あの子ね、もうあまり長くないの。恐らく今年の冬は迎えられないわ」

 頭から氷柱を叩きこまれた気がした。

「な……、そ……」

「今年の頭から体の具合が悪くてね。受験が終わるのを待って病院に行ったの。そうしたら、余命半年だってお医者さんから……」

 おばさんの口から病名が告げられたが、頭が真っ白で言葉が脳の上を滑っていく。

「合格発表の日、洋ちゃんに告白されたってあの子喜んでいたわ。嬉しそうに笑いながら、泣いていたの。もっと早く知りたかった、両想いなら私から告白するべきだった、って」

(あ……)


――遅いよ! 私は小学生の頃から、洋ちゃんのこと好きだったんだよ?


 そう言いながら泣いていた椎菜。

(あれは、そう言う意味だったのか……)

「あ、あの……」

 こわばり震える口を何とか動かし、俺はおばさんに問う。

「椎菜、彼氏ができたって言ってたんですけど。夏休みの間に」

「彼氏?」

 おばさんは悲しげに微笑み、首を横に振った。

「夏休みに入ると同時にあの子はここで入院してたのよ。そんな出会いがあったようには見えないわ。それに、そんな相手がいれば一度くらいお見舞いに来たはずでしょう?」

「来て、ない?」

「いないのよ、そんな相手。だって……」

 おばさんが両手で顔を覆い、声を震わせた。

「あの子は洋ちゃんのことだけがずっと好きだったんだから……!」

「……」

「今日、外出許可を取って出かける前、あの子は私にこう言ったの。『私に何があっても、洋ちゃんを恨まないで』って……。どういうつもりかまでは、聞けなかったけど……」

(椎菜……)



 その時待合室の扉が静かに開いた。

 薄ピンク色の服の看護師が、こちらへ軽く頭を下げる。

 ばね仕掛けの人形のように、椎菜の母親が立ち上がった。

「看護師さん、あの子は!?」

「今は落ち着かれました。お話も出来る状態なのですが、あの、ヨーチャンとは?」

「俺です」

「二人きりで話がしたいと、お嬢さんがおっしゃっているのですが。お母様、構いませんでしょうか?」

「えぇ、はい」

 ハンカチで涙をぬぐいながら、おばさんが俺の肩に手を掛けた。

「お願い、行ってあげて、洋ちゃん」

「……はい」


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