最悪(2023/6/6)

 それは、ご主人の口ぐせだった。


 散歩中に、ボクがつい走り出したら、

「そんなにリードを引っ張らないでよ! もう、最悪!」


 水浴びの時に、ボクが思いっきり体をブルブルしたら、

「私までずぶ濡れじゃない! 最悪!」


「最悪」って時のご主人は、たいてい三角形にとんがった目をして、最高に怖かった。

 こうなってしまったご主人には、尻尾を丸めて近寄らないのがベストなのだと、ボクは最近覚えたのだ。


 だけど、何事にも例外はあるわけで。


 その日のご主人は帰宅直後から、妙にしょっぱいニオイを漂わせながら「最悪」って言っていた。


 ボクは扉の隙間から、こっそりと玄関をのぞき見る。

 そこには、黒いスーツ姿のご主人が、靴も脱がずに背中を丸めて三角座りをしていた。


 ボクは扉の隙間をするりと抜けると、ゆっくりご主人の前に座り込み、その顔をじーっと見上げた。


 思った通り。

 ご主人の顔は、次々にあふれる涙と鼻水でグシャグシャだった。


 一体何が「最悪」なのか。ボクにはさっぱり分からない。

 だけど、ボクは知っている。

 ご主人がこの顔の時に、どうしたらいいのかを。


 ボクは尻尾を振りながら、ご主人の顔を思いっきりなめた。

 口いっぱいに広がる、苦くてしょっぱいその味は、一言でいうなら「最悪」だ。


 でも、ほらね。


「もぉ、最悪」

 そう言いながらご主人は、ボクのよだれまみれの顔で、やけくそみたいに笑いだす。

 そうして、ボクを抱きしめたご主人は、かすれた声でささやいた。

「でもありがとね、最高よ」

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