第21話 もう怖いものなんて何もないみたいだ

「……ありがとう、五花。本当に、ありがとう」


 やがて海斗くんは、落ち着いてきたのか、ゆっくりとわたしの顔へとその瞳を向けて、わたしの胸の中から離れていきました。


 わたしはその姿を見て、なぜか可愛がっていた雛鳥が一人巣立っていくときの親鳥のような気持ちになります。


 そのままベッドの上で二人、抱き合うような至近距離で向かい合います。


「君は僕の天使だ。いや、女神かもしれない。なんにせよ、あまりに素晴らしすぎる体験だった。それに比べれば、君が本当に僕の事を恋人として好きなのかどうかなんて、些末な問題だね。だって君は、その言葉で、その行動で、何よりも尊い愛がここにある事を、実際に証明してくれているんだから。これは、単に恋人を得るとか、結婚するとかだけでは得られるとは限らない、本当に無上の愛だったと思う。それに比べれば、その心に恋心があるのかどうかなんて、僕の側のエゴに過ぎないんだね。やっとそれが分かったよ」


 わたしはその言葉を聞いて、唯一のわたしの心残りを氷解させてくれた海斗くんの知性と優しさが嬉しくて、もう一度その顔をギュッと胸で抱き締めます。


「海斗くんはわたしなんかよりずっと頭がいいですから、わたしの愚かな考えなんて、お見通しだったかもしれませんね。それでも、こんなわたしにそういう言葉を掛けてくれる海斗くんの事を、わたしは本当に宝物のような存在だと感じました。好きですよ、海斗くん。本当に、好きです。愛しています」


「ああ……五花の胸は、本当に柔らかくて、気持ちいいな。でも不思議と、なんかもう興奮するとかしないとか、そういう次元を超越した何かを感じるんだよね。なんというか、腰のあたりからエネルギーのようなものが立ち上がってきてるのは確かなんだけど、それは僕が今まで感じてきたいわゆる性欲とはなんだか種類が違っていて……なんというか、こうしているだけで幸福で、こうしているだけで満足で……もしかすると、これが本物の愛という奴のもたらす作用なのかもしれないね」


「……そうですか。それはもしかすると、女性であるわたしが愛を感じている時の感覚に、近いのかもしれませんね」


「だから五花、本当にエッチな事をする必要なんてもう無いよ。僕は、今、心の底から満足している。本当に、心の底から。今死ねたらきっと一番幸せな人生だって、自信を持って言える。残りの人生、たぶんとっても苦しいばかりだけど、今キミがくれた本物の愛を思い返していれば、きっと苦しみだって乗り越えられると感じられるはずだ。それくらい、僕は偉大なものを貰った。ありがとう。本当に、ありがとう……」


 海斗くんの言葉を聞いて、わたしの伝えたかったものがきちんと伝わったんだなと感じて、わたしは無性に嬉しくて、楽しい気持ちになりました。

 だから、その楽しさがもたらしたクソビッチゆえの悪戯心という事にして、わたしは海斗くんの狼の毛が生えた頬に、キスをします。


「い、五花!?」


 これにはさすがに海斗くんも驚いてくれたようで、頬を赤く染めて、わたしの事を目を大きく見開いて見つめてくれています。さっきまで胸に顔をうずめていたのに、どうして男の子というのはほっぺたへのキス如きでこんなに興奮するんですかね?


「あれ、どうかしました? なーんて……わたしはクソビッチなので、なーんか海斗くんには最後までわたしへの恋心で悶々としていてほしいなと思って、悪戯しちゃいました。わたしの事をあの世まで忘れられなくなったら、ごめんなさいですね?」


 海斗くんはわたしのその言葉には、さすがに思わず目をぱちくりとさせてしまっていましたが……


 それから、海斗くんは一人でに笑いだしました。


「ふふ……あはは……五花……君は最高の女の子だよ。君みたいな魅力的な女の子がこんなに尽くしてくれているのに、恋心の一つも感じていないなんて、逆に礼儀知らずかもしれないね」


 海斗くんも、そんな事を冗談めかせて言ってくれるものですから、わたしはますます楽しくなってきてしまいます。


「そうですよ? 五花ちゃんはクソビッチなので、男の子の心を騙して弄ぶのが生きがいの、わるーい女の子なんです。わたしの事が好きだなって、心からわたしを想いながら、残りの人生を生きて、そして死んでください。そうすると、なんだかとっても凄い事をした気になれて、わたしが満足します。海斗くんの恋心には悪いですけど、大好きな女の子のお願いなので、従ってくれますよね?」


「ふふ……しょうがないな。ほかならぬ五花のお願いだ。従うとするよ。そもそも、よく考えたら、卓がいることと、僕が五花の事を好きなことは、関係なんてないね? だって、人を好きになる事は、人をこんなに好きになる事は、とっても素晴らしくて、とっても自由な、そんな尊い営みなんだから……相手が自分の事を好きとか、好きじゃないとか、実は関係ないんだ。僕が好きだから、僕が君を喜ばせたいだけなんだ。僕はそれを教えてくれた君が好きすぎて、おかしくなっちゃいそうだよ。こんなに恋心が燃え盛っていると、もう身体の痛みも、怖くないんだね。すごいな、恋って。僕はやっと、本物の恋を知ったよ」


「ふふっ、良かったです。では最後に、そんな大好きな五花ちゃんが、1ヶ月かけて海斗くんだけのために描いた、素敵なお絵描きを見てみましょうね~」


 そういって、わたしは海斗くんからいったん離れて、ベッドの脇に置いてあった絵画を手に取ります。


「そうだった。君が丹精込めて描いてくれた作品……しかと、見させてもらうよ」


 わたしは、絵画にかけられた紐をするすると外していき、絵画をくるむ布を、外していきます。


「これが、わたしの、海斗くんへの愛の結晶です。受け止めてくださいね?」


 夕日の角度が少しずつ深くなる中で、わたしが最後に布を取り外すと、そこから現れたのは、一枚の人物画でした。


 それは、一言でいうなら、大きく大きく描かれた、泣き顔の子供の絵でした。


 その子供とは――お分かりかもしれませんね?――もちろん、3歳の頃の海斗くんです。


 キャンパスの上では、3歳の海斗くんの両目からボロボロと涙の粒が垂れていく様が、油絵の特徴である立体感と、わたしの技術を生かした透明感をもって、芸術的に、見る者すべてに何かを感じさせるような気迫をもって、描かれていました。


 海斗くんは、わんわんと泣いています。


 片目が少し開かれて、もう片目は辛そうに閉じられたその表情は、その子供にとって本当に辛い事があったんだという事が見ただけでありありと分かるようになっていました。


 そして、そんな強い印象を残す泣き顔の下、海斗くんの3歳児ゆえの小さな小さなか弱い身体を、ぎゅっと抱きしめている少女がいます。


 恥ずかしながら、不肖、わたし、五花ちゃんです。


 背景となっている一面の草原に女の子座りでぺたんと座り込んで、海斗くんの小さな身体をぎゅっとその大きな胸で包み込むように抱き締めている姿は、わたしが真っ白のワンピースという普段は着ないようなシンプルで清楚な格好をしているのも合わさって、芸術的にその絵画を引き立てていました。


 絵画の中のわたしは、目を瞑って、ふわりと微笑んで、海斗くんを安心させるように抱きしめています。


 どうでしょうか。


 海斗くんには、この絵が、ちゃんと伝わったでしょうか。


 この絵は、海斗くんを想って、海斗くんだけを想って、海斗くんのためだけに描かれた、特別な絵だから――


 だから、伝わってほしい――


「うう……ううう……うわあああああああああああああああああああああああああああ……!!!」


 海斗くんの両目からは、ボロボロと絵画の子供と同じように涙が零れ落ち、そして、絶叫するように咆哮しました。


 それを見て、わたしは、、と安心して、海斗くんに起こった反応をそのまま見つめつづけました。


「すごい……すごいよこの絵……すごすぎる……なんでこんなにすごいんだ……? すごすぎる……本当に、すごい……」


 海斗くんは、語彙まで3歳児に戻ってしまったかのように、「すごい」以外何も言えなくなって、ただただその身に起こった感動をわたしに教えてくれていました。


「五花……すごいよ、この絵は……僕の最も深い、最も傷ついている、もっとも弱いところが、深く、深く癒されるのを感じた。慰められるのを感じた。同時に、その弱い部分を抱き締めてくれている君への、どうしようもなく強い愛を感じるんだ。すごい。すごいよ。本当に、すごい……」


「久しぶりに描いた絵なんですけど、上手に描けたみたいで良かったです。この絵は、海斗くんしか、海斗くんしか見えてないっていう心で描きました。現実のわたしは残念ながらクソビッチですが、この絵の五花ちゃんは、本物の天使です。海斗くんにはこの幻想の天使五花ちゃんを彼女と思って、死んでほしいなと思って描きました。少なくともこの絵の五花ちゃんと、この絵を描いているときのわたしは、海斗くんの彼女だと想ってくれても構いません」


「ふふ……あはは……おかしいな……本当におかしい……すごくおかしいことを言われているのに……なんだか、涙が止まらないや……」


 海斗くんは、その言葉通り、両目からとめどなく涙を溢れさせて、絵画の3歳児の海斗くんと同様の、めちゃくちゃな泣き顔になっていました。


 しかし、絵画の中の海斗くんと違って、現実の海斗くんは、その口元に笑みを浮かべていました。


 それが、確かにわたしが海斗くんを救えたって事なんだろうなと思って――


 わたしは、ふにゃっと微笑んで、こういいました。


「もう、死ぬのは、怖くなくなりました?」


 海斗くんは、その踏み込んだ問いに、自信を持って、泣きながら笑って、こう答えました。


……


 夕日がその狼みたいな海斗くんの泣き笑いを幻想的に照らしたその姿は――


 どんな絵画よりも、どんな虚構よりも美しい現実だと感じ――


 わたしは、ただ――


……)


 ただ、その海斗くんが見せた魂の美しさに、身を震わせるのでした。





 *****





 海斗くんは、それから3週間後の日曜日、家族が見守る中で、その人生を終えたそうです。

 その傍らにあった、わたしが描いた絵を、ずっと、ずっと見つめながら亡くなったと後日、海斗くんのお母さんに聞かされました。

 わたしは、それを聞いて、やりきったな、と思いました。

 わたしの大好きな海斗くん。

 これでちゃんと天国に行けたに、違いありませんね?

 もしかすると天国でも、わたしの事を想ってしまっているかもしれませんが……

 クソビッチはわたしの可愛い欠点という事で、許してくださいね?

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