鏡
翌日。
憂鬱な気分を押し殺しながら門へと向かう。
トレバーと顔を合わせる事を考えると、帰りたい衝動に駆られる。
門に着くと、そこには既にほとんどの門兵が集まっていた。
「おう、ユーヤ。この前は大丈夫だったか?」
「ッ」
真っ先に声を掛けてきたのはトレバーだ。
「い、いえ、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
俺は内心の恐怖を抑えながら返事をする。
少なくとも、この人の形をした獣の前で弱い姿を見せたくはなかった。
次に弱みを見せれば、今度こそ喉笛に食らいつかれるかも知れない。
「そうか? ならいいんだが……
まあ、ああいう訳だからジラールの事も多めに見てやって、また仲良くしてくれよ」
「はい、ありがとうございます」
「気にするな。お、そろそろか」
朝礼が始まった。
「本日の注意事項は……特にはないな」
久々に平和な日々か。
何もない事が、最近の中では一番のいいニュースになりそうだ。
「……あるとすれば、そうだな。
この前、この門で捕まった密輸入の男が獄中で自殺したそうだ。
単に男が思いつめたのか、現在調査中だ」
「……」
脳裏に、必死で冤罪を訴える男の顔がよぎる。
すぐに心臓が激しく鼓動し始める。
喉がひりついて息が苦しくなる。
恐らく、トレバーの背後にいる組織がやったのだ。
夫人を簡単に土に埋めたように、無罪の男の口封じをしたのだ。
「春先で荷物の種類も変わる頃だ。
検査に注意しろ。解散!」
「「「「はい!」」」」
俺の返事の声は、まるで悲鳴のように細かった。
「よし、検査役はついて来い!
ん?どうした、ユーヤ。顔色が悪いぞ」
「何でも……ないです」
・
・
・
「とっととやるぞ野郎共!
荷物を捌け!列を待たせるな!」
ロジェの怒声を受けながら、何とか朝のラッシュをさばく。
悪いことに、今日の検査役にはトレバーも混じっている。
トレバーは俺とフォルに指示を出しつつ、的確に荷物を捌いていく。
「……チッ このままだと捌ききれねえな。
よし、俺は一人でこっちの荷台を担当するからお前達はそっちやっとけ!」
「はい! ありがとうございます!」
フォルの感謝の声が響く。
はたから見ればトレバーがあえて一人で重い仕事を引き受けている。
しかし、俺には分かる。
きっとあそこにもあるのだろう。
見て見ぬふりをする罪悪感とストレスで胃がじくじくと痛む。
「おい、ユーヤ!手が遅せえぞ!さっさと動かせ!」
「すみません……!」
ロジェに攻撃を受けながら、急いで荷物を捌いていく。
最近、悩み事が多くてあまり寝られていない。
作業の間、重いまぶたをこすろうとした時。
「あッ」
思わず手がすべってしまう。
水晶のような高そうな小瓶が割れて、中の液体が地面に染み込んだ。
「テメェ! 何してやがる!」
ロジェの怒鳴り声が響く。
荷主や護衛の冒険者が、殺気立った目でこちらをにらみつける。
「あ、いや、ちが、その……すみません!」
「こっち来い!」
「は、はい!」
俺はロジェに引きずられて、人目のない所に連れていかれた。
ロジェに胸ぐらをつかまれる。
苦しい。
「お前、仕事舐めてんのか?
あれがどんな品物でいくらすると思ってる?
誰が弁償すると思ってんだ?
誰が謝ると思ってんだ?
門の評判に傷がついたのが、ちゃんと分かってんのか?」
「す、すみません……」
「ギルドに返品されてえのか?」
「そ、そんな……」
今首になれば、宿泊費が払えない。
文字通り路頭に迷う。
トレバーが……と、言おうとしたところで口を閉じる。
あの人気者のトレバーが、密輸をしているなんて。
誰が信じてくれるだろうか。
「中途半端な覚悟で仕事なんてするんじゃねえ!
傷が治ってないなら、職場に戻って来るな!
今日はもう帰れ!」
「は、はい……すみませんでした……」
そういってロジェは足早に去って行く。
一人取り残された俺は、立っているだけで精いっぱいだった。
・
・
・
俺は何とか自室に戻る。
乱雑に荷物を置いて、ベッドに座り込む。
「……ハァ」
眉間の辺りを指で揉んで、深いため息をついた。
今回の事で多くの迷惑をかけてしまった。
明日出勤した際は、ロジェやエルド、
そしてあのトレバーにさえも頭を下げて謝らないといけないだろう。
雇用の継続への影響や、賠償問題にも発展するかも知れない。
ただでさえ次女の件で微妙な立場だったのに、
更に立場を悪化させてしまった。
「ハァ……クソッ」
トレバーの行動に、一挙一動に、意識をとられ過ぎた。
怯えのあまり、意識しすぎてしまっている。
ただでさえ最近は悩み事のせいで、まともに寝られていない。
昨日のジラールとの話、教会での癪に障る説法、トレバーへの対処や付き合い方。
いくつもの悩み事が脳内でいつまでもこだまして、寝付けなくさせている。
ただでさえ、お金の事、将来の事、色々な悩みがある。
状況は悪化する一方だった。
特に、あのトレバーだ。
姿を見ただけで、呼吸が荒くなる。
恐怖に身がすくむ。
俺は弱い。
英雄じゃない。
ただの脇役、名もなき市民Aだ。
カーブルトや望郷の騎士のようにはれない。
トレバーの告発は……無理だ。
職場での信頼、経験、武術、体格、頭の良さ。
全てが「格上」の奴に、相打ち覚悟で勝負を挑む。
そんな勇気なんて……ない。
……折れたんだよ。
リンチされた時、既に。
万一だ。
万一、この半透明の能力を上手く使い、
証拠などを集めてトレバーを告発できたとしよう。
危険な橋を渡り、あの狡猾な獣を出し抜けたとしよう。
が、一度正体が割れれば、それまでだ。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
もし捕まりでもして俺の身柄が割れ、ただの非力な底辺だとバレたら?
うだつの上がらない下っ端門兵だとバレたら?
ましてやトレバーは俺の顔を知っている。
声一つで、俺だと勘づくかも知れない。
その結果身元が割れ、犯罪組織から物理的な報復があったとしたら?
……耐えられない。
この能力は、正面から戦うにはあまりにも非力なのだから。
ただ人に気づかれにくくなる程度のもので、
自由な夜の散歩のためのものだ。
度胸の無い者が持っていても、意味のない物だった。
門兵にもなれない。
冒険者にも怖くてなれない。
告発者にも、復讐者にもなれない。
かと言ってトレバーの奴隷になって、死んだような人生を送るのは嫌だ。
罪悪感と自尊心をすり減らして、少しずつ行きたまま死んでいく人生。
それならいっそ、ひと思いに野垂れ死んだ方がましかもしれない。
……もう、いっそ終わりにしようか。
「……」
壁に立てかけられた剣を見る。
カーブルトからもらった剣だ。
剣を手に取り、刃先を掴む。
「……」
それをゆっくりと首に添えようとして――――
ダメだ。
俺は剣をその場に手放す。
「ハハッ」
自嘲の笑いがこぼれる。
震える指と、滲む視界。
この自分には、無いのだ。
終わらせる勇気すら。
せめて腕や足が使えなかったら?
せめて持病があったら?
どこか体に不具合があるなら、全て諦められた。
仕方ないと、言い訳できた。
でも、憎らしいことにこの体は五体満足。
それがかえって、自分を責め立てる。
体が動くから、言い訳が出来ない。
体が元気だから、このすり減るような日々はこれからも続いていく。
前向きに生きることも出来ず、かといって自らを終わらせることも出来ない。
これから先も、苦しい日々を生き続けるのだ。
生と死の間で、魂がすり減ってなくなるまで。
……ああ、そうか。
二度目の人生をやり直すために何者かになりたかった。
が、俺は何者でもなかった。
最初から、そのような能力など与えられていなかったのだから。
前世と同じように。
「ああ……」
頭を押さえる。
脳の奥から、刺すような痛み。
酷い頭痛だ。
悩み事が多すぎて、それを解決するにはあらゆるものが足りない。
嫌になったので、一度寝てしまいたい。
そうすれば、短い間は目の前の問題を遠ざけられる。
ずっと前に、誰かが言った。
『お前にならできるさ、いい戦士になれるし、いい友人を手にする。
何たってお前は、俺の仲間だからな』
……綺麗事だ。
呟いたその言葉は、誰にも聞こえず消えた。
やがて眠くなり、現実から逃げるように意識を手放した。
・
・
・
その日も、悪夢を見た。
「ヒッ……ヒッ……」
暗闇の中、俺はひたすら逃げ続けた。
背後から迫って来るのは、最も恐ろしい気配。
長い間目を背け続けた狂気そのもの。
怖くて、後ろを振り向けない。
見てしまえば、見てしまえば。
追い詰められた心は、もう……
何かの気配は、どんどんと迫ってきて―――
「……はぁッ!」
思わず飛び起きる。
汗で感触が悪い。
「う……あああ……」
俺は呻き声を漏らす。
眠った先にも、逃げ場は無かったのだ。
・
・
・
「はい、おまち!」
そう言ってマガリは朝食を客の前に置く。
今朝も食堂は大忙しだ。
出勤がてら、スープの匂いでふらっと立ち寄り朝食を食べる人も少なくない。
「できたぞ!」
間髪入れず、キッチンから父親の声。
すぐに取りに行こうとし――
「……あ」
ユーヤだ。
部屋着のまま、ふらふらと玄関に向かおうとしている。
外出?
いつもなら、朝食を先に食べるはずだ。
それに、まだ病み上がり。
癒し手様からも、気をかけるよう言われている。
「ユーヤ! 朝食は!」
「……」
「聞こえてるの!?」
「……」
ユーヤはそのまま、おぼつかない足取りで外に出て行った。
まるで、こちらの声なんて聞こえていないように。
・
・
・
前方の出窓から、差し込んだ陽光によって空気中の粒子が照らし出されていた。
長椅子の隅に座りながら、石造りの壁にもたれかかるとひんやりとした感触が伝わってくる。
周囲では人々が立ち上がり合唱団と共に歌っていたが、
それと同じようにする気力はなかった。
立ち上がろうにも、体に上手く力が入らない。
まるで、見えない重力がまとわりつくように。
何を食べても、味気が無い。
と言うより、味がよく分からない。
周囲の景色も、どこか現実味がない。
どこか色あせて見える。
まるで、見えないガラスを隔て、自分一人が別の部屋にいるような感覚。
……いや、自分一人の方がいいか。
これ以上は、もう、耐えられないのだから。
「導きの霊よ、どうか私たちに今日もお恵みくださいますよう。
その御言葉をお授けください……
さて、本日のテーマは、人の生きる姿勢についてです」
登壇した神父は最初にそう言った。
「聖書を読み解くと、救世主様に導かれた人達の中には、
負い目や欠点があるような人達が存在します。
例えば、トラウマや傷があり、人格に多くの難があるような人達です。
人によっては、近寄り難い印象を与える人物たちかも知れません。
聖書に登場する老賢者は、めしいた老人で頑固な人物であり、
村の人々からも敬遠されていた人物として描写されています。
しかし、救世主様はその人の知恵を知り、山奥の住居を訪れ、頭を下げて助力を求めました。
私たちは時に、彼のような人物を近寄りがたいと見なすかもしれません。
私たちは負の部分や、自分に足りない部分を見がちだからです。
自分たちの不安や恐れ、取り巻く環境によって影響されて揺れ動くから。
また、私たちは知らず知らずのうちに、他人と比べ自分を卑下してしまう事があるかも知れません。
肉体的、そして精神的な問題を持っている人がそうであるように」
「……」
まさに今、自分がそうなのだろうか。
色々な物事に追いつめられて、道を見失っている自分がそうなのか?
えぐるような指摘に思わず席を立って退出しようとする。
が、体に力が入らない。
「しかし、私たちはこの場所で聖書を通じ、御言葉の数々を学びました。
聖書を読み解けば、救世主様は彼等に平等に接し、誰にも隣人のように接していた事が分かります。
救世主様が私たちを見ている視点と、私たちが私たちを見ている視点は、
必ずしも一致しないのです。
何故なら、私たちは自分が体験した事を基準に物事を判断するからです。
私たちは生まれた時からそれぞれの価値観を持っています。
例えるなら、皆が自分自身を投影する鏡を持っています。
この鏡は、恐らくまだ胎児の頃から形作られていきます。
胎児は母親と、母親を取り巻く環境によって既に物事の一端を感じ取れるようになります。
その時点で既に鏡は形成されていきます。
まだ母親のお腹にいる時、父親が母親に対して悪い態度で接したり、
あるいは夫婦間で喧嘩をしたり、酷い言葉で罵倒し合ったかもしれません。
理不尽な事ですが、それもまだ胎児に影響を与えてしまいかねます」
胎児にそんな感受性があるのだろうか。
疑わしい話だ。
遺伝子によって、何かしらの影響があるにしろ。
「友達と遊ぶ年頃になっても、人から拒絶されたり、いじめを受けたり、罵倒されたり、容姿でからかわれたりしたかも知れません。
親からかけられた酷い言葉や行いもそうです。
その言葉を聞いてしまえば、それを元に鏡を形成させてしまいます。
そして自分をその鏡に投影した時、それを受け入れしまう。
自分なんて誰にも好かれない。頭も容姿もよくない。
外を出歩くにも怖くなり、自信を失う。
それを自分として無意識に受け入れてしまう。
私たちは全員、生まれた人は皆、その鏡に晒されています。
何故なら、私たちは完璧な両親や環境から生まれた訳じゃないから。
職場や学校等で私たちに物を教える年上の存在を誰しも持つと思います。
彼等もまた、その鏡に縛られている人間であるが故に、
その行いは完璧ではなく、教えを乞う我々を正しく導けない事があります。
人を縛る鏡は、そのようにして、他の人をも縛る鏡となります。
そういった光景をどこかで見たり、あるいは自身が体験した事がある人がいるかも知れません。
そして実際に、縛られてしまった人もいるでしょう。
その人の頭の中には、子供の頃どこかで若い頃に言われた言葉が強く残っているんです。
俺は一生誰とも分かり合えない。誰も俺を分かってくれない。
そういった言葉は鏡に積み重なり、今も喉元に刺さったとげのように人を苦しめます。
それはどのような偉大な人や、能力のある人も例外ではありません。
最初の人々は、地上の人々を抑圧しました。
形成された鏡を通して、人々の心をも縛りつけていました。
地上の人々は皆、こうべをたれて従うしかなった。
だからこそ、救世主様は立ち上がる事を決意しました。
人々を解放するために」
鏡か……
仮にそんなものがあるとして、俺の鏡はひどい形をしているに違いない。
「私たちには機会があります。
違う鏡を選択する機会です。
それは教えの鏡です。
目の前には子供の頃からつちかった経験の鏡と、救いの鏡があります。
人々を愛し、思い、そのために命を捧げた人達の鏡です。
それによって、私たちは自由となり、傷やトラウマ、あなたを縛っている物、旧い鏡は砕け始める。
救世主様はその命と引き換えに最初の人々の支配を終わらせましたが、
多くの人々の心は今も縛られたままです。
彼は天空城の戦いの末、死の間際、唯一生き残った初代癒し手様にこう言い残されました。
『私たちの旅路を書き起こして、後世にまで伝えて欲しい。
私たちが何を思っていたか、私たちが何のために戦ったか。
人々は私たちを背教者だとののしり、道を阻んだが、恨んではいない。
その心が本当に自由となったとき、もう一度私たちの行いを考えてみて欲しい』
救世主様は、彼は、誰も恨んでなどいませんでした
そして後世の我々へも、道を残してくださいました」
何度裏切られても、人を許せたのか……?
底の抜けた善人。
それは見ず知らずの俺を、命がけで助けてくれたカーブルトのような。
神父は人々を見渡した。
「今日、皆さんがここに足を運んだのは偶然でしょうか。
皆さんが何かを求め、導かれたのではないでしょうか。
救世主様は、後世の私たちを救うため、新しい人生の道を用意してくれました。
一度それを受け入れれば、あなたの鏡は崩れ去るでしょう。
自分が生まれた場所なんて、関係ない。
過去に何があっても、未来に何があろうとも、関係ない。
愛してくれた人がいなくても、社会でうまくやっていけなくても、関係ない」
例え貧しくても、人生に希望が無くても?
――例えすぐそばに、人の面をかぶった獣がいても?
「それを受け取り、教えを基盤にして自分を構築し直せる。
そうすれば、あなたは解放される」
「……」
思考がまとまらない。
反論する気力が、湧いてこない。
現実は辛く、苦しかった。
「私が知っている人たちにも、新しい鏡を選択した人達がいます。
私自身もその一人です」
普段はくだけた雰囲気の神父の声が、初めて震えた。
「私は元々、良くない環境で育ちました。
家族との折り合いがつかず、若くして家を出ました。
傭兵として各地を転々とし、理由も分からず、満たされない人生を過ごしてきました。
時に酒に溺れ、戦いに溺れました。
今では、想像もつかないでしょうが。
私は自分の鏡から逃れるために必死でした。
弱い自分を偽る為に、自分を大きく見せようと必死でした。
相手を打倒すことにより、強い人間であることを必死で主張しました。
しかし、ある聖職者に助けられ、教えに出会いました。
もう一つの鏡で物事見た時、私は初めて安らぎを覚えたんです。
もう、誰を偽る必要もない、必死に生きる必要などないのだと。
なぜなら、我々は既に救われているのだから。
でも、それでハッピーエンドではありませんでした。
何年もこの場所にいたからと言って、捨て去った鏡が現れないとは限りません。
捨て去った鏡は弱りきった私の前に何度か姿を現そうとします。
私自身もまだ、この道を学んでいる最中です」
「……」
「皮肉なことに、私は自分を弱いと認めた時、初めてその鏡を選ぶことができました。
心の弱き事は悪いことではありません。
弱きゆえ、気が付ける事もある。
人の痛みを、知る事もできる。
そしてその弱さを、主は導いてくださる。
聖書を通じて、手を引いてくださる」
悲しむ者は慰められる、か。
「ただ単に、自分は弱いと言いふらすわけではありません。
一対一で、主と話す事を学んでください。
導きの霊を通じて、貴方は私を知っている。
貴方が私を見るように、私は私を見たいのだと。
残念なことに、教えを受け入れたからといって、すぐに生まれ変わるわけではありません。
信仰の道は一日にして成りません。
私たちは何度もここに足を運び、聞いて成長しないといけない。
一歩一歩山を登るのと同じです。
そういった日々の中で、鏡と信仰は養われていきます」
山か。
その山を登り続ければ、俺もいつかできるだろうか。
全てが格上の、想像するだけで逃げ出したくなるような連中に、
いつか、立ち向かう事ができるのか?
……既に折れた、この心でも?
静まり返った教会を見渡して、神父は調子を一転させた。
「おっと、少し込み入った話になってしまいましたね。
私は皆さんに宗教家や聖職者のようになって欲しいとは思っていませんし、
ましてずっとおごそかに主を讃えて欲しいとも思っていません。
そういのは他区の教会でもやっていますから。
わざわざこの教会でもやる必要はないかなって。
歌って踊って人生を楽しむのもまたいいでしょう。
あ、すみません。また司教様に怒られてしまうのでオフレコで。
これを知った人たちが、よりよい人生を過ごせるようになれば、それでいいんです。
私たちは自身の旧い鏡の影響を避けられません。
だからここで日々学び、創造主様が私たちに授けてくれた人生を楽しみましょう」
神父が話している途中で、後ろに控えていた合唱団が静かにゆっくりと歌いだした。
それは閉幕が近い事を示していた。
「私と共にこの祈りを復唱して欲しい。
私たちの目では見えないけれど、彼の霊はここにあります。
解放者にして救世主よ。この時を感謝します。
一人一人の上に注いでくれた事を、その献身を感謝します
私たちを見つけてくれて、語り掛けてくれて、その弱みですら、欠点ですら、
愛してくれてありがとう。
貴方に出会えた事を感謝します。
どうか、私たちが試練を乗り越えて、成長できるように見守っていてください」
・
・
・
信者達がほとんど教会を出て、静かな時間になった。
エタン神父が手すきになった事を確認し、俺は席を立った。
寝不足で頭は上手く働かない。
が、この感情は無視できない。
「あ、ユーヤさん 今日は……」
話しかけてきたリディアを通り過ぎ、
礼拝堂から立ち去ろうとしている神父に声をかける。
「やあ、ユーヤ。今日は……」
「今日のお話について相談があります。いいですか?」
「どうぞ、何かあれば」
「あなたは、古い鏡を捨て新しい鏡を選択するべきだと言った。
そのために教えを学ぶのだと。
でも、それはいままでの人生を否定されたように感じました。
私にとっては辛い過去だったとしても、その旧い鏡も私自身なんです。
あなたは、旧い自分を否定して捨て去れと言うんですか?
……僕は、そんなのは嫌だ」
嫌な事は沢山あった。
が、幼少期の友人との思い出や、
カーブルトとの思い出はかけがいのないものだった。
それらの思い出まで、塗りたくられたような不快感があった。
溜まっていた黒い感情が、堰を切ったように溢れだす。
口調が荒かったせいか、残っていた人々がこちらに目を向ける。
神父の表情は崩れなかった。
「……なるほど。
私は過去を捨て去れとは言っていません。過去を捨て去る事は難しい。
ただ、新しい鏡と旧い鏡、どちらかを選ぶのか選択肢をゆだねました。
旧い経験の価値観と、新しい経験の価値観の違いです。
それの決定権はあなたにあります」
「……人は何かに酔っていないと生きていけない生き物だ。
地位とか、名誉とか。そうですよね?」
「酔っていると言うより、基軸となるものはあるでしょう。
人には皆、優先順位がありますから」
「人は皆、何かに酔わないといけない。
だとしたら、貴方方は宗教に、信仰に酔っているだけの神の奴隷だ」
周囲の人々がざわついているのを感じる。
「お前!」
「ッ!」
後ろから誰かに肩を掴まれる。
まずい、言い過ぎたか。
「いえ、止してください」
神父はそれを制止した。
「それでも救世主様は言うでしょう。貴方に救いを、と」
「……茶化さないで下さい」
「神の奴隷であって何が悪いのでしょう。
他人や能力で決まるような物事を、人生の基盤とするのは危うい。
他人からの評価の中でしか生きられないからです。
人が何かを基盤として決めなければいけない時、
それが信仰であって何がいけないのでしょうか。
信仰はあなたが人生という巨大な迷路に迷った時の指針となり、
貴方の心が暗い時には、御言葉を通じて静かに寄り添ってくれるものです。
書を開けば、いつでも。
そして、揺れ動くものと違い貴方に必要以上を求めない。
信仰以外に、何を人生の基盤にするのですか?何を望むのですか?」
「綺麗事だ!世の中は人との関係で成り立っている。
他人との関係や評価から、目を反らす事なんてできない!」
「ええ。だからこそ人には揺れ動かぬ基盤が必要なんです。
「荒れ狂う海」のように揺れ動き続ける世の中で、
唯一揺れ動かずに、防波堤となってその人を支えるような。
それが信仰ではないでしょうか」
「ッ……」
荒れ狂う海。
あの貴族の瞳がよぎる。
思い出すだけで、気分が悪くなる。
「何を人生の基盤とするのか、決めるのは貴方です。
私たちは御言葉を伝えるだけ。何かを変えられるのは、主の御業のみだから」
「……あなたにとって、宗教とはそれ程の価値があるんですか?
本当に、それほどの価値が?」
「……」
神父は少しの間沈黙し、寂しげに笑った。
「Nothing But Everything《真に価値あるものなど、どれほどあるでしょう》」
神父は続ける。
「何に価値を見出すかは、人それぞれ。
確かに、信仰は人にとっては無意味なものだ。
でも、それをよりどころにして信じている人々の中には、確かに存在しています」
神父の目は俺を見た。
芯の通った眼差しだ。
……彼等の瞳の中には、確かに存在しているのかも知れない。
俺がカーブルトとの旅路を、かけがえのない物だと信じるように、
彼等にとっては、それが信仰なのかも知れない。
「……」
周りをすべて敵と決めつけ、自分一人が被害者。
そう思えば、世界は何と分かりやすい事か。
そうであれば、どれほどよかったか。
だが、現実は違った。
事件が起きた後も、人生のページは続く。
誰かと関わり合って生きていかないといけない。
多くの人は、一人で生きていけるほど強くはない。
どこかで、折り合いを付けないといけない。
でも、心の奥、俺の意固地な部分がまだわめいている。
節操はないのか、と。
心まで差し出す気か、と。
今までさんざん馬鹿にしてきて、手の平を返すな、と。
「うッ……」
反論しようとも、うまく言葉が繰り出せない。
呼吸だけが荒くなっていく。
次第に、呼吸すら苦しくなって来て――――
「……ぁ」
柔らかい。
右腕に、何かがふれる。
誰かに、右腕を握られている。
リディア……
リディアは短い言葉で何かをつぶやいた。
次第に、握られた右腕からじんわりと熱が伝わって来る。
それは温かく、すぐに俺の体に広がった。
次第に呼吸が落ち着き、思考が落ち着いてくる。
……神経を整える祈祷か。
上街の癒し手の得意と聞いていたが。
「大丈夫、大丈夫です」
彼女は、片手で俺の背中をさすった。
「ゆっくりと息を吸って、吐いて……
ここにいるのは、皆、あなたの味方です」
「どう、して」
「言ったでしょう、貴方を導くと」
「……」
そういえば、そんな事を言われたっけ。
癒しの祈祷、その熱の余波。
最初に受けた時は、本当に嫌だった。
それが今では、こんなにも……
……思えば、この小さく柔らかい手に、何度祈られたか。
何度、癒してもらったのか。
ああ、そうか……
既に、手は差し伸べられていたのだ。
既に、救われていたのか。
俺は神父に向き合った。
「僕も……僕も、なれますか?
古い価値観を捨て去って、新しい価値観で生きる事が。
僕のような何をやってもダメな、どうしようもないクズでも?」
このすり減っていくような世界で、今にも崩れ去りそうな立場でも、
堂々と胸を張って生きていく事ができるなら――
「なれます。
かつての私がそうであったように。
少しずつ学び、心を少しずつ養っていきましょう。
そのために、私たちはここにいるのです」
リディア、ジラール、カロル。
優し気な表情で見守っていた。
……ああ、そうか。
彼らは最初から、敵ではなかったのか。
もう、言葉は出てこなかった。
俺はゆっくりと膝から崩れ落ちた。
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