第20話 人間の心って難しくて、制御できないものですね?
ゴールデンウィークも全て海斗くんのための絵に捧げたわたしでしたので、絵を完成させて初めて迎えた土曜日は、わたしにとって久々の自由な時間となりました。
わたしはこの日、海斗くんに、わたしの絵を見せるつもりだと、たっくんや海斗くんに連絡していました。
約束の時間まではあと2時間ほど。
わたしは海斗くんの家の蔵に置いてある自分の絵を回収しに、海斗くんの家に向かいました。
海斗くんの蔵にあった大きな布をかぶせて隠してあったそのキャンパスの絵を、わたしは布を取り額縁に入れて、もう一度布をかぶせて、運びやすいように紐でくくりました。
布を取った瞬間、「これを自分が描いたのか」という新鮮な驚きがありました。
わたしはこの絵なら、きっと海斗くんの人生に何かを遺せると、そう素直に信じられました。
それから時間が余ったので、わたしは蔵で、一人鉛筆を弄んでいました。
小さなスケッチブックに、簡単なデッサンをしていたのです。
しばし、無心で、デッサンに集中します。
ですが描いているうちに思いの外のめりこんでしまい、気付けば時間がギリギリになっていました。
わたしは慌てて絵を持って、海斗くんの病院に向かいます。
海斗くんが入院しているのは、県有数の大学病院で、入るのには受付で病院側の許可を取る必要がありました。そのためには海斗くんの両親の許可も必要です。
許可が取れたのは、たっくんが海斗くんのお母さんやお父さんと話をしてくれたようでした。そして海斗くん自身も、病身にもかかわらず、両親を説得してくれたようです。
わたしは受付の人に感謝の気持ちを伝えてから、案内された海斗くんの病室に向かいます。
405という個室が、海斗くんの入院している部屋なようでした。
そこでは今、たっくんと海斗くんが2人でわたしを、わたしの絵を待ってくれているはずです。
急に、わたしは海斗くんの病状が怖くなりました。
だって後1ヶ月で死ぬような病人なのです。
海斗くんの病気についてわたしは調べましたが、ひょっとするともう人間の姿はあまり留められていないかもしれません。
わたしは今更になって、もっとお見舞いに行っていた方が良かっただろうかとか、後悔し迷う気持ちが浮かんでくるのを感じました。
こういう時、わたしは落ち着いて、たっくんのあの全てを見通すような目を、微笑みを思い出します。
すると、そうしたマイナスの感情は、すぅっとどこかへ消えていくのを感じました。なんだか奇跡みたいですが、愛というのはそういうものなのかもしれません。
わたしはこれから何を話すのかは、天に任せようと思いました。
こういう場面で、あれこれ計算して、演出するなんて、まがい物のやる事だと思いました。
ただ、わたしの想いを、真っ直ぐな想いを、真摯にぶつけるだけ。
どうなるかは、出たとこ勝負。
それでいいんだと、素直に思えました。
わたしは、勇気を出して、病室の扉を開けます。
「こんにちは、海斗くん」
わたしは海斗くんのベッドの脇まで視線を下にしたまま絵を持って歩いてから、思い切って、ベッドに寝ころんでいる海斗くんの姿を真っ直ぐ見ます。
海斗くんの顔は、口から牙が大きくなって出ていたり、なんだか毛むくじゃらになっていたり、目が鋭く見開かれていたりしていて、やはりもう人間らしい姿では無くなっていました。
まるで、あのたっくんが描いたイラストの、狼少女のようだなと思いました。
わたしはその衝撃を、その哀しさを、ただ真っ直ぐに受け止めて、それでも海斗くんを泣きそうになりながら見つめます。
「海斗くん、本当に死んじゃうんだなって、今その姿を見て思いました」
わたしのその言葉には、深い哀しみ、そして憐れみが詰まっていたと思います。
「そうか。よく来てくれたね、五花。なんだか、発話しにくくて、声が聞き取りにくかったら済まない」
海斗くんの声も、病気に合わせて変質していました。なんだか獣の唸り声のような声が、無理やり人間の言葉をしゃべっているような、そんな印象を持つ声でした。
わたしは改めて、これ以上ないほどの哀しみを感じました。
わたしの両目から、早くもぽろぽろと涙が出始めます。
「こんなになる前に、もっとお見舞いに来てあげればよかったです……! わたし、絵の事ばっかりに集中して、海斗くんがこんな風になってるなんて、ちゃんと想像できてませんでした! 海斗くん、苦しくないですか? 辛くないですか? わたしは、辛いです……! ううううぅ……!」
海斗くんは、そんなわたしに手を伸ばそうとしますが、なんだか痛みを伴うようで、途中で手を伸ばすのをやめて、苦しそうな表情を浮かべます。
「卓。五花を、抱き締めてあげてくれないか」
「……それは出来ないよ。この哀しみは、そんな風に紛らわせていいものじゃないと思うから」
「……そうか」
「ひっぐ……うええ……うえええええっ……!」
わたしは泣きました。
泣き続けました。
その間、海斗くんも、たっくんも、黙ってわたしが泣くのを見つめて、受け入れてくれているのを感じました。
そこに深い愛情を感じたわたしは、すこしだけ落ち着いてきます。
そんなわたしの様子を見て、海斗くんが声をかけてきました。
「五花。キミは本当に優しいね。僕のために、そんなに泣いてくれて、ありがとう。そんなキミだから、そんなキミだからこそ、僕はキミの絵を見てみたいと、心から願っているよ」
「……そうですね。わたしはこの絵を見せに来たんです。そのためだけに、この1ヶ月、ずっと準備してきました」
「……僕は、席を外すよ。これはきっと、すごく個人的なものになるから。きっと、海斗と五花の二人だけで、共有した方がいいプレゼントだ。五花、
たっくんは、どうやらわたしと海斗くんの二人っきりで、この絵を見てほしいようでした。
わたしはそのよろしく頼む、という言葉に万感の想いが詰まっているのを感じながら、たっくんに向かって、
「
と短く頷きます。そこに篭もった想いを、たっくんならきっと拾ってくれた事でしょう。
そうしてたっくんが退室すると、わたしと、狼のような姿になった海斗くんは、2人きりで向かい合う事になります。
海斗くんは、とても辛そうでした。
あちこちから恐ろしい痛みが襲っているのだと思いました。
わたしは、ただ神様の操り人形にでもなったかのように、自分の中の神聖な何かに突き動かされて、言葉を口にします。
「海斗くん。海斗くんは、今、自分の事が好きですか?」
「自分の事、か……好きでは、たぶん無いね。色々醜い所があって、馬鹿な所があって、弱いところがあって……そういうダメダメな自分が、僕なんだなと、今は思っているよ」
そう話す海斗くんは、どこか力無さげで、弱々しく、生命力を感じませんでした。
「そうですか」
だからわたしはそこで、強く、強く視線を海斗くんに向けます。
まるで鋭い矢で、海斗くんを射すくめるように。
海斗くんは、わたしの雰囲気の変化に、びくりと身体を震わせました。
「わたしは海斗くん。あなたが好きです」
そしてわたしは、あえて、そんなわたしたちの禁忌に踏み込んだ言葉を口にします。
案の定、海斗くんは、衝撃を受けて、それだけはいけないと首を振りました。
「五花。いくら僕が死にかけだからって……それだけは……それだけはやめてくれ……僕に五花に愛される資格なんて、一ミリも無い。そもそも愛されているとも信じられない……死にゆく僕を哀れんでそんな言葉を口にしているなら……どうかやめてくれ……」
想像していた通りの反応を返してきた海斗くんに対して、わたしはふわりと、優しく、包み込むように微笑みかけます。
「ふふっ。何か忘れてませんか? わたしって、そもそも最低最悪のクソビッチですよ? 海斗くんみたいな純真な心を持った男の子を弄ぶのなんて、お手の物です。わたしは、ただ、わざと海斗くんを勘違いさせているだけなんです。というかそもそも、わたしが海斗くんの事を好きで、何がいけないんですか?」
「いけないに決まってるじゃないか! だって、僕はキミと付き合っているわけでも、キミに恋人として好かれているわけでもない。何よりキミには卓がいる。僕の大切な大切な親友の、卓だ! 僕は卓が心から好きだから! だから、キミへの恋心も全て忘れようとして……キミを親友だと思おうとして……最後に、キミからの絵を貰う事で、全て満足した事にしようと……」
「それですよ、わたしが不満なのは」
「え……?」
わたしは、思い切りよく真剣で斬り込むように、海斗くんの言葉を一刀両断しにかかります。
「このわたしが、最低最悪のクソビッチであるわたしが、なんだか良く分からないけど改心して、海斗くんのために1ヶ月を捧げて、正真正銘海斗くんのためだけの絵を描いてくれたんですよ? この大切な大切な絵を、なぜそんな偽物の満足のために使おうとするんですか? わたしの想いを馬鹿にしてるんですか?」
「ば、馬鹿にって……馬鹿になんてしてない……! してるわけないじゃないか……! 僕は、五花に、五花の熱い想いに、心から感激して、感動していて……!」
「そうですね。分かっていますよ。海斗くんは、心の底から、魂から、わたしの言葉と想いに、感激して、感動してくれていた。わたしはこれでも男心には詳しいですから、それくらい分かります」
「だったら、なぜそんな事を言うんだ……? 僕が君を馬鹿にしているなんて、そんな有り得ない事を……?」
「それはですね、わたしはわたしのクソビッチとしての悪戯心として、海斗くんにはわたしの事を好きなまま、そして、本物の、心からの満足をしたまま、死んでもらおうと思ってるからなんですよ」
「え……?」
「そもそも海斗くん、浮気がいけないんだったら、わたしは今頃死刑か懲役刑にでもなっているはずですが、現実にはそうなっていませんよね? これはどういう事ですか?」
「いやだって、確かに結婚もしていないのに浮気を禁止する法律はないけれど、それは世間の雰囲気というか、倫理的には許されない事で……」
「それは、海斗くんが死ぬという事より重いんですか? わたしの死にゆく海斗くんへの熱い想いより、大切な事なんですか?」
「……え!? だって……それは……」
「わたしは、人間にとって、死ぬより重い事って、たぶん無いなって今は思ってます。海斗くんは、この若さで、この世で何よりも重い出来事を経験しようとしているんです。それに比べれば、浮気とか、世間とか、倫理とか、本当くだらないですよ。海斗くんは、わたしがこの1ヶ月、どんな想いで海斗くんへの絵を描いていたか分かりますか? わたしは、本当に誠心誠意、海斗くんの事だけを想って、絵を描き続けていたんです。1ヶ月ですよ? これがクソビッチのわたしにとってどれくらい凄い事か、どれくらい一途な想いなのか、分かりますか? わたし、ずっと海斗くんの事を考えていたら、本当に海斗くんの事も好きになっちゃいました。人間の心って難しくて、制御できないものですね?」
「え……? だって……そんな事あるわけ……嘘に決まって……」
「ふふっ。そんな風に、他人を心から信頼できず、任せて委ねられない所も、愛しいです。わたしは、海斗くんのその、愛される資格がないと想っているところ……愛されていると信じられないところ……醜いところ……馬鹿なところ……弱いところ……そういうところ、全部ひっくるめて、全部が全部、愛おしいって、心から感じているんです……! 海斗くんの事が、全部大好きなんです……!」
「……っ!?!!? そんな……! そんな事、あるわけ……!」
「わたしは海斗くんの事が大好きだから、なんだったら、海斗くんに今までで一番すごいエッチな事をしてあげてもいいですよ? ちゃんとそのおバカな欲望を満足させてあげます。たっくんには少しだけ申し訳ないですけど、わたしが今したいと思ってるんですから、一番海斗くんのためになる事だと思っているんだから、たっくんにも止められないですよね? だって、死ぬより重い事なんて無いんですから……ああ、でももう海斗くんは病人だから、そんな事したら海斗くんの身体に障っちゃうか……それは海斗くんの事を心から想うわたしからすると、許せない事ですね……海斗くんはどう思いますか?」
「え……だからそんなのそもそもダメに決まって……!」
「……海斗くん」
わたしは、海斗くんに近づいて、ベッドの横に乗って、海斗くんの顔を、わたしの大きく育った胸で包み込むようにします。きっとふわふわの柔らかい胸に顔という敏感な箇所を包まれて、海斗くんは大変刺激的な状態に置かれ驚く事でしょう。
「……!?!?!!?」
反応は劇的でした。海斗くんは、混乱し過ぎて、良い感じに訳が分からなくなってくれたようです。良い感じですね。
「……これで、信じられますか? わたしは本当、わたしの身体の事とか、海斗くんにエッチな事をするとか、なんとも思ってないんですよ? 海斗くんが死ぬ事以外、すべてどうでもいいなって思ってます。海斗くんの事を心から想っているからです」
「うう……ううう……うううううぅっ……!」
気づけば、海斗くんは、泣いていました。
わたしの胸の中で、泣いていました。
なにが起こっているのか、わけも分からず、ただ泣いているようでした。
「ひっぐ……うえぇ……うえぇえええええええええええええ……!!」
わたしはそんな海斗くんも愛しいなと心から想い、海斗くんを抱き締め続けます。
「海斗くんは偉いです。親友のために、こんなにわたしが好きなのに身を引くところなんて、ゾクゾクしちゃいます。好きです。好きですよ、海斗くん。わたしは海斗くんが、心から大好きです。だから何も遠慮する事なんてありません。わたしが死ぬ前の海斗くんの心残りを、全て取り除いてあげます。大好きな海斗くんのためだからです」
「うわぁ……! うわぁっ……! うわぁああああああああああああああああ……!」
海斗くんは、感情が高まりすぎて、もはや絶叫する事しか出来なくなっているようでした。
愛しいなぁ……
本当に、愛しい……
わたしの心の中にあるのは、そんな、海斗くんの全てが愛おしいという人類愛そのものでした。
それが、純粋な恋心ではないのは、海斗くんにとっては残酷なネタバレかもしれませんが……
わたしはこれを、わたしがクソビッチであるからこそ出来る、逆にクソビッチでないと出来ない、わたしだけの、海斗くんへの救済だと思っています。
誰にも文句を言わせるつもりはありません。
というか、誰が文句を言おうと、気にもなりません。
だって、わたしは本当に、海斗くんの直面している死という問題に比べれば、すべて、わたしが恋をしているとかしていないとか、浮気をするとかしないとか、文句を言われるとか言われないとか、すべてすべて、些細な問題だと思っているからです。
それが今のわたしです。
世間とか、倫理とか、くそくらえです。
馬鹿じゃないですか?
人が死のうとしているんですよ?
わたしに出来るのは、ただ海斗くんを愛してあげる事だけです。
だから、海斗くんを、愛し続けます。
「好きですよ、海斗くん。本当に好きです。愛しています」
「うえぇ……! うえぇええ……! うえぇえええええええええ……!」
病室にいつしか差し始めた夕日の光は、どこか優しく、わたしと海斗くんの全てを慈しんでいるかのように、わたしには感じられました。
その光に安心して、わたしはさらに海斗くんを愛し続けます。
愛し続けます。
これは、そんな、世間からみれば禁忌でしかない愚かな行為ですが……
わたしと、海斗くんにとっては、何よりも神聖で、替え難い、絶対に無いといけなかった、そんな大切な大切な儀式でもありました。
「好きです。好きです。好きです。好きです。好きです――」
「うわぁああああああああああああああああ……!」
気づけばわたしは、ただ同じ四文字を繰り返し発し続けるだけになっていましたが……
一つ一つに心からの愛が込められているその四文字は……
海斗くんの心にあった禁忌という氷河を、優しく、優しく融かし続けたのでした……
そういえば、結局絵は使わなかったな……
わたしは、臨機応変に、タイミングよく見せるつもりで絵を持ってきていましたが……
まあ、世の中そんなものなのかもしれませんね。
あとで、海斗くんが落ち着いてから、ゆっくり見てもらいましょう。
今は、ただこの四文字を囁きつづける事が、何より大切な事だから――
「好きです。好きです。好きです。好きです。好きです。好きです――」
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