第13話 最後に五花と絵を描いてみたかったんだけどさ

「――わたし、昔は絵描いてたんですよ。それも、天才少女、なんて呼ばれてました。知ってました?」


「……実は知ってる」


 わたしが話し出すと、海斗くんは真剣な表情で、聞き始めてくれました。

 でも、海斗くんはわたしが絵描いてた事、知ってたんだ。


 なのに、あんな素晴らしい絵の数々を、わたしの見えるところに置いておいたの?

 嫌がらせかと思ってしまったけど、流石にそれはないよね?

 海斗くんは何かそれについて考えを持っているのだろうか?


 わたしは気になりながらも、話を続けます。視線は前を向いたまま、海斗くんの顔を見ないようにして、話し続けました。


「小さなときから、わたしはお母さんに絵の才能を期待されてました。それはもう、すごい勢いで、期待されてました。で、小さなときから絵の英才教育を受けて、8歳か9歳くらいの時には複数の絵画コンクールで賞を取るまでに成長していました」


「当時、わたしは自分に才能があるんだと思っていました。自分が絵を描けば、お母さんやお父さんや、周囲の大人たちが喜んでくれるんだって、無邪気に喜んでいました。調子にも、乗っていたと思います。ですが幸せだったのはそこまででした」


「わたしの考えは、儚い幻想にすぎませんでした。わたしは英才教育を受けていたからそれっぽい絵が描けていただけで、わたしの才能なんてガラスで出来た幻想みたいなものでした。いつしか、お母さんの期待が圧力に変わって、だんだんすごく、すごーく負担になっていって、わたしを押しつぶしていきました」


「お母さんは言いました。『そんな絵を描いちゃダメっていってるでしょう! そんなんじゃコンクールの人たちは喜ばないわ! もっと壮大で、芸術的で、子供らしさも演出した、そんな絵を描かないと!』って。クズとか、馬鹿とか、そんな言葉も使われるようになっていきました。わたしは、自分の描きたい絵を描いただけで、そうした言葉の暴力を山ほど受けていました。そうした中で、わたしは大人に受ける絵、コンクールに受ける絵みたいなものを、学ばされ、強制されていきました」


「それでもわたしは、描き続けました。幼いわたしは、母親に認められたかったのです。母親に、少しでいいから愛してほしかったのです……それでも結局、最後まであの人は、愛しているとは言ってくれませんでしたが……それでもわたしは、描いて、描いて、描き続けて――」


「ある日、わたしは突然彫刻刀を持って、自分の描いた絵の一つに、思いっきり彫刻刀を突き刺して、切り裂きました。その瞬間、それが何だか痛くて気持ちよくて、衝動が止められなくなって、そのまま今まで描いた絵の全てをズタズタになるまで切り裂いて回りました。彫刻刀の扱いも間違えてしまっていたので、手も傷ついていて、あたりには血が散乱しました」


「わたしのお父さんは、それまで仕事が忙しくて、あまり家にいなかったのですが、その日はたまたま早く帰ってきていて、わたしに何があったのか聞き取って、当然お母さんに激怒しました。二人の関係はそのまま離婚まで行き、お父さんはいったいどうやったのか、親権を獲得してしまいました」


 そこまで話して、わたしは一息をつく。


「これがわたしの幼少期です。いかがでした?」


 そう思い、わたしは横に座る海斗くんの顔を振り返ると――


 ――海斗くんは、両目から、ぽろぽろと涙を流していました。


「辛かったね……辛かったね……五花にそんな事があった事なんて……僕は、それが、辛くて、辛くてたまらないよ……」


 驚くべき事に、この少年はわたしにボロボロ泣くほど感情移入してくれていたようでした。


「なにがそんなに辛いっていうんですか。わたしは別に、昔の事ですし、そこまで……」


「それは嘘だ。だって五花は、未だに絵を描こうともしていないじゃないか!」


 それは鮮烈な刃となって、わたしの心に突き刺さりました。


「何を……」


「僕の描いた絵を見たときのあの辛そうな表情だって、今ならどれほど辛かったのかはっきりと想像できる! 僕は馬鹿だ! キミの事を思うなら、僕はキミに、一切絵の事なんて思い出させるべきじゃなかった! ただ、昔コンクールでキミの絵を見かけた事があって、その絵に心から感動した事があって、キミが今絵を描いていないからといって、絵を見せて反応を見ようとなんてして……」


 その言葉には、わたしは心底驚かされた。


「なんですって……?」


「だから、僕はキミに絵を見せるべきじゃなかったって……」


「そこじゃない! そこじゃなくって……!」


 ああもう、なんでこの海斗という人物は、普段あんなに賢いのに、感情が高ぶると馬鹿になるんでしょう……


「わたしの絵を、見かけた事があったって……」


「なんだ、その話か。そうだ、僕は市役所のホールに飾ってあったキミの絵を見た事があるよ。10歳になる少し前だったかな。凄く綺麗な雲と深い色合いの青空の絵だった。空をファンタジーみたいに大きな鷹が飛んでいて、それに幼い女の子が楽しそうに乗っていた……筆のタッチも独特で、まるで熟練のプロの画家が描いたみたいだった。あれを僕と同い年の女の子が描いたんだと気付いた時は、衝撃を受けたよ。作者である五十鈴五花の名前は、その時の僕の中に深く刻み込まれた」


「何ですか、それ……そんな馬鹿みたいな話……」


「あの絵を見た日から、僕は絵に対するスタンスを根本から変えた。暇な時間の全てを絵に捧げた。10歳やそこらでは難しい絵画資料も色々漁って、専門的な技法の勉強も行った。僕は、自分だってあんな絵が描いてみたいと思った。だから頑張れた。その甲斐あって、2年後には、全国的なコンクールで賞を取る作品だって描けるようになったんだ。それも全て、あの日キミの絵を見たおかげなんだよ」


「やめて……ください……」


「だから、僕はキミの事を深く尊敬しているんだ。中学3年まで、クラスが違ったから話しかける勇気も出なかったし、美術部にもキミは入っていなかったから、絵を描いているのかも知らなかった。そんな中でキミから僕に話しかけてくれた時は、驚いたな。それでさらにキミがあまりに可愛くて、僕の心を大胆に刺激しまくるものだから、僕はすっかり舞い上がって、あっという間にキミの事が好きになってしまった」


「だから、やめてって……」


「いや、やめない。これは大事な、大事な話だから」


 気づけば、海斗くんは、わたしの左手を右手でぎゅっと握って、その力強い意志を伝えてきていました。


 わたしはドキリとしました。


 そうなのかな。


 これは、そんなに大事な話なのかな。


「それからの事は、キミも知っての通りだ。僕はキミの誘惑に翻弄されて、理性をすっかり失ってしまって、馬鹿みたいな事をいっぱいやったさ。でも、僕はそんな中でも、キミという少女が、絵を怖がっている事を見抜いて、そこに触れないようにしつつも、それをなんとか探ろうと、慎重に動いていた。全ては、キミの事が好きで、キミの才能もまた、僕は大好きだからだ」


 海斗くんは、その端整な顔立ちで、わたしを真っ直ぐに見つめて、そう力強い言葉を口にする。


 わたしは、その格好良さにドキドキしてしまわなかったというと嘘にはなりますが、実際のところわたしの心を占めていたのは、それよりも「怖い」という感情でした。


 そうです。


 わたしは怖かったのです。


「わたしは……海斗くんが怖いです。まるで、封印したわたしの嫌な想い出を、掘り起こそうとしているかのようで……」


「五花にとって、それがどれほど怖いのか、僕には想像する事しかできない」


 海斗くんは、月のように儚げな風貌だと思っていたのに、いまは太陽のようなまなざしで、真っ直ぐにわたしを射抜いてきます。


「それでも、僕は五十鈴五花の才能は忘れられないから。だから、僕は五花が勇気を持ってその恐怖を乗り越えてくれる事に期待して、こう言いたい」


「そんな勇気なんて、わたしには……」


「五花、僕と一緒に、絵を描いてみないか? 広いキャンパスに、僕と共作で、一枚の絵を描き上げるんだ。描くものはなんだっていい。五花は自由に描いてくれればいい。僕がそれに合わせるから。だから……」


 わたしの左手が、これ以上ないほど強く海斗くんの右手に握りしめられる。


 それほど、この言葉にかける海斗くんの想いは強い物なのだろう。


「僕と絵を描いてくれないか、五花!」


 わたしはそれについて、一度は考えてみようとしました。


 ですがその瞬間、凄まじい恐怖の嵐に襲われて、あっという間にわたしの心はズタズタにやられてしまいました。


 だって怖いです。


 わたしが絵を描くなんて、ありえない事です。


 それも、海斗くんなんて、才能の塊と一緒なんて……


 この人は昔のわたしの絵が好きなだけで、今のわたしの気持ちなんて何一つ理解していないと、そう思いました。


「……絶対に嫌です。それだけは諦めてください。次それを口にしたら、わたしはあなたと別れます」


 だから、わたしはそんな恐怖のままに、強い言葉で海斗くんを否定します。


 すると海斗くんは、その太陽のような眼差しを日食にでもなったかのように真っ暗闇に染めて、抜け殻のようになって手から力を抜きました。


「そう……か……ダメか……そうだよね……嫌にきまってるよね……」


 海斗くんは、そっと握っていた手を、わたしの左手から離します。


 わたしはそれが、何か大切なものを失ったかのように感じられて、さきほどとは別種の恐怖に襲われましたが。


 次の一言で、そんな恐怖すら全て忘れて過去になってしまいました。


「僕、余命2ヶ月しかないらしいから、最後に五花と絵を描いてみたかったんだけどさ。そんなの僕のわがままだよね。ごめんね、五花。すぐには許せないかもしれないけど。どうか、許してほしい……」


「へ……?」


 その瞬間、わたしが受けた衝撃は、先ほど海斗くんがわたしの絵を見た事があると告げたときとも、比べ物にならないほど大きなものでした。


「僕、余命2ヶ月しかないらしいから」


 その言葉が、頭の中で、何度も何度も反響して、それしか考えられなくなって……


「どういう事ですか……」


 わたしはそう問い詰めずにはいられませんでした。


「どういうって……」


「余命が! 2ヶ月って! どういう事ですか!!」


「ああ、それか」


 海斗くんは、信じられないことに、そんなの大した話でもないのに、と言いたげな口調で、軽い調子でこんな話をしました。


「獣化病って知ってる? 人間の身体が、DNAの異常で獣に先祖返りしちゃう奇病ってやつなんだけどさ。その過程で、人間の身体と色々整合性が取れなくなって、内臓とか、脳とかの異常で、あと2ヶ月くらいで死んじゃうんだってさ。治す手立ては、現代の医療ではないみたいなんだ」


 その瞬間、わたしは、目の前が真っ暗になりました。


 2ヶ月で死ぬ。


 海斗くんが。


 あの、才能の塊で、賢くて、格好良くて、わたしにメロメロで、たっくんの親友な海斗くんが、死ぬ。


 そんな、馬鹿な……


「言わないと……」


 わたしは、それしか考えられなくなっていました。


「たっくんに言わないと……!」


 わたしは、立ち上がり、その場から走り、逃げ去ります。


 海斗くんは、いったい何を考えていたのか、黙ってそんなわたしを見送ってくれたようでした。


 正直いって、海斗くんとこれ以上何を話せばいいのか、わかりませんでした。


 だって死ぬんですよ?


 たった2ヶ月で、海斗くんは死んじゃうんです。


 なのに何を?


 何を話せって言うんですか?


 五十鈴五花とかいう、海斗くんの事が好きですらないクソみたいな彼女が、いったい何を?

 

 それでわたしの脳裏に閃いた、ちょうどいい逃げ道が、たっくんに言わないと、というものでした。


 たしかにそうです。


 たっくんに、一刻も早く知らせないといけません。


 だって、たっくんは親友で、海斗くんの何よりも大切な親友で、わたしより海斗くんを優先するくらい海斗くんの事を想っていて……


 心の中がぐちゃぐちゃとしていて、わたしは走りながら吐いてしまいそうでした。


 必死に吐き気をこらえながら、わたしは走ります。


 気づけば両目から涙がこぼれていました。


(どうしてこんな事になっちゃったんだろ……!)


 それでもわたしは走り続けます。


 目指すは自宅のたっくんの部屋。


 そこでわたしは告げなければいけません。


 海斗くんと会っていた事。


 そこで海斗くんに聞かされた全て。


 中でも、その短すぎる余命についてを……!

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