第22話

帰りたくはなかった。帰ったところで好きでもない家族と一緒になるし、それに今日は父親と色々あった。

帰りたくはなかったけれど、かといって帰らずにいれば何をされるかわからないというのも事実で……本当に憂鬱だ。けれどこの気持ちは家のことだけが理由ではないだろう。


 帰ってからは案の定、父親から近頃帰ってきていなかった分とばかりに話を聞かされた。ほとんどは私の将来に関すること、主に勉強だったり見合いだったり自分の今後の身の振り方に関することと、今日の朝言われた事の復唱。将来のことに関しては自分のことだけれど、どこか他人事のように私の気持ちとは関係なく進んでいる。まあ、それもいつものことだった。


 机に突っ伏しながら髪をいじる。

 自室に戻ってきてからは気が軽い。ぼーっとするのは少し落ち着く。


 今日は色々あった。そのほとんどが燈火に関することで……ああ、正直考えたくもないし思い出したくもない。死に戻りなんてなければ、今すぐにでも風に遊ばれているカーテンでこの世から逃れたかった。まあ、そもそも死に戻りがなければここには私は存在していないわけだけれど……。


 そこにちょうど風呂が沸いたと使用人が伝えに来る。自分の頭を整理したかったので、いつも入る時間よりは早いけれど素直に入ることにした。


 長い廊下を歩いていき、脱衣所に入ると服を上から上から脱いで行って、下着を脱いだところで一度自分の体を鏡で確認する。予想通り腹に大きなあざができていた。

 私の父親は昔からこうだった。私が間違ったことをすればなんのためらいもなく腹にこぶしを入れる、小さい頃は泣き叫んで仕方なかったけれど、最近は時々吐いてしまう吐しゃ物の始末を、使用人にさせるのが少し申し訳ない気がする程度で、何とも思わなくなっていた。


 今はそんなことを今更考えても仕方がない。

 体を洗って、お湯の張られた浴槽に足からゆっくりと入る、全身浸かったところで大きく息を吐く。湯気で前が見えない。私の未来みたいだなと思ってから、思わず苦笑する。


 湯気で見えないことと、自分の未来を重ねるなんて意味がなさすぎる。ナイーブになっているのかわからないけれど、自分のことながらバカみたいだ。


「ナイーブ、か」

 そんなバカバカしいことを考えてしまう原因に焦点を当ててみる。もとより風呂に来た理由はそれだし、考えたくなくても考えなければならない。未来がなくともとりあえず明日というのは来てしまう。そして明後日が来てしまえば燈火と顔を合わせる機会もあるかもしれない、そこで対応を間違ってはまずいだろう。あの燈火が来ないなんて言うことはないだろうし。

「憂鬱だ……」


 ピタピタと時折雨のように水滴が落ちてくる天井を見上げながら、記憶の海に潜る。

 まず思い起こされるのは燈火の告白だった。自分の寿命が二年しかないということ、燈火の母親は死んでいるということ。これに関しては何も思わなかった。私にとっては周知の事実であったから。


 無造作に捨てられた大量の薬の抜け殻、部屋に常備されているペットボトル。静かすぎる部屋に、生活感がなく、まるで一人暮らしのようなリビング。しかしそこには三人暮らしであった痕跡があり……恐らく父親も何らかの形で亡くなってしまったのだと思う 。


 そんなものを毎週のように見ていたから、自分の予想が当たった程度にしか思わなかったし、あの時に言われていなければ何も思わなかったけれど。私が驚いたのは思っていたよりも早く燈火がこのことを話した事実だった。


 私は燈火が自分に依存するように仕向けていた。燈火のことは嫌いだったけれどどうしても彼女が必要だったから死んでほしくはなかった。そこで一番有効だったのが燈火を私に依存させることだった。予想通り燈火にとって私は相性がいいらしく依存させることは容易だった。そして燈火もだんだんと安定してきていると思っていた。


 けれどそれがあだとなった。私は燈火がどれほどのものを抱えているのか想像できていなかった。結果的に燈火の中の登坂沙織という偶像は私の操作ができる範囲をはるかに超えていて、造形を少しでも変えると壊れてしまうほどに肥大化していた。そしてそれの造形を揺るがす行為が今までの私の言動と、今朝の姿だろう。


 あの二つがそろってしまえば疑問を抱いて本格的に踏み込んでくるのも仕方がなかった、誰だって目の前の事実に不安を感じれば、その事実が本当なのかを確かめるだろう。けれど私はそれをよしとしなかった。

 ずるいはなしだとは自覚している、自分のために死にそうな彼女を助けるわけでもなくただ単に延命治療のようなものを施す。自分は延命処置の決定権を持ちつつ、しかし相手には自分の生死に対する決定権を握らせはしない。大げさに聞こえてしまうかもしれないけれど燈火にとってはそれほどのものなのだと今はそう思う。


 そして私の完全なる拒絶。嫌いという言葉に真実性を持たせて燈火に伝えてしまった。あれで完全に燈火の中の偶像は消え去っただろう。


 ……私はうそを言っていない。私は燈火が妬ましくて仕方がない、最初に目の前で自殺しようとした理由もそれだった。私は燈火が嫌いだ、殺してしまいたいほど嫌いだ。だから私は間違っていなくて……そう間違っていないのだ……。そのはずなのに、ああ、もう胸がむかむかとして仕方がない。


 頭を湯に沈める。一人になりたい、湯の中は静かで何も聞こえない。自分の心音だけが耳の中に反響する。今は自分の心の声すら聞いていたくない、隠した自分の弱い部分が出てくるようでイライラする。出てくるなと願っても聞こえてくる。

 いつもの自分ではないことは頭でわかっているのに、今の状態では何をしでかすかわからない恐怖のようなものがあった。


 とりあえず明後日は燈火に謝ることでこの場を凌ごう。それが今の私に考えるべきことで行動としても最適解。


「死にたい……」

 もう、何度思ったかわからない言葉を、すでに感慨などなくなったその言葉を、久しぶりにつぶやいていた。

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