第7話
「凛音くん?」
「えっ?」
記憶の中では『来栖』と彫られた表札がかけられていたはずの玄関のポストの上には、今は別の名前の表札がかかっていた。
呆然と立ち尽くしていたら、玄関があいて、中から顔を出した男の子が凛音の顔を見て目を輝かせる。
「遊びにきたのか!?」
「……ここ、類くんの家なの?」
藤枝類。
昨日、ちょうど母との話の中で話題になった友達が出てきたものだから、凛音はびっくりする。
「うん! あれ、知らなかったっけ?」
類とは仲がよかったけど、帰る方向がいつも別々だから、家までは来たことはなかった。
「……類くん、いつからここに住んでるの?」
ここは来栖リンネの家だったはずだ。
いま現在、類が住んでいるということは、来栖一家は、どこか別のところに引っ越したということになる。
「えーと、オレが一歳の時、とかママが言ってたかな? なんで?」
「いや、えっと、大きな家だなと思って……」
「うん! 犬を飼ってるんだ。見るか?」
答えにはなっていない気がしたが適当にごまかすと、類は特に疑うこともなく、犬の話を持ち出した。
家の中に入れてもらえるチャンスだ。
凛音が頷くと、庭に案内される。
芝生の敷き詰められた広い庭の片隅には、白い犬小屋があった。
「てぃーいーえぬ?」
犬小屋の入り口には、木製のアルファベットの文字がくっつけられている。
TEN……テン?
「あ、それ、前に住んでた人の犬の名前みたいだよ。ここ、ちゅーこ? の家を買い取ったみたいだからさ。オレの犬の名前はジョンね!」
「へぇ……うわぁっ!」
「ワン!」
茶色と白が入り混じった模様の犬がいきなり飛びかかってきた。
「こら、お客さんをびっくりさせちゃダメだろ、ジョン」
犬はすぐに引き剥がされたが、落ち着かない様子で、元気にぐるぐるとその場を回っている。
「……コーギー? だっけ?」
「うん。ちょうどいま、お散歩につれていくところだったからさ。待ちきれないみたい。暇なら、一緒に行かない?」
「……うん」
とりあえず断る理由が見つからなかったので、凛音はなりゆきのままついていくことにした。
今日は曇っていて少しだけ涼しい。
大通りの横の並木道を、二人と一匹はゆっくりと歩いて行く。
「夏休みの課題、凛音くんはなに選んだんだっけ?」
「あー……絵、だったかな」
夏休みは、学年全員共通の問題集と日記とは別に、学校によってリストアップされたコンクールの中のどれかに応募しなければいけないことになっている。
コンクールのラインナップは、絵とか貯金箱とか習字とか読書感想文とか様々だ。
「もう描いた?」
「まだ……」
というか、夏休みが始まって三日目に行ったプールで前世の記憶を取り戻すという大事件が発生してしまったため、課題のことなどすっかり忘れていた。
「オレさぁ、貯金箱作るやつ選んだんだけど、全然いいアイデアが浮かばなくてさ」
「普通に箱にお金を入れるための穴をあけて、『貯金箱』って書けばいいんじゃないの?」
きょとんとしながら答えたら、類にじろりと睨まれた。
「そんなのダサいだろ!?」
「そう、かな……?」
いやよく考えたらダサいかも。
でも、学校の宿題なんだし、どうせ受賞とか無理だし、適当でもいいんじゃないかと、指先があまり器用ではない凛音は思ってしまったのだ。
「オレだってさ、最初は別にそんな凝ったやつを作るつもりはなかったんだよ。デザインがカッコよければいいかな、と思ってたぐらい。でもさ、ネットで過去の受賞作を見てみたら、めちゃくちゃすごい仕掛けのやつばっかりで! 普通じゃダメだと思ったんだよ!」
「へぇ……」
「だからオレももっと、みんなをアッと驚かせるようなやつを作ろうと思ったんだけど、過去の受賞作のパクリはダメだっていうし、難しい仕掛けとかはそもそもなにがどうなってるのかわからないし、悩んでんだよ」
類の熱弁を聞きながら、凛音は、先を歩く犬を眺めていた。
リンネが生きていた頃、あんな犬小屋はなかった。
犬も飼っていなかった。
リンネが死んだあとに犬を飼ったということだろうか。
そしてあの家を手放したということは、リンネの両親はもうこの街のどこにもいないということだろうか。
どこに行ってしまったのだろう。
もう会えないのだろうか?
リンネが死んでから十年の間、この街ではなにが起こっていたのだろう。
「凛音くん?」
ずっと黙り込んだままの凛音を不審に思ったのか、類が顔を覗き込んでくる。
「あっ……ごめん。暑くて頭がぼうっとしちゃって……」
「大丈夫? ねっちゅーしょーってやつかな?」
「……ジョンもバテてきてるみたいだけど、大丈夫?」
よく見ると凛音よりも、犬の方がよっぽどやばそうだ。
最初はあんなに行く気満々で意気揚々と歩いていたのに、雲が晴れて日の光が強くなってきたあたりからだんだんスピードが遅くなってきて、ついには道の端に座り込んでしまっている。
「あー……コーギーって、脚が短いから暑さに弱いみたいなんだよな」
仕方なさそうな様子で、類は犬を抱えて、近くにあった公園のベンチに移動した。
「脚が短いのと暑さに弱いのって、関係あるの?」
「ほら、地面に近い位置を歩くことになるから、地面の熱を感じやすいだろ?」
「なるほど」
人間は靴を履いているので地面の熱さを直接感じることはあまりないが、裸足で歩く犬はダイレクトに太陽で熱せられた地面の熱さを受けることになる。
犬どころか動物もまったく飼ったことのない凛音はようやく納得した。
マンションの脇に作られた公園は小さいものの滑り台もブランコも砂場もあったが、今は誰も遊んでいない。
ベンチのところには日陰ができていて、休憩するのにはちょうどよかった。
水筒を首にぶら下げてきていた類は、勢いよく水筒の中身をゴクゴクと飲んでいる。
「飲む?」
水筒が差し出される。
「あ、うん……ありがとう」
直接口をつけるタイプの水筒だ。
凛音は若干ためらったが、類は気にしていない様子だったので、ありがたく飲ませてもらうことにした。
水筒を持ってこなかったことを後悔するぐらいには、喉がカラカラになっていたためである。
(類くんってちょっと、シュウちゃんに似てるよね)
今の愁はどうだかわからないが、昔の愁はわりとこんな感じだった。顔は全然似てないけど。
相手が女の子であることも気にせず、凛音に飲みかけの飲み物を渡すタイプであった。
それから、愁も夏休みの課題の工作に気合いを入れていた。
(シュウちゃんは確か一年生の時、ダンボールで恐竜を作ってたっけ?)
「……恐竜とか、いいんじゃないかな」
「なにが?」
「貯金箱」
「おっ、それは新しいかもな」
「口からお金を入れる感じで……口の部分が閉じたり開いたりすればおもしろいんじゃないかな」
「凛音くん……もしかして天才か?」
茶色がかった大きな目が、キラキラ輝きながらこちらを見つめてくる。
そのまっすぐさに、凛音は若干たじろいだ。
「い、いや……なんとなく、いま思いついただけなんだけど……」
「よーし、決めた! それにしよ! 素材は牛乳パックで……色画用紙を貼り付ければいいかな?」
「フェルトとか、紙粘土をくっつけてもいいかも」
リンネだった頃の夏休みの課題で、そんな感じの貯金箱を作っている子がいた気がする。
「確かに! そっちの方が手が込んでるっぽく見えるかもな! 今度100均で材料探しに行こ! 凛音くんも一緒に作ろうぜ!」
「え……僕も?」
「応募用紙は持ってるだろ?」
基本的に最低一つ以上のコンクールに応募しなければいけない決まりになっているが、別のコンクールにも複数応募していいことにもなっている。
夏休みが始まる前に、まとめて大量に渡されたプリントの中に、貯金箱コンクールの応募用紙も入っていたはずだ。
「いいけど……」
「とりあえず今日はオレ、午後からスイミングもあるし、買い物に行くのは明日でいいかな?」
「そ、そのスイミングのことなんだけど……!」
類のペースに呑まれて言い出しそこねていたが、ようやくその話題ができそうなタイミングがやってきて、凛音は勢いよく食いつく。
「森倉、って先生いるの、知ってる……?」
「森倉? あー、あれだろ、ジュニアオリンピックに出てたっていう、めちゃくちゃ上手い人だろ?」
「オリンピック!?」
「オリンピックっていってもあれだよ、テレビに出てくるような世界の大会じゃなくて、日本の中の優秀な選手同士で競い合う? ような感じのやつだって。……ほら、『森倉選手を輩出したスイミングスクール!』ってチラシに載ってたの、見たことないか? 幼稚園でも配ってただろ」
「……覚えてない」
スイミングスクールのチラシは他のお手紙とまとめて渡されていたような気がするが、そういったものはたいてい母はチェックしていて、詳しい内容まで見たことはなかった。
「練習にはよく来てるみたいだけど、オレは直接教えてもらったことないかな。たまに高学年ぐらいのクラスを教えてるっていうのは聞いたことあるけど、時間帯が違うから」
「そっか……」
「なに? 知り合いか?」
「えっと、命の恩人? かな」
先日、市民プールで溺れて死にかけて助けてもらったという顛末を話すと、類はぽかんとしていた。
「えっ、大丈夫なのか!?」
「あ、うん……すぐに息を吹き返したから……」
「溺れたあと、次の日に死ぬやつもいるらしいぞ。気をつけろよ」
「そうなの?」
「二次……できすい? とかママが言ってた気がする。だから、もし溺れることがあったら、救助されたあとも気を抜くなって」
「さすがに三日たってるから、もう大丈夫だと思うけど」
「でも、森倉選手が監視員に入ってる時でよかったかもな。きっと、助けるのもすんげー早かったんだろ?」
「わかんないけど、多分、ラッキーだったよ」
昨日、宮城だかのプールで八歳の女の子が水死したというニュースもやっていた。
監視員がいても、子供が溺れたことにすぐに気づかないケースも少なくはないのだ。
(よかった。シュウちゃんに二度も『助けられなかった』という絶望を味あわせずにすんで)
「凛音くんもスイミングスクール通ったらどうだ? また溺れないように!」
「そ、そうだよね……!? やっぱり僕も行った方がいいよね!? ちょうど昨日、お母さんに相談してたとこだったんだ!」
それについて相談しようとしていたところ、類の方から話を振られて、凛音のテンションがついつい上がる。
「そういや今、紹介キャンペーン? とかやってた気がする。うちのママに聞いてみようか?」
「うん! お願い!」
「うちのクラスでスイミングスクール通ってるのオレだけだから、凛音くんがきてくれたらオレも嬉しいな!」
「そうなんだ? 幼稚園の時、他にも誰か通ってなかったっけ?」
「隣のクラスのやつが一人続けてるけどな、あとはみんな辞めちゃったぜ。なんか、別の習い事するとかで」
類はふてくされたように頬を膨らませている。
「そっか……」
小学生になるとサッカーとか野球を始める子もいるし、みんないろいろあるのだろう。
凛音も、幼稚園の頃に習っていたピアノをやめた経験があるので、あまり他人のことを言えた立場ではない。
「あっ、そろそろ帰ろうか。ジョンが帰りたそうにしてる」
公園に入ってからは足元の日陰でのんびりとくつろいでいたコーギーだが、飽きたのか、あるいはお腹がすいてきたのか、『動け』と言わんばかりに首輪に繋がる紐を引っ張って、類になにかアピールしている。
「明日、十時に待ち合わせでも大丈夫そう?」
「うん。類くんの家に行けばいいかな?」
「それだと凛音くんの家からはちょっと遠回りになるだろ。学校の隣のコンビニで待ち合わせしようぜ」
ついでにこの場所からだと、一度類の家に戻ってから帰るよりも、直接自分の家に向かった方が近い。
「明日は犬の散歩はいいの?」
「いつもはもっと早起きして、涼しい時間に行ってんの! 今日は寝坊したからこの時間になっただけ。暑いのしんどいから、明日は早起きできるようにがんばる」
げんなりした様子の類に、凛音はクスクスと笑った。
「じゃあまた明日」
「おう」
元気な犬に引っ張られるかたちで、類は帰って行った。
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