第3話 運命の偶然

 顔をめがけて勢いよく振り下ろされた刃を、上体をそらすことで間一髪でよける。

 しかしそれを見越していたかのように、ゼルの右肩に手をかけた相手が勢いのままに体重を乗せてきた。バランスを崩したゼルの体はたやすく天井をあおぎ、足が床をすべるようにして浮く。


「っ!!」


 大して受け身も取れないまま、ゼルは硬い石の床に背中を打ちつけた。同時に胸元を圧迫する重さで、一瞬呼吸困難に陥る。

 不意打ちでゼルに攻撃を仕掛けてきた人物は、彼が状況を確認する間もなく、手にしたナイフを再び振りかざそうとしていた。


――やっば!?


 最悪の予想に息を飲む。

 だが鋭利なそれはゼルの顔のすぐ横をかすめ、石の床にカツンッ、と突き立てられる。高い音が鼓膜に届くのと同時に、小さな欠片が頬に当たった気がした。


「お前、何者だ。おれになんの用だ?」


 石造りの空間に、低くもなく高くもない声色が響く。

 薄明かりの中、馬乗りになった相手の姿に明かりが揺れる。


 艶のある黒色のコート。不機嫌そうな唇。わずかな風に揺れるダークレッドの髪。


 なんの躊躇もなく不意打ちともとれる攻撃を仕掛けてきたのは、ゼルがこの地下水路にたどり着くきっかけとなった、あの少年ではないか。


「お前さっきの!」

「質問に答えろ! 見たところ、このあたりの人間じゃないようだが?」


 少年の、髪と同じ色をした瞳が妖しくきらめく。

 突き立てられたナイフの刃が少しだけ傾き、ひんやりとした感触が、スッ、と肌にふれた。


「ちょちょちょ待て待て待てっ!!」


 これは早々に誤解を解かねば、取り返しのつかないことになりそうである。少しでも暴れれば命の保証はなさそうだが、かといってこのままされるがままというわけにもいかない。


「俺迷子になってただけだから!! 道に迷っただけだから!!」


 もはやいい大人が迷子だという事実に、恥も外聞もない。己の命を守るのが先決である。命あってのなんとやらだ。

 一気にまくし立てるゼルに対して、少年はなにも言わない。眉根を寄せたまま、その瞳はじっ、と彼をにらんでいた。

 張りつめる緊張感に、ゼルのひたいに汗がにじむ。


「まじで! ほんとだって!!」


 必死に身の潔白を訴えるゼルだったが、少年は鋭いまなざしを向けたまま。

 彼がゼルの言葉を疑っているのはあきらかである。

 ゼルの言葉が真実か。それともその場しのぎの言い訳か。

 膠着する時間がやけに長く感じて、ゼルはごくり、と乾いた空気を飲み込んだ。


「彼の言っていることは本当ですよ、アル」


 突如、周囲に声が響いた。

 あきらかに第三者のそれに、ゼルは緊張感を新たにする。

 身動きを封じられたまま視線だけ動かして様子をうかがうと、視界の端に白と淡い緑色を基調としたローブをまとった人物が映った。

 毛先近くでまとめられた深緑色の長い髪が、歩くたびにふわりと背中で揺れている。


「だけどフェリクスっ……!!」


 アル、と呼ばれた少年が、ゼルの上に馬乗りになったまま、現れた人物に顔を向けた。


「こいつ、おれのあとをつけてきたんだ! 気配まで消して!」


 少年の言葉に、ゼルは反論の余地がない。

 少年に逃げられないように気配を消していたのは事実であるし、追いかけていたのも事実である。


――これは本格的にまずいのでは?


 状況だけで判断するなら、ゼルの行動はあきらかに不審者のそれだ。言い逃れできる要素がひとつもない。

 少年がゼルの身動きを封じているのも、向けた刃を引こうとしないのも、ゼルのことを信用ならないと思っているからこそである。


「大丈夫ですよ。彼に悪意は感じられません。安心なさい」


 救世主というものは、案外近くにいるらしい。

 やわらかい口調で「そろそろどいてあげなさい」と言うフェリクスが、二人を見下ろしたままにっこりと微笑んでいた。


「アル?」

「……わかった」


 一瞬の躊躇のあと、ゼルの胸からふわり、と重みが消える。

 少年は視線を伏せてゼルを一瞥すると、そそくさと彼から離れて背を向けてしまった。


「ってて……」


 硬い床に打ちつけた腰をさすりながら、ゼルもやれやれと上体を起こす。ようやく緊張感から解放され、おもわず安堵のため息がこぼれた。

 すると、目の前に男の手が差しのべられた。手首にいくつも連なる金の輪が、腕の太さとは対照的に、しゃらん、とひかえめな音色を奏でる。



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