煙・吊るす・事後報告

冬野原油

三題噺6日目 吊るす、忘れてた

 きゅうりは採れたてのものがいい。箸は鋭く割るのがいい。煙は多ければ多いほどいい。

「コップの底に水を残したまま寝てはいけないよ」と母は言った。自分のための供え物だと勘違いしたよくないものが集まるからと。扉は隙間なく閉めなければならないし、夜に口笛を吹いてはいけない。寺にも神社にも行かないくせして、そういう迷信ばかり信じていた。そのおかげか、母はとても穏やかに息を引き取った。白い布の下、紅の色だけが透けて見えたのを覚えている。「お母さん幸せだったよ、ありがとう」と言い、自分で瞼を下ろした。火葬場で「きれいなお骨ですね」と声を掛けられた。


 母が死んですぐ、きゅうりの種を買ってきた。植物を育てるなんて小学生の朝顔以来だけど、きっとうまく育ててみせる。母が使っていた部屋の荷物はそのままにした。時々入って、古い鏡台を開き、自分の顔を眺めて過ごした。母によく似た私の顔。並ぶとまるで姉妹のようだと、親戚によく言われたものだ。癖で二人分の食事を作ってしまったときは、生前と同じように机の向かいに並べて置いた。寝るときはいつも、母の好きだったテレビ番組の録画を流したままにした。

 お骨は砕いて海に流してほしいなんて言われたけれど、そんなことをする気にもなれず、かといって墓に入れる気も起らず、いつも母が座っていたソファに置いたままにしている。母の体重分沈み込んだ張りのないソファ。時々「おはよう」とか「どうしたらいいかな」なんて、話しかけてみたりした。


 お盆。こちらに来るときは早く来てほしいからきゅうりのお馬に、帰りは手土産をたっぷり持ってゆっくり帰ってほしいからなすの牛を用意するのよと言っていたのも母だった。きゅうりがどっさり収穫できたので、私はいくつも馬を用意した。迎え火を焚き、登る煙の先を見つめる。あそこに母がいるのだろうか。風になびかれかき消えそうになるたび火を足し、木を足し、目印になるようじっと待った。

 風もないのに煙が自宅の方へ向いたのを見て私は駆け出した。しゃがみ続けてしびれた足を必死に動かし、玄関を開け、母の部屋にたどり着く。その床は私がこの一年飲み残し続けたグラスを敷き詰めるように置いてある。鏡は合わせ鏡になるよう左右の扉を平行に開き、私が子供のころから集めたぬいぐるみも並べた。ほんの少しだけ開けたままにした窓から煙が入り、消えずに中央あたりでとどまっている。

 きっとこれは母に違いない。私は足元のコップが倒れ水がこぼれるのも気にせず煙の方に駆け寄った。煙も次第に人形になり、私を抱くようにまとわりつく。


 帰りの牛なんか用意しない。極楽で安らかに存在することも、地獄で勝手に鬼どもが罰するのも許さない。今度は私が母を縛る番だ!

 

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煙・吊るす・事後報告 冬野原油 @tohnogenyu

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