怪異究明部活動録

@gayama

止まない雨天/晴天蜻蛉

「人間とは考える葦」だという言葉は誰が発したものだっただろうか。人間は常にインプットしアウトプットを行い発展し続ける事で生存競争に勝利してきた。膂力、馬力が他の生物とは圧倒的な差をつけられているホモ・サピエンスが今や弱肉強食の世界で強者側に君臨できているのは偏に「思考」の有無が大きいだろう。ならば、考える事を停止してしまった葦に果たして価値は存在するのか。古きを淘汰できぬ人類に未来はあるのか。

――過去を乗り越えられぬ人間は薄弱か。


…なーんて、こんな面白さの欠片もなく、蕪雑な思考に耽るのも高校生にのみ許された特権ではなかろうかと校舎の屋上で思索に沈む。一般的な初等学校、中等学校、高等学校とは屋上を開放していないものだが、これは由々しき事態だと勝手に認識している。だってそうじゃないか、近年問わず学校が関係する創作には屋上が必ずや付き物だろう?であれば当然、現実と理想の落差に心を痛める生徒が続出するのも容易に想像がつく。まあ、屋上を解放することによるリスクも理解していないわけではないが……だが、考えてみてほしい。急に黄昏れながら微風を浴びたい日くらいは教師や生徒なんて壁は無しに誰だってあるものだ。


さて、エピローグの前置きはこのくらいでいいだろう。

そうだな、今回のレポートにタイトルをつけるとすれば――――


――――――――――――


今では逆に目新しい古風なチャイムがHRの終わりを告げ、皆は一目散に己が目的の為、蜘蛛の子散らす様に行動する。それは帰宅であったり、はたまた部活であったり、はたまたまた補習であったりする。居眠りで負荷を掛けた重い腰を上げ、部活へと向かうことにする。当初は特に部活に参加する気もなかった。思い出作りの為に自分の睡眠時間を削るのが嫌だった所為でもあるが。

そんな入学早々から極めて弄れた根暗な意見を主張していた頃に、顔も名前も知らない初対面二人に半ば強制的に入部させられた部活がある。

それがここ――――


「――怪異究明部、か」


今は高校二年生の10月、本格的に進路について考えなければならない時期だ。そんな時にこんな部活に参加をしている俺を蔑む声も聞こえてきそうなものだが、自身の尊厳の為に釈明させてもらうと、ここも存外悪くはないと言うことだ。ドアノブに捻りを加え、その先の景色を妄想する。

何故なら扉の向こうには賑わしくも温もりのある仲間が歓待をして待って――――


「…………」


――――居ないからである。一年の時に無理やり勧誘を受けたにも関わらず、二人の同級生と部室で顔を合わせた事は狐や狸の指の本数程しか無い。それを俺は無責任だと叱責することも怒号を飛来させる事も望んでいない。理由は唯一つ、この空間が心地よいから以外には無い。誰も居ない空間だからこそ、勉強にも集中できるというものだ。まぁ、集中できるからといって勉強をする訳では無い所に人間の怠惰なる部分が詰まっていると思うが…いや、今の発言は己の怠惰さを人類の原罪に被せたわけでは無い……多分。


閑話休題


部活動の活動としては多岐に渡るが、主な内容は『調査』『推理』

そして――――


「…ここで本当に合ってるのか?」


――――『厄祓』だ。


「こんにちは、生徒会長さん」


秋の落葉のような明るめの茶髪をした、ポニーテールでキリッとした目つきの女性はこの学校に一人しか居ない。

だが、何の用でこんな所を訪ねたのだろうか?廃部通知はこの間受け取ったから恐らくその関係ではないかと邪推する。


「…他の人は居ないのか、ここに居るのはお前だけか?」


「見ての通りというより一目瞭然です。他の部員はオカルトだけに幽霊部員!ってことですね…笑い、堪えてます?」


まず面白いギャグで空気を掻っ攫おうとしたが、そんな雰囲気じゃないようだ。

少し顔を顰めているし、椅子で読書して寛いでいる俺を見下したような視線を受ける。


「堪える笑いが無いから今この顔って分からないようだな?…もういい、絢音先輩の紹介だったから来てみたはいいものの…部員すら揃ってない上にギャグのセンスも無い男に用はない…それにどうせ、不可能なことだ」


「…ちょっと待って下さい」


入ってきて早々踵を返して帰ろうとする生徒会長を呼び止める。その理由は大きく分けて3つ。1つは一応こんな閑古鳥が悲鳴を上げるような部活でも、「部活」の形式を取っていることだ。当然部費は少額ながら支給してもらっているわけで、それに見合った活動を行わなければならない。2つ目は彼女が絢音先輩――自身の先輩――を信頼する事を選択した結果として此処に来たとしたら、俺はその思いには応えなければならない。それは以前、怪異の事で俺を尋ねて信じてくれた絢音さんへの恩返しにも繋がるからだ。そして最後の3つ目、これが一番大きな理由だ。それは――――


「…私が抱えている問題モノは並のものでは無い、しかも他人にはあまり知られては欲しくない事だ。それをお前に打ち明けるということは…お前は必ずそれを請け負い、遂行しなければならない…仔細は存じないが、絢音の悩みを打ち砕いたようにな。それでも受けると約束できるのか?」


「――――まぁ、『暇』ですから」


生徒会長は俺の舐め腐った戯言を聞いてどこか安心したようにフッと笑い、眼の前のソファーにゆっくりと腰を下ろした。


「…さて、もしお前が私の要件を解決できたら私は報酬を払わなくてはならないだろう?」


「同じ学校ですし料金は受け取りませんよ、勿論前金もです。というか欲しくないですね。だって前金を受け取ったら責任が生じるじゃないですか」


「お前がそう言うだろうことは絢音先輩から聞いている。だが私は何も対価を支払わずに願望を押し通そうとするのは嫌いな性分でな…だから別の報酬を考えた。今度の生徒総会で話す内容に怪異究明部の廃部案が上がっている。それに異議の声を上げたのは絢音のみだ」


「…うーん、こんなトンチキブカツモドキを何時迄も放置しておく訳にはいかないでしょうしね」


殆ど部活動らしい活動をあまりしてこなかったので廃部になることに関してはあまり反論する気も起きないが…それはそうと、朧気ながらだんだんと話の終着点が見えてきたような気がする。…そしてそれは俺の予想が正しければ説明がつかない事だ。


「この学校の生徒会は基本的に内部で多数決を取り賛同か不賛同か意見を集う方式だ。賛同派が多ければそのまま継続、不賛同派が多ければ全体に公表し是非を問う」


そう、生徒会の役員メンバーは基本的に生徒会長、副会長、書記、会計、庶務だ。そして異議を唱えたのが絢音さんだけなら他四人は賛同側に回るはず。


「…そして今、生徒会内では私を除き2対2で意見が割れている」


「…えっ、異議を唱えたのは絢音さんだけじゃなかったんですか?」


「賛同派に意見を入れたのは書紀だな。奴云わく『こんな部活があってもいいっしょ〜青春青春!』とのことだ…ん?青春?」


おい、周りをジロジロと見回すな、ここにはお前と俺しか居ねぇよ。悲しいことにな。

先程、閑古鳥が悲鳴を上げると形容したが此処で改めて訂正させてもらおう。

悲鳴を上げてくれる閑古鳥すら巣立ち何処かへ飛び去ってしまったようだ。


「だから…もしお前が私の悩みを解決してくれたのなら――私がお前の味方をしてやろう」


「…成程、それは最高ですね」


別に報酬を受け取る気も無いし、廃部になったとしても特に何とも思わないが相手が受け取ってほしいと言うなら受け取ってあげるのが優しさだろう。人間として、無料を怖がるのはその中でも賢者の特権だ。


「……じゃあまず何から話せばいいものか」


「あ、ちょっと待って下さい。長くなりそうなので紅茶入れてきますね。砂糖は入れるタイプですか?」


「お前は話の腰をよく折るな…砂糖はいらない。それにしてもティーポットと紅茶が部室にあるなんて中々に洒落ているではないか」


「ああ、部費が余ったんで買いました」


沸騰した湯を茶葉に入れて、軽く蒸らしながら質問に答える。

それを聞いた生徒会長は胡乱げな視線を向けてジッと俺を睨み、呟く。


「…それは部活に関係あるのか?」


「…あはは、紅茶入りましたよ」


質問から逃れる為に拙い苦笑いを作りつつも紅茶を生徒会長と自分の分をテーブル上に置き、自らもまたソファーの上に座り向かい合う。そして「再度考えてみたが」と生徒会長が真剣な眼差しで言うものなので緊張して此方も背筋をピンと伸ばし相対する。


「……何故丁寧語なんだ?お前と私は同学年だろう?」


まず話すことはそれかとツッコミを入れたくなる気持ちを抑え、同時に同学年に丁寧語は若干距離があるのかと自省する。今までずっと丁寧語でやってきたからそういう意識が薄いのかもしれない。


「俺なりの生徒会長様に対する敬意ですよ」


「じゃあ今度からはタメ口でいい、そっちの方が私も気が楽だからな」


「あー、分かった」


「じゃあ次は自己紹介をすべきだな」


意味がわからない、依頼の相談をしに来たのではないのか。

この時、俺は内心に留めていた筈だがどうやら顔に出てしまっていたようだ。


「何だその顔は、自己紹介なんて人生未経験でなければ何回も通過必須の門だろう?」


「…別に、ただ……自己紹介はあんま好きじゃないだけだ」


「……ふむ、そんな人間もいるのだな、私は秋月 陽火アキヅキ ヨウカ、生徒会長を務めさせてもらっている。お前が自己紹介したくないならしなくてもいい。私は全校生徒の名前を総て暗記しているからな」


それは凄すぎる特技だ。記憶力が並大抵の人間よりずば抜けて良いのだろう。普通の人間であれば暫く会ってない人間でさえ顔と名前が一致せず気まずい空気になる事などザラにあるというのに。それだけ覚えても殆ど使い道など無いだろうに。そう、精々自分の名前を名乗ることさえ嫌がる捻くれ者相手ぐらいにしか有効にならないだろうが……此処で名乗らないのは流石に不誠実が過ぎるだろう。


「…俺は東頭 因循トウヅ イノメ。自己紹介が昔から嫌いなのは主に名前のせいだ。イノメって女っぽい名前だろ?それに……漢字が気に食わないな」


「漢字で書くと因循インジュン…か。意味は確か――」


「――古い習わしに囚われて変化しないさま、また思い切りが悪く、煮え切らなく、引っ込み思案な様…はぁ、最悪な名前だろ?」


「ふむ、ならば、東頭とこれからは呼ぼう」


「そうしてくれると助かるよ、秋月」


「……さて、では東頭。本題に戻ろ――――――」


秋月がそう言いかけた瞬間、そう、時間にしてみればほんの一瞬だったと思う。

【パキッ】という、音色が響いた。それは緻密で濃密な時間を費やした出来の良い硝子細工を、一瞬で床に落としてしまった時のような儚げな音階であった。

秋月の瞳孔が揺らぎ、そして――――――指先が俺を刺し貫かんと飛来した。


「……成程、これは少し厄介だ」


心のなかで合点がいく。体を少し横に捩り、脇腹から臓物がまろびでる事を回避する。その避けた代償、またはifの未来の暗示を指し示すかのようにソファーからは綿が飛び出ている。何故秋月は急に敵対行為を見せたのか、それは今、眼の前で白目を剥き涎を垂らしている姿を見れば一目瞭然だろう。…恐らく怪異による影響だ。


「ウウウウウウウゥゥゥァ!!!!」


獣のような唸り声を微かな呼吸の間に漏らしながら、もう片方の左手で刺し射貫かんと迫るがそれを右足で上に蹴りいなす。そして立ち上がりながら肘で下顎を強打し、秋月は足元が覚束無くなり転倒しそうになるもそのまま体勢を立て直す。


「手心に真心を加えて相手しますんで、ギブなら白旗振ってくださいね」


東頭は少し目を細めると、瞳の中が怪しげに光り続け様に呟いた。


「――――『■■』」


意識が混沌に呑まれた秋月にとっては届かない言葉であり、また本能的に避けてしまったのであろう。

東頭因循が紡ぐ忌むべき言の葉を。


――――――


「ん…う〜ん……って!東頭!怪我はないか!?私はどのくらい寝ていた!?現在の日経平均は!?」


「一文に色々詰め込みすぎだろ。見ての通り怪我は無い。寝てたのは30分位。日経平均は…知らん」


そう言いながらすっかり冷めきった紅茶を喉に流し込んでいると、秋月は安心したように胸を撫で下ろした。


「こっちも質問責めさせてもらうが…まず、どこまで記憶がある?」


「私の精神の意識の話であればソファーを突き破るところまで……ってん!?あれ!?ソファーから零れた綿は!?」


「……さぁ、錯乱状態にでもあったんじゃないのか?じゃあ次の質問だ、あれは何だ?そして何時から奪われている?頻度は?…それとも今回が初めてか?」


「あれは何か、という質問に対しては私も何が何だか分からないというのが答えだ。そして自覚し始めたのは中学生の頃で、頻度は…分からないが一つだけはっきりとしている事がある。――頻度が確実に縮まっていることだ」


中学生からある一定の間隔で体を乗っ取られ、気性が荒くなり正常な判断ができなくなる。…これだけだと判断が出来ないな。怪異にも人の体を乗っ取るタイプなど腐るほどいる。


「……音、聞こえたか?」


そう気弱に告げる秋月の声は少し震えており、何処か儚げに顔を曇らせていた。


「…ああ、俺の想像が正しければだけどな。ガラスが砕け散ったような音が鳴り響いてからお前の意識が直ぐに乗っ取られた」


「そうか…実はな此処に来たのはその件もあるのだが、本当に相談したい事はそれではないのだ。あの音が響くと――――」


秋月は仔細顔で口を噤み言うのを躊躇したかのように目を瞑るが、決心を固めた表情になり向き合い俺に告白する。


「――――記憶を喪う」


俺は思わず目を見開いた、というよりかは目が閉じられなかったのかもしれない。それが本当だとは信じたくなかった。だとしたらそれは途轍もないほどに残酷で冷酷で酷すぎることなのだから。つまり、さっきのあの瞬間、秋月陽火は記憶をまた失ったことになる。


「医者には若年性アルツハイマーの可能性があると言われ検査をしたが、脳には何も異常はなかった。他の病の可能性も探ったが異常無し、一応支給された薬も飲みはしたが効果は無しときたものだ。辟易とする」


記憶を失う病気、例えば今上がった若年性アルツハイマーの他にも若年性認知症、そして一番有り得るのが精神病。その中でも心理的ストレスによる解離性健忘などが有名だが…そうだと信じていればこんな部活にまで助けを求めに来ない筈、だからもっと大きな理由があるのだろう。


「…思い出すことは出来ないのか?」


「出来ない。まるでそこだけ剥がれ落ちたかのように断片すらも思い出すことが出来なってしまっている。必死になって思い出そうと目を瞑り何時間も探しても何も無い。…ただ聞こえるのはだけ」


「……羽音?」


話を聞きながらも様々な病に特徴を当てはめていき、やはり解離性健忘の発症が濃厚だと思考していたときに、最後の一言が雑音ノイズとなって急停止した。


「それと……東頭にはこれも見せなければならないな。これは医者にも見せていないのだが……」


「ちょっ!お前なんで急に脱いでんだよ!?」


突如セーターを脱ぎシャツのボタンを一個ずつ外し始めた秋月に思わず動揺し目を背けてしまう。秋月は眼の前にいる男の事など意にも介さず、やがてシャツごと脱ぎ捨ててしまった。俺は直ぐに目を覆おうとしたが、視界にチラリと明らかな異物が見えた為、手を下ろして凝視すると、ああなるほど。と勝手に納得した。

――これは確かに、医者の専門外だ。


「…あまりまじまじと見てくれるなよ、乙女にも羞恥心というものがある」


そこに在ったのは思春期の男子高校生が見惚れるような単なる女体美ではなく、教科書の西洋美術史に載る程に息を呑む光景だ。

なんと形容したら良いものか。自身の拙く乏しい語彙では表現することも叶わないが、例えるとしたら――ステンドグラスの様だ。下腹部に妖しげに光る破片が網目状に集合したその見た目はまるでパズルのようだ。ただ、パズルなら完成形があるはずだ。全体図で見ると……羽音にこの形、そして模様ということは――――


「――この形、『蟲』の羽だ」


「……虫?」


「ああ。主観だが、蟲の羽に酷似している。そうだな…近いものは飛蝗や兜虫か?どれにせよ、『羽音』『羽模様』『記憶』で怪異を大雑把だが絞ることが出来たと見て間違いはないだろう」


「本当か!?」


「…本当ではあるものの、『大体』の傾向が掴めたというだけだ。…だから教えてくれ、秋月が今覚えている昔の事を」


秋月はシャツを着た後に再び椅子に腰掛けて物憂げな表情を浮かべる。


「……憶えている事などほぼ無い。私が小学生だった時の記憶は殆ど既に抜け落ちている」


――ただ薄っすら憶えているのは、罵声が絶えない家庭だったこと。

そう呟く秋月はもう、思い出すことすら叶わないのだろう。辛いことだけ忘れられたらいいが、妹との思い出だって中には残っていたはずだ。


「それは辛い事を聞いた、すまない」


「問題無い、今は両親は事故で亡くなりお爺ちゃんと妹と共に暮らしている。それからは小学生の頃から少しずつ続けていた剣道を中学で本格的にやることになり今に至る…参考にはならないだろう?」


「いや、そんなことは無い。もう帰ってもいいが…念の為、送っていこう。チャリか?電車か?それとも車?」


「徒歩だが…お前はいいのか?」


「頻度は短くなっているんだ、用心するに越したことは無いだろ?」


「む〜、理に適っている……では校門で落ち合おう!」


「一緒に行かなくていいのか?」


「生徒会の資料を持ち帰って家でやるから先に行っていてくれ」


生徒会って忙しいんだなと思いつつ、去年の絢音先輩の事を思い出して苦笑する。

多分あの人はあれはあれで優秀だったのだろう。


「分かった」


俺達校門を出てから少し歩いた先にある公園で待ち合わせをする事になった。今は10月、夏の余韻も微かに残る頃であり、そろそろ涼しくなってもいいと思う季節だ。


「ん…来たか」


もう来てたのかと言いかけた所で秋月が指を一本立ててシッと俺を嗜めた。そんな秋月を訝しむと目線の先には一匹の蜻蛉が止まっていた。


「幼い頃、お爺ちゃんが得意だったんだ。ほら、試した事はないのか?トンボは先の尖ったものに留まるから指をピンと立てていれば来るって」


「虫は嫌いだ、具体的には生理的にだが……にしても、得意『だった』か」


「え、いや、別に死んでないぞ?今も一緒に暮らしているしな」


どうやら俺の恥ずかしい勘違いだったようだ。それから暫時とも言えないくらいの時間が過ぎた頃に蜻蛉は飽きたのか、それとも眼の前のウドの大木が実は生命体だという事に気づいたのかは定かではないが大自然に羽を羽ばたかせて行ってしまった。


「あっ、行ってしまったか。では遅れないように私達も行くとしようか」


その別れを惜しみもせずに席を立つ秋月は、また出会いがある事を確信しているかのような優麗な言葉をその場で綴った。俺も飛び立った蜻蛉を目で追いつつも後をついて行った。


「好きなんだな、虫。女子なのに」


「ん〜……いや、別に好きという訳ではないな。トンボだけ、私の中では特別に触れるんだ。知ってるか?剣道っていうのは『トンボ柄』のものが多いんだぞ。竹刀袋とかな」


「それは初耳だ。因みに理由まで知ってるのか?」


「ああ、私も気になって調べたことがあってな。トンボは別名、勝虫というらしい。そして別の言い方が勝虫と書いてカッチュウというらしい。それが起因となり武士などの甲冑が生まれたらしいぞ」


さすが剣道部だけあって物知りだと感心する。もしかして剣道をやっている者であれば常識なのだろうか…いや、多分秋月が勤勉なだけだなと自己完結する。それはそうと……


「……なんで勝虫なんだ?」


「さぁな!そこまでは知らん!」


秋月にも知らないことはあるのだと当たり前の事を実感しつつ、帰ったら調べようと思いその後も細々とした雑談を交わしながら家の前に辿り着いた。


「では今日はありがとう、感謝するよ。また進展があったら――」


秋月は一度家族を失っている。不幸中の幸いというべきかその家族の性格は良くなかったそうだが、今暮らしているお爺ちゃんと妹は余程大切なのだろう。聞いてる側の俺も暖かく感じた。だからこそなぁなぁにしてはいけないのだ。


「――――明日の午前一時、怪異を祓う」


「明日!?というかそれはもう今日みたいなものじゃないか!?……だ、だがそんな事出来るのか」


それを聞いた秋月は目を思いっきり見開いて、扉を閉める手が止まった。


「もう既に目処は立っているし、後数時間ファイリングすれば分かる事だ。…それにもし家の中で暴れて、お爺さんや妹ちゃんを手掛けたら秋月はずっと後悔して生きるだろ?」


「そう……だな、ではよろしく頼むことにしよう。此方で何か用意するものはあるか?」


「まず体を冷水温水は問わないから清めてきてくれ、それと零時から三十分以内に塩水を200ml飲んでくれ、これは規定量を超えていれば問題無い。後は最低限度の護身用の物…そうだな、竹刀でいい。そして最後に正装を着てきてくれ」


「せ……正装?それはどんな感じの奴だ?」


「漢字の通り、お前が“正しい”と思う装いで来い。別に正解不正解は無い。これが出来たらさっき言った時間に怪異究明部を尋ねろ」


「…ああ、承知した」


秋月の顔には不安など色々な感情が混ざったような、それでいて安心したような、そんな顔に俺は見えた。

…全く、俺はギャグがつまらないそうなんだがな。


「あっ、一番大事な事を伝え忘れていた――」


「…ん?何だ?」


「――古臭いかもしれないが『覚悟』、忘れないようにな」


「フフッ、そのようなものは私にとっては常時常在、そして常識だ」


秋月はポカンとした顔を浮かべたものの、今回は無事に笑わすことが出来たみたいだ。


「だと思ってたよ、じゃあまた後で」


秋月と念の為に連絡先を交換してから別れ、暫く一人で来た道を引き返す。今回はもしかしたら自分の手には負えない案件かもしれない、というか見えを張っただけで恐らくそうだ。だが相手が何であろうと最低限なんとかできる。これは根拠の無い自信ではなく、寧ろ結果から逆説的に証明された論拠と言えるだろう。


「……それで二人で歩んで一人で帰ってきた旅路が何時の間にか、二人で仲良く帰ってるのはどういう事なんでしょう?そこにいる人に聞いてるんですけど」


指を指した場所は虚空、何の変哲も無い一般的な住宅の混凝土の壁である。だが俺の声に呼応するかのように人型に壁面の一部が浮かび上がる。


「因循くん、それは前提が間違ってるよ?私達は三人で闊歩して、二人で帰還したじゃないか。つまり君は一人じゃないってこと!」


「――絢音先輩……」


えらく緩いその声帯の持ち主は羽綿根絢音。俺がこの部活動で初めて怪異の任務を請け負った女性だ。学年は高校三年生、去年までは生徒会長をしていて秋月の面倒もよく見ていたそうだ。


「……高3の10月なのに何してんすか」


「もー!!推薦取ったからもういいの!!馬鹿!」


絢音先輩が癇癪を起こした子供のようにジタバタと気が済むまで暴れるのを見届けると、急に雰囲気がしおらしくなり物を壊してしまった子供のように小さな声で目を逸らしそっと呟く。


「それにしても……ごめんね?」


「何がですか?」


「陽火ちゃんの事、押し付けちゃったでしょう?一応これでも私も調べてみたんだけどね〜…詳しいことは何一つ分かんなかったよ」


調べて分からなかったと絢音先輩は言ったがそれは当然の事だ。図書館やネットで調べて簡単に出てくるような有名な怪異ばかりでは無い。…そして無名だからといって途轍も無く弱いと言う事も有り得ない。これは極論だが、無名ということは出逢った相手全てを殺害、若しくは封印に至っている危険な怪異かもしれない。

ではどうやって情報を入手するのかだが、主な手段は地方に遺っている文献などだ。だが現地に行くわけでは無い、俺と同じ部活の一人にかなり大きい伝手をもった同級生がいる。そいつの一族が形成したデータベースによって俺も恩恵に与っている形だ。


「大丈夫ですよ、絢音先輩の頼みですし、先輩には恩がありますから」


「おっ?嬉しい事を言ってくれるね〜…と思う反面、頭の中ハテナなんだけど。だって私を助けてくれたのは因循くんじゃんか?」


そうだ、あの日怪異に呑まれて欲望を抑えきれなくなっていた絢音先輩を救ったのは俺だ。でも違ったんだ、ああなった一端だって俺にはあるはず。


「…いえ、あの日本当に助かったのは俺の方でした。貴方が俺をこの道に連れ戻してくれたんです」


「そっか…後悔はしてないの?また君は危険な目に遭うよ」


そう胡乱げに巧言する先輩はきっと探っているのだろう、俺の本意を。先輩は変な所で優しいから、後輩がいつ死んでも可笑しくない場所に身を投じるようになった責任がその身に上手く伸し掛かっているのではないだろうか。

だとしたら余計なお世話だと言ってやる他ない。


「それでも…俺は今のこの部活にやりがいを感じてますよ」


「……うん!それは良い事だね!先輩ポイント120追加!ジュースを買ってあげよう!」


俺の発言を聞いて先輩は向日葵のような朗らかな笑顔を見せると近くにあった自販機に先輩ポイントと呼称された日本国通貨を120円分いれてオレンジジュースを買い、そのまま丁寧に俺へと渡した。


「ありがとうございます、それで『白鼻芯』の調子はどうですか?」


「もうすっかり収まったよ。それどころか…ほら!」


絢音先輩は片足の爪先で一回転し終わる頃にはその姿が無色透明となりこの世界からは視認できなくなっていた。

その様子に尊敬半分呆れ半分で称賛とも侮蔑とも取れないような嘆息をつく。


「もう使いこなしてるじゃないですか…」


「ふふん!人間とは往々にして成長するものなのだよ」


…まぁ、安心は出来たかもしれない。先輩も自分の身に降り掛かった怪異としっかりと向き合っていることが伝わってきた。今思えばその姿を俺に見せたかったのかもしれない。…それは思い上がりか、なんて考えつつ物凄い勢い飲み終わったオレンジジュースの缶を潰してゴミ箱へと投げ入れて背を向ける。


「もう大丈夫みたいですね、じゃあ先輩、またいつか」


「……ちょっと待って、因循くん」


今日発した中でも一番シリアス気質な声が先輩から発せられて、多少の動揺を含みつつ背後を振り返る。


「なんですか?」


「これは戯言だと思って聞き流してくれて構わないんだけど……陽火ちゃん、多分だけど何かを誤認している気がするの」


…誤認、つまりそれは秋月から相談を受け話を聞いているうちに形容し難い齟齬を感じたという事か?

何かまでは分からないが誤った認識を秋月は持っている、か。情報というのはその情報源が信頼できるものでなければ価値は無い。戯言と等しいと発言していたが、ここは一応、確認しておくのが吉だろう。


「……因みにそれは女の勘ってやつですか?」


「いんや、違うよ」


そう言いニヤリと口角を上げたかと思えば、次の瞬間には両手の先を尖らせてそのまま俺に覆い被さるんじゃないかと思う程の背伸びをぐいっとした。


「野生の勘!シャーッ!!もっと厳密に言えばハクビシンの勘だよ!」


…成程、嗅覚が優れている白鼻芯の勘がそう諭告なさっているのだったらこれ以上信頼できるものはない。


「…ハハッ、先輩は動物が個性的すぎるんですよ。分かりました、留意しておきます」


乾いた笑いが出た後に、ハクビシンってシャーッて鳴き声なのかな。って果てし無くどうでも良い事が頭の中を少しの間彷徨った。


――――――――――――――――――――――――


秋月陽火は祖父と妹が眠りについた事を確認した後、密かに物音を立てぬように扉の鈍い音と共に家を出て自らが通学している高等学校へと竹刀袋を肩から提げつつ足を運んだ。帰ってからは直ぐに睡眠をとり、家を出る前には祖父から教わって最早自分のルーティンになりつつある神経統一を行った。なのでコンディションは万全の筈が、秋月は謂れのない怖怖とした感情に悩まされていた。まるで行ったら後悔すると脳内に訴えかけてくるようだ。


「フゥ……」


そんな事を考えている間に何時の間にか校舎にたどり着いてしまっていた。浅く呼吸を整え、慣れない手つきで門を攀じ登り侵入に成功する。秋月は普段、生徒会長という責任重大な立場にあるためこんなにも堂々と校則違反をするのは人生初だ。夜の誰も居ない学校のもつ雰囲気に呑まれそうになるが、部室へと向かう道中、下駄箱含めて戸締まりする全ての鍵が掛かっていない事に不信感を覚えすぎてどうでも良くなってしまった。


着々と足を運び遂に部室の眼の前へと到達した。今でも少し扉を開けるのが怖くて仕方ないが東頭がしてくれた事に比べれば些事だと割り切り扉を思い切り強く叩き破ると――


「ぁ」


――言葉を失った。それは夕方入ったこじんまりとした部屋では無くだだっ広い一面アスファルトの部屋だったからだ。自分は入る部屋を間違えたのかと確認しようと戻ろうとし、声が響いた。


「おや、もう来てましたか。」


「うわっ!……って東頭か」


のっぺらと見えた人影は、淡い黒髪にどう寝ても絶対にそんなつき方はしないであろう珍妙なアホ毛から東頭因循である事がわかった。だがその出で立ちや醸し出す雰囲気は昼間とは比べ物にならない程に異質だ。


「時間は指定通り、塩水も飲んだようですね。護身用具は竹刀で、服装は…袴ですか」


「悪いか?私の正装といえばこれしか思いつかなかったのだ。そういう東頭も袴?姿ではないか」


「いや、今回は寧ろ袴で良かったかもしれないです。それと、厳密に言えばこれは書生服ですよ。仕事の時の正装です、儀式的な意味合いも含めて此方の方が色々有利なんですよ」


歩きながら話す東頭は砕けた様な話し方では無く、寧ろ酷く落ち着いていた。


「取り敢えず、床に座りましょう。今から話します。…貴方に取り憑いた怪異について」


ごくり、と秋月の喉から唾を呑み込む音が聞こえた。


「その怪異の名は――」


『――――唐祢津蜻蜒』


秋月はその名称に一部聞き覚えがあった。

というか、虫好きの小学生だって知っているであろう。


「カラネズヤンマ?ヤンマって事はつまり……?」


「そうです。蜻蛉の怪異です。主に四国地方で信仰されていたようですね」


「ちょっ、ちょっと待て!トンボの怪異が私の記憶と何の関係があるのだ!?それに私は四国のどこにも行ったことは無い!!」


秋月の言い分も最もだ。理由に納得を求める人間にとって関係性が無いというのは、それこそ腑に落ちないだろう。


「蜻蛉という生物は全国的に広く分布しているので、恐らく移動したのでしょう。文献自体が四国にあったと言うだけで。記憶に関しては…帰り道の秋月さんとの会話が役に立ちました」


「た…確かに帰りに蜻蛉の話したが、役に立つことなど何も……」


「剣道における蜻蛉の意味、それは“不退転”であるからです。蜻蛉というのは前にしか進まず、決して退かないことで縁起が良いとされ甲冑の話にもつながったみたいです。そしてこの唐祢津蜻蜒もそう、前にしか進ませない……ということです」


「進ませない?」


「端的に言います。この唐祢津蜻蜒の持つ特性。それは『記憶の虫食い』を引き起こす事。但し喰む記憶には条件があります。単純に過去の記憶から食べるのでは無く――――」


ああ、何となく察していたのかもしれない。何故家から出たくなかったのか、私も心の奥底では理解していたであろう。東頭の唇が少し言い淀むのを感じ、自分の不甲斐無さに抗う形で向き合った。


「――――本人にとって“最悪”な記憶から喰います。だから秋月さん、もし唐祢津蜻蜒を祓えればこれ以上記憶が食われることもありません、が…同時に貴方が最悪だと思った記憶も取り戻します。それでもいいのですか?」


「……ああ、何となくそうなることを望んでいた。やってくれ、私は既に覚悟を終えた」


「…分かりました、ならば協力させてもらいます」


「一つ、質問していいか?」


「はい、なんですか?」


「……お前何で丁寧語なんだ?」


「……いや、仕事ですし真面目モードの方が雰囲気出るかなって」


「何時も通りタメ口で頼む、と云うよりそのカラネズヤンマを此処に呼び寄せる方法はあるのか?」


「ああ、じゃあ手順を説明しま……する。まずあそこの五芒星の中央に血を垂らせ、そしたら俺が術を発動して秋月に取り憑いている唐祢津蜻蜒を逆探知して召喚する」


「そ……そして?」


二拍ほど間をおいてから真剣な顔で東頭は言い放った――


「――頭を下げてお願いする」


「戦わないのか!??」


「…お前物騒だな。確かに他二人の部員だったら力尽くで解決してたかもしれないが…俺は穏便派だからな。戦わずに対話で済むならそれが一番だ。というか今回はそのパターンっぽいしな。蜻蛉なんて悪い噂を聞かない昆虫だし」


「そ、そういうものなのか……?」


「……つか、そう信じたいってだけだ。さっき言っただろ?“信仰”されてるって……つまり相手は小規模だが神格だ。流石に神となんて戦いたくないな」


そう俯く東頭に秋月は何も言えずにただ裾を握りしめた。


「もう儀式始めんぞ…一応竹刀取り出しておけ」


その声に従って秋月は竹刀袋から竹刀を出して五芒星の中心まで歩いていき、東頭の持っていた短刀で指先を少し斬りつけて血を垂らす。そしてさっきの位置にまで戻り東頭が両手を前に突き出し――


『信奉罰退』


――と唱えると五芒星が光を発し始めて、広大な部屋ごと段々と呑まれていく。光に包まれるだけでなく強烈な風も吹き荒れる。


「これが……」


儀式に使用された五芒星は跡形も無く消えて無くなっていた。その代わりにそこには生物がいた。耳を塞ぎ込みたくなる大きな羽音を響き渡らせながら浮遊し、その巨大な複眼の双眸は一点をジッと観察している。


「唐祢津蜻蜒…!?」


妖怪や妖の怪異は基本的にイメージモチーフを持つ。のっぺらぼうなど人型であれば人間、唐傘お化けなどの変化型であれば物、土蜘蛛や大百足などの生命型は生物、餓者髑髏などの魂型は感情など、それぞれ器を持ってこの世に顕現する。それに当てはめれば唐祢津蜻蜒は生命型、そしてモチーフは恐らく名前にもある通り――『鬼蜻蜒』。日本原産の生物であり、その名前には獄卒の名を刻む。


「――うぐっ!?頭が…痛い…」


秋月と怪異が対面したことによる異変、それを察知して東頭は少し喉を鳴らした。


「…大丈夫か秋月、なるべく簡潔に済ます。あー、こほん」


東頭は畏れる様子も無く、首筋を伝う汗のことなど無視して唐祢津蜻蜒の方に一歩歩み寄る。


「ご無礼仕ります。此度呼びたてまつりし要件はこの娘の失ひし思ひいで取り戻すこと願ひたて――――ッ!!」


東頭がいい掛けた瞬間、唐祢津蜻蜒の突進により東頭は壁へと減り込み砂埃が立ち込める。


「東頭!!!」


秋月は必死で今起きた出来事を処理し一つ、勘づいた、それは唐祢津蜻蜒は明確な殺意を持って攻撃したということだ。つまり作戦は失敗した――二人共此処で死ぬ。東頭もキチンとした受け身も取らずあの速度でぶつかられては死んでないにせよ骨の方も無事とはいかないだろう、つまり次に狙われるのは必然的に秋月になるということだ。秋月の竹刀を握る力が少し強まる。


「……え?」


だが、砂埃の中を突き抜けたのは殴り飛ばされた唐祢津蜻蜒であった。煙が晴れると、そこには頭から数滴血を垂らしつつも手指をコキコキと鳴らして明らかに青筋を立てた東頭の姿があった。


「え…えっと東頭?お前は穏便派ではなかったのか?それにさっきの対話云々の話は…?」


「…?何言ってんだ秋月。これは世界で最も古く、そして最も話されている言語――肉体原語ボディランゲージだ」


「結局暴力ではないか!??」


「つってもそれ以外無いだろ、お前は下がっておけ――ッ!!」


唐祢津蜻蜒はまたしても東頭の方に目にも留まらない速度で突っ込むが、そこに一つの影が割り込む、秋月陽火である。一般人は怪異に対する対抗策を持たない。唐祢津蜻蜒の速度についていくことも本来出来ないが…持ち前の運動神経と予測能力を使い見事土俵に立ってみせた。


「はぁーッ!!」


それでも真正面から打ち合うのは無謀に過ぎないので鍔を利用していなして方角をずらす、その加速した巨体はその勢いのまま壁に激突しダメージを負うかと思われたが、壁にぶつかる寸前――ピタリと停止した。


空中停止ホバリング……!!鬼蜻蜒が元なら当然駆使してくるか…!」


「厄介だな…!」


「……てかお前、よく竹刀折れないな。竹刀っていっても消耗品の竹を使ってるんだろ?」


「いや、私が使っているのはカーボン製だ。頑丈だぞ、まぁ但し普通のに比べると重いがな!」


「…その身のこなしは?お前本当に一般人か?」


「この身は只の生徒会長、それ以上も以下も無いが?」


「……自信無くすわぁ〜」


「言ってる場合か!あいつの一撃は強烈だ、かといって攻撃を受けないように立ち回るのも無理だ!」


「……お前コレ持っとけ」


「おわっ!何だコレ!」


「矢避けの守りだ。懐に入れておけば感知能力が高まる。そんで追記だ。突進ならまだいい、問題はあいつが顎を使ってきたときだ。それだけは絶対に避けろ…この速度を視認できたらの話だけどな」


所狭しと翔ける唐祢津蜻蜒の速度は最早視認不可能の域に入ったと言っても過言ではない。鬼蜻蜒でさえ最高速度で約80kmを出せるのだ。ただでさえ車と並走する速度を持つ生物が信仰を受け神格へと至った。その速度は計り知れない。秋月の顔には焦燥が、東頭は早速奥の手を使うことも視野に入れ始めた。


「――ッ!そこッ!!」


またもや真正面から迎え撃ち東頭の拳と唐祢津蜻蜒がぶつかる。動きを読んでいたのは東頭だ――しかし、顎による攻撃を抑えたのにダメージを多く負ったのも東頭だ。唐祢津蜻蜒が先程のようにホバリングを行わないのは理解しているからだ。このまま続ければ先に倒れるのは相手の方だと。


「ッ!!」


両者が激突した一瞬の硬直を縫うように一太刀が割り込み、秋月は移動の要である羽を叩き折ろうとして弾き飛ばされた。その隙を見逃す程、怪異は優しい存在では無い。頭部目掛けて顎で咬合を行おうと急速飛行するが唐祢津蜻蜒の視界から消えた。いや、その巨大な体躯の下に身を屈めて居たのだ。あの一瞬で。


「ハッ!」


下から頭と胸の間を剣先を突き上げて、今回の戦闘で初めての有効打を一般人の秋月が与えた。


「『忌慣』」


それに負けじと、死角から飛び出してきた東頭の瞳が妖しく光る。


「『火起請』」


東頭がそう唱えると、右手に持っていた札が燃えてその手には刀身から柄に至るまで全て鋼鉄で出来た刀が握られていた。只の鋼鉄の刀ではない、その刀身は段々と激情の色へと染まっていき刀全体に熱が伝導する。まず唐祢津蜻蜒の片方の前脚を切断し、怯んだ隙に畳み掛けてもう片方も軽く切り払う。


秋月、東頭のどちらも感じていた。今が絶好の好機であると。


「ッああぁ!!!」


だがしかし、チャンスは活きなかった。懸念していた秋月の頭痛がここに来て再発したのである。


「ッチ!」


依頼人の命が最優先、ここで唐祢津蜻蜒は狙いを変更して弱っている奴から狩りを開始するだろう。東頭は秋月の眼の前へ護るように仁王立ち、手の表面が焦げるほど熱された刀を一閃するが唐祢津蜻蜒にはもうそれに付き合ってやる義理もない。刀が振り下ろされる寸前でピタッと止まり、寸前で回避する。オニヤンマの特徴、それは急停止、そして――――急発進。唐祢津蜻蜒は初速からその素早さを全て引き出し、隙だらけの東頭の肩の肉をその強靭な顎で噛み千切る。


「…クソ」


支えきれなくなった刀は地面へと落ち、急速に熱が冷めていく。だが唐祢津蜻蜒の様子が少し異常だ。何故、すぐに追撃してこない?鬼蜻蜒は非常に獰猛な生物だ、仕留める機会があれば全力を尽くす。

唐祢津蜻蜒はカチカチカチカチ、と顎を三回立て続けに鳴らし。


「『忌――ッ、耳を塞げ!秋月!!」


『■■■■――――――――!!!!』


その咆哮を秋月は外部からの音を遮断することで無事であったが、一瞬耳にした東頭には異変が起きる。

パキッという音が鳴り響き、目から微かに血が流れ落ちる。


「フゥ…フゥ…東頭!お前…その手!」


「…ああ、そうか…『百賜則』か。確かに神なら権能の一つや二つ持っていてもおかしくない。だが条件無しに行使できるとは…妖怪の特性とは違うのか」


東頭の手の甲には少し欠けたガラス片のようなものが侵食していた。つまり、記憶の損傷を意味する。

だが東頭は自らの記憶が失われたことなどどうでもいいように、ただ冷静に相手の動向を観察していた。

唐祢津蜻蜒はまた顎を三回カチカチカチカチと鳴らし終える前に『忌慣』と口早に言い終え札を燃やして看板にし、秋月と自らの前に突き刺す。


「『犬鳴村』」


手で犬の影絵を作ると、薄紅色の結界が二人を包み囲う。

建てられた看板には『コノ先、怪異ノ規則通用セズ』と記されてあった。


「…これも能力か」


「大妖怪や神が使う権能、その総称が『百賜則』。そしてこの結界はそれを遮断する術を掛ける」


「弱点は無いのか?」


「一応、顎を三回鳴らす事と…後は背中を見せない、後ろに下がらないっていうのが条件っぽいが…まぁ、大した弱点にはなってないな」


そう吐き捨てた東頭の顔にはかなり疲労の色が強く残っている。息も荒く、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。


「…すまない、警戒してないわけじゃなかった…頭痛の調子はどうだ?この結界であれば多少攻撃されても持ちこたえるだろ」


「芳しくは無いが…そんな事を言ってる暇も無いだろう――――がッ!?」


秋月は立ち上がろうとした途端、また激しい頭痛を感じて秋月はその場に倒れ込む。

それを見た東頭は一人で結界の外へ出ていってしまった。


「…まだあまり無茶をするな…記憶の事もな。『忌慣』」


「ッ!!」


それは東頭の奥の手を除いて、現状最も強力な自己強化の術。手足は黒ずんだ妖気に覆われて、足の形状が飛蝗や兎の様な形に変化していき、腕は刺々しい見た目へと変化している。

その名はかつての英傑、源義経に起因する。


「――『八艘穿地』」


二人が戦い始めて数十分間、秋月は『犬鳴村』の中で激しい戦闘を繰り広げる両者を見て独りごちる。唐祢津蜻蜒と負けず劣らずの速度でぶつかる東頭を見て、結局自分は役立たずであったのを実感する。だが正直、戦わなくて済むことに少しホッとしている自分がいることに嫌悪感を覚えた。何故だろうか、あんなにも覚悟を済ませて来たというのに。ああ、つまらない退廃的な禅問答はやめにしよう。それは自分が“記憶”を取り戻したからだろう。そして気丈に振る舞っていたが、恐らく東頭は既に私の異変に気がついている。只管に惨めだ、酷い自己嫌悪に陥りそうになる。

だけど、大丈夫だろう、東頭がきっとなんとかしてくれる。だってあの時だってお爺ちゃんが――――――


――――――――ガンッ!

と鈍い音が秋月の鼓膜に厭に木霊した。恐る恐る前を向くと、そこには全身の肉を抉られて虚ろな目をした東頭が居た。ヒュッと鳴った空気が漏れる音はきっと自分の喉から発したものだろう。秋月の対面のアスファルトはひどく凹んでいた。唐祢津蜻蜒は次に此方に向かって突進をして、『犬鳴村』は無様に砕け散った。唐祢津蜻蜒はジリジリと此方に近づいて来る。羽音が密室に反響する。そして、私も死ぬ。


「ぁ」


少しずつ後退り、私はただ捕食されるのを待つ。


「『忌慣』」


だが突如として声とともに唐祢津蜻蜒の身体全体を鎖が縛った。


「『丑三つ時』…駄目だろ?まだ仕留めてないのに背中を見せちゃあ」


「東頭!生きていたのか!」


生きてはいる、だがまともに立っていることすら本来叶わない程の重症だ。


「あれくらいで死ぬかよ。…今、俺は拘束に関しちゃ無敵だがそれ以外はからっきしだ」


そう告げる東頭の両手は血が吹き出しており、徒手空券などは絶対にできないだろう。

だが、東頭が倒してくれないとなれば誰がこの化け物を倒すのだ?

この場には東頭を除いて一人しか……


「私が……倒すのか?」


「違う。説き伏せて、捻じ伏せるんだ」


「…私にそんな力は無い」


「記憶、戻ったんだろ?」


「ッ!!」


やはり東頭には見破られていた。だが、記憶が戻ったからと言って私が強くなるわけでも無いだろう。

私は所詮、無力なのだから。


「異常だと思っていた。雄略天皇と蜻蛉の話が今でも残っているように、本来蜻蛉は悪い妖に転じるはずはなかった。つまりお前の記憶を消したのは善意から。だから…そいつは恐れているんだ、記憶が戻ったお前が何かしでかすのでは無いかと」


「……私にどうしろと言うんだ」


「証明しろ、記憶が戻っても安心していいと。自分のペースでいい、しっかりと言葉を余さず伝えきれ」


秋月の目の色が、少し変わった。


「……私は今まで、両親が事故で死んだと思っていた。だが違ったんだ、両親は――――私が殺したんだ」


「……ッ!」


東頭は絢音先輩が言っていた“誤認”の正体がやっと分かった。

そして、彼女の懺悔が始まる。


――――私の家庭は常に崩壊寸前であった。父は私によく暴力を振るい、母はそんな私を庇おうともせず他の男をよく家に呼び込み私と妹を押入れに押し込んだ。食事も満足に与えられず、寝床も硬い床に寝そべり、幸せな日々を夢想でもしないと寝られなかった。そんな私の日常の癒やしは妹であった。妹はこんな環境でも天真爛漫さを失わずに、ずっと明るく輝いていた。妹の為であれば私は率先して殴られにも行ったし食事も分け与えた。そんな私を妹は不審に思い、一度父親に抗議しに行った時があって案の定殴られた。私はその時に血管がはち切れるほど怒り、親からくすねた金で包丁を買いに行った。小売店の店主は困ったような顔をしながらも最終的には私に包丁を売った。

だけど結局殺す勇気は出ずに押し入れに密かにしまった。次の晩、私は夜中にトイレに行きたくなり目が覚めた。リビングの明かりが灯っていたのを見て近くによると珍しく両親が二人で話し合っていた。


その内容は――私に水商売をさせるといったものだった。それを聞いて憤慨するでもなく、只管にどうでもよかった。母もやっていたのだ、私もやらされることになるのは分かっていた。――だが、その後に“妹”も同じ様に水商売をさせると父親が言い母親が賛同した瞬間、気づけば私の手には包丁が握られていた。


どうやって殺したのかは覚えてない、だけど多分叫んでいたから苦しかったのだろう。近隣住民が通報し、その後はお爺ちゃんに保護された。寡黙なお爺ちゃんは私の顔の痣をみて、静かに頭を撫でた。それからは色んな施設に連れて行かれたが…正直覚えていない。


引っ越して別の地域の中学に上がった頃――私は何もかも嫌になって屋上から飛び降りた。

だけどいつまで経っても落ちないと思い目を開けると、そこには私の全長よりも大きなトンボが私を背に空を駆け回っていた。空から見る景色はこれまで見た中で最も美しい景色であり、同時に私はもう死んでいるのではないかという恐怖が頭を過った。トンボは私をそのまま家に送り届けると、もう私が飛び降りないように――私の記憶を食べた。それからはすべてを忘れて剣道に励み、生徒会長も勤めた。

そして今回、また新しい友人が出来た。私の悩みに対して全力で寄り添ってくれるいい友人だ。


「私はもう、過去を受け入れて生きていけます」


その姿を見た東頭は喉を勢いよく鳴らす。

そして成程、この二人にはこれ以上ない結末だとも思った。


「――礼ッ!!」


秋月はその場に立つと、少し摺り足を行い慣れた身のこなしで左手に携えた竹刀に思いを込めながら十五度頭を下げ立礼をする。右足から一歩、二歩、三歩と歩を進めた時点で帯刀していた竹刀を懐から抜き、ゆっくりと蹲踞の姿勢を取る。


「始めぇ!!」


その声を皮切りにして死合は始まる。

秋月はその場に立ち上がり竹刀を肩の力を抜き、緩やかに構える。

対する唐祢津蜻蜒は鎖の束縛を千切り、初速から最高速度で飛来する。

――決着は一瞬、この世界の秒数に換算すればきっと一秒もない。

蜻蛉は“不退転”

決して退かずに、前へと進む。

ならば私も前へと進もう、過去を断ち切るのではなく、過去を背負って生きよう――――


「――ありがとう、あなたのお陰で私は前に進める」


――――心地良い音が鳴り響き、秋月の竹刀は唐祢津蜻蜒の頭部をしっかりと捉えていた。


「…勝負あり」


そう東頭が呟くと、唐祢津蜻蜒は全身が塵となって空気へと溶け込み消えた。

秋月は憑き物が取れたような晴れやかな顔で俺の方を向き、こう告げた。


「――――――――――」


俺は思わず目を見開いたが、まぁそれもいいだろうと笑って承諾した。

怪異事件にしては爽やかすぎる結末だった。


――――――――――――――――――――――――――


結局、あの後秋月はお爺ちゃんや妹と色々話す場を設けることにしたそうだ。これまでの事を詫びたいんだろう。

…それで、冒頭の今回のレポートのタイトルについてだが、俺の回らない頭では良い名前を考えることなど出来なかった。ただ、一つを除いて――


「――おい!東頭!また屋上でサボっているのか!怪異究明部の一員としてもっと自覚を持て!今、部室にお客様が来てるのだぞ!」


「はいはい、今行くよ」


あの日、秋月が言った言葉、それは怪異究明部を兼部させてくれとのことだった。

この活動が彼女の価値観を変えるきっかけとなったのだろう。


――自分で言うのも何だが、洒落たセンスだと思う。

聞いてくれるか?


タイトル:『蜻蜒無い雨は無い』

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