第2話 王国の生命線
湿り気を帯びた冷たい風が、ぶわり、と彼の青色の前髪を揺らす。
ゼルの足を止めたのは、さらに地下へと続く薄暗い下り階段だった。これはあきらかに地上には出られそうにない。
目指す方向とは真逆の行き先に、ゼルはおもわずため息をつきたい衝動に駆られた。
「あー……、どうすっかなぁ」
こうしている間にも、階段を下りる少年の軽快な足音は、一定のリズムを刻みながら遠ざかっていく。
ゼルは後頭部をがしがしと掻くと、まっすぐに階段の先を見つめた。
床面にぽっかりと口を開ける地下への入口。急な下り階段の先は、ぼんやりとした薄暗い闇に包まれている。
「このままここにいても仕方ないしな……。一か八か、行ってみるか」
いつまでも悩んでいたところで
ゼルは意を決して階段を下りはじめた。なるべく足音が響かないように配慮しながら、しかし少年の足音を聞き逃すことのない速度で慎重に進んでいく。
――あれだけ周囲を警戒してたってことは、ここに入るのを見られたくなかったってことだよな。俺がうしろにいるって気づかれたら、逃げられるかもしれねーし。
それではこちらとしても困るのだ。こんなひとけのない見知らぬ場所で置き去りにされるなど、たまったものではない。
階段を下りれば下りるほど、冷やされた空気が水滴となって壁面を伝っていた。足元にうっすらと広がっていた水たまりが、踏み出したブーツの重みでぴちゃりと跳ねる。
「……いったい、どこまで続いてんだ?」
一定の間隔で、ひかえめな明かりが足元の段差を照らしている。
――明かりがあるってことは、まったく人が来ないってわけじゃなさそうだよな。
現にあの少年は、当たり前のように階段を下っている。もしかしたら、ほかにもここを利用している者がいるのかもしれない。
――つーか、こんなとこに用があるって怪しすぎんだろ。
一見したところ、少年は帝国側の人間ではなさそうである。かといって、地下の住人かと問われれば疑問も残る。着ている衣服はボロ布というわけでもなく、目立った汚れもあるようには見えなかった。
しかしながら、彼の姿を目撃したのは一度きりだ。それも遠目に薄暗い中で一瞬だけである。黒いロングコートの汚れなど、はなから目につかなかっただけなのかもしれない。
「……んん?」
ふと気がつくと、先ほどまで規則正しく響いていた足音がひとつしか聞こえてこない。ゼルが足を止めると、それはピタリ、とやんでしまった。
どこかで、水滴の落ちる音が響いた。
「うわぁ、やっべ……!」
ゼルは弾かれたように段差を蹴った。
こんな場所で迷子になるなどということは御免被りたい。
残りの階段を二段飛ばしで駆け降りる。最後の数段をまとめて軽快に飛び降りると、その先は細い通路がつながっていた。
勢いのまま通路を駆け抜ける。奥の曲がり角で床にたまった水に足を取られるが、なんとか持ち前の運動神経で転ぶことなく前へ進んだ。
「うおっ!?」
視界が、急にひらけた。かと思うと、どこからか大量の水が流れる低い音が響き渡ってくる。
「……はー、地下水路、ってとこか?」
ゼルは辺りを見回しながら、驚きのあまりおもわず止まってしまった足を踏み出した。
見渡すかぎり一面、精巧に造られた石造りの水路はどこまでも広がっている。きちんと整備された水路は、おそらく王都の地下全域に張りめぐらされているのだろう。
高い天井からは、水門とおぼしき鉄製の板が、太い鎖につながれてぶら下がっている。
「こりゃすげぇ……! 圧巻だわ」
ゼルは周囲を見渡しながら感嘆の息を漏らした。
いまは無き
「……つーか、あいつどこ行った?」
数歩進んだところで、ゼルは再度ゆっくりと辺りを見回した。
少年の姿はどこにも見えない。どうやら完全に見失ってしまったらしい。
「あー、やっちまった。……仕方ない。引き返すか」
前方には出口の見えない広大な地下水路。
後方にはまだ己の駆けてきた通路が見えている。幸いにも、いま下りてきたばかりの道は一本道だ。
先に進むか引き返すか。
ゼルは迷うことなく後者を選んだ。少しでも地上に近いほうにいたいと思うのは本能である。
少年の行方が気にはなったが、見ず知らずの彼のために危険な道を選ぶ義理はない。
ゼルは通路に向かってきびすを返した。
ところが、あと少しでせまい通路に差しかかろうかというところだった。
ゼルの鼓膜を揺らしたのは、背後で響いた水の跳ねる音。
反射的に身をひるがえしたゼルの目の前に、黒い影が迫っていた。
「っな!?」
視界の中央で、鋭い光が銀色にきらめいた。
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