何を第一とするか
その晩、夢を見た。
冤罪で連れていかれた入市者の男。
夫の事を思い、藁にもすがる思いで助けを求めてきた女性。
二人の姿は少しずつ崩れ、化け物のようになっていく。
「見殺しにした」
「お前のせいだ」
「……ッ」
俺は恐怖に後ずさる。
すると、背中が何かにぶつかった。
肩に大きな手が置かれる。
「どこに逃げるんだ?お前は俺の―――奴隷になるんだ」
恐怖で体が震える。
振り返らなくても、奴だと分かった。
「や、やめろっ」
俺はその手を振りほどき、暗闇の中を走りだした。
ひたすら暗闇の中を走り続ける。
逃げて、逃げて、逃げ続けた。
日本にいた時からそうだ、色々な事から逃げ続けて、ずっとそうだった。
「!」
目の前にはいつもの壁があった。
俺の職場だ。トレバー以外の門兵達もそこにいて、冷たい目で睨んでいる。
ジラールも、エルドも、フォルも、ベルナールも、ブロンも、ランドンもだ。
全員がトレバーの味方だった。
「ヒッ」
逃げれば逃げ続ける程、トラウマは大きくなる。
壁は積み重なる。
嫌と言う程分かっていたのに、どうして……!
壁の上で動きがあった。
見ればトレバーが立っていて、弓に矢をつがえている。
「!」
急いで逃げようとしたが、身動きができない。
足元は、泥沼のようにぬかるんでいた。
「な、なんで!」
焦燥感と恐怖で胸が苦しい。
トレバー矢先をこちらに向けた。
その先端から、目を離せなくなる。
「や、やめてくれ!やめて!誰か!」
助けを呼んでも、他の門兵達は冷たい目で眺めているだけだった。
「カーブルト!リディア!ジラール!誰か!」
助けは誰も来ない。
やがて弓矢はとうとう放たれ――――
「やめてくれぇ!」
気が付けばベッドの上で上体を起こしてそう叫んで飛び起きていた。
全身に嫌な汗がこびりつき、ひどい不快感。
空が明るくなっている。
最悪の目ざめだ。
・
・
・
俺は無気力に長椅子にもたれながら礼拝堂で座っていた。
やがていつものように合唱団が壇上に立つと、
いつものように空々しい、神への尊敬や愛を歌った讃美歌が礼拝堂にこだました。
本当はもうここに来る必要なんて無かった。
治療は終わっているのだから。
しかし、何故かこうして足を運んでいる。
俺は、俺は……もはやここまで追い詰められているのだろうか。
讃美歌が歌い終わり、人々が席につくと神父が登壇した。
「やあ皆さん。最近はもう暖かくなってきましたね。
そろそろ、皆さんも衣替えをしているみたいですね。
今年の冬も乗り越えられたようで何よりです。
さて、今日は久々に、聖書におけるこの世界の成り立ちについて学んでみましょう。
聖書において、残念ながらこの世界は汚染され、見放された世界だと記されています」
……聖書の内容と、意見が合ったのは初めてかもしれない。
「創造主が元々望んでいた世界とは程遠く、
最初の人々が創造主と袂を分かつ事を決めてから、
この世界は呪われてしまいました。
遥か昔、この世界の殆どは荒地であり、
異形や恐ろしい獣たちがはびこる混沌の世界でした。
異形たちは日々、喜びの為に殺し、奪い、争いました。
理性のある生物が存在せず、人間もまた存在しませんでした。
ある時、遠くの世界から星をまたいで創造主様が降臨なされました。
創造主様はこの混沌とした世界を見て悲しみ、
その一振りで地上から異形共を追いやりました。
血で汚れた汚水を清め海とし、
血の染みた荒地を清めて草木を咲かせ、
血の染みた雲の空を清め青空とし、
最後に自身に似た生物をつくられました。
それが、「最初の人々」とされています。
我々はその時に、人を人たらしめる知性、複雑な構造の臓器、
生き抜くための腕や足を与えられました。
そして何より、創造主は私たちに知性を与え、
選択する意思をもお与えになりました。
創造主は私たちに、全てを使う権利を与えてくれました。
創造主様の均した原初の世界には、寒さも、熱さもありませんでした。
人は病気にならず、寿命に上限はなく、最初の人々は創造主の御力の一端さえ与えられていました。
今のように、野にはびこる異形もいませんでした。
今よりもずっと優れていて、高次元の世界でした。
しかし、原初の世界は唐突に終わりを迎えました。
最初に作られた人たちは、間違った選択をしてしまったからです。
創造主は、地上のすべてを子らの手に取って良いが、
それだけは触れてはならないと言いました。
それは創造主が子らに課した唯一の戒めでした。
しかし、最初の人々の一人である彼はそれに触れた。
異形達の甘言に、そそのかされて」
……禁断の果実。
「その結果、人間、海、草木、大気、全ての均衡が崩れ始めました。
最初の人々はその影響を初めて感じ取りましたが、既に時は遅かった。
病気や怪我、疲労、ストレス、喧嘩。
創造主とのつながりが断たれた事により、それらを一斉に初めて経験しました。
そして、最初の人々から生まれた子供達にも呪いが架せられました。
寿命は縮み、理性は衰え、特別な力も劣化してしまうようになった。
世代を受け継ぐ毎に、その影響は強くなりました」
呪いね……
人が堕落したのは、その呪いが原因という事だろうか。
生まれてきた子らに、何の罪があっただろうか。
「最初の人々は創造主に許しを請おうとしました。
しかし、創造主は悲しみ、既に彼方への世界へと帰られてしまいました。
やがて最初の人々、あるいは天使と呼ばれる者達は旧神族の始まりとなりました。
創造主が去った事により世界の均衡が崩れ、再び世界に異形達が現れました。
それらの勢力と最初の人々は長い間争いを続けました。
最初の人々による長い統治は独善を招きました。
時代が下るにつれ、無限の寿命と創造の力の一端を持つ最初の人々、
つまり旧神族は、寿命も短く能力も持たない子孫たる地上の人々を見下すようになりました。
権威の象徴たる至高神は、その権威に従わぬものを次々と裁きの雷にかけました。
それによって地上の人々の心は権威と恐怖に縛られました。
死と病を司る冥府の神は人々が思い上がらぬように死の鎌を振るいました。
涜神者と見なされた者の地にはその鎌によって病や不幸がふりそそぎました。
豊穣と飢えを司る大地の女神は、
自分の気に入った者にのみ恵みの雨を与え、
そうでない者の地の作物をやせ細らせて飢えさせました。
人々は、かの女神に服従してゆるしを請いました。
多くの恐ろしい神によって人々は身も心も縛られ、
そのような時代が気の遠くなる程続きました。
いつしか本当に奴隷のようになり、原初の世界の、
創造主が定められた人としてのあるべき姿を見失ってしまいました。
しかし、今から300年前。
救世主様は当時の仲間や自身の命との引き換えに、
旧神族をこのアルティリアから追いやる事に成功しました。
彼等の象徴たる天空城は燃え続け、私たちはとうとう解放される事が出来たのです。
そしてこの解放者様が、我々のあがめている救世主様になります」
この話は、どこまでが本当なのだろうか。
嘘や脚色が多く混じっているのだろうが。
「しかし、未だに原初世界との、創造主様との繋がりは断たれたままです。
悪い関係を持っている夫婦。
妬み、嫌悪、恨み、自己嫌悪など、悪い感情を抱える人々。
病気や、病院、薬も、死者も魔王も本来は存在しない物でした。
この世界の呪いから解き放たれ、創造主様が望んだ原初のような姿と心に戻るにはどうしたらいいのか?
原初の人々の間は争いが無く、心が満たされていたのは、それぞれが創造主様との繋がりを持っていたからとされています。
創造主様の御言葉や愛が最初の人々の心に注がれ、それ故に人々は満たされていました。
今のように汚染され、人々が隔絶された世界で再び繋がりを持つと言うのは中々難しい。
それでも、私たちはやらねばなりません。
我らを救ってくれた救世主様を人生の第一に置き、
彼の御言葉に耳を傾け、日々彼に祈りましょう」
結局そういう話になる訳か。
「彼を信じ始めると、色々な事が良い方向に向かいます。
何故なら、聖書を人生の第一に置くことは人生の安定に繋がるからです。
中には、人生の第一を仕事や、お金や、パートナーに置く人もいます。
しかし、仕事やお金はモチベーションになるかもしれませんが、
愛を養わず、物事の指針にはならない。
パートナーは確かに愛を養いますが、パートナーからの相対評価を人生の第一に置くのはもろい基盤です。
パートナーもまた人であり、揺れ動く生き物だから。
例えば、仕事で成功していても、家庭内は酷い状況。
例えば、パートナーを第一に置いても、どこか心が疲れている。
なぜか?
第一にするべき事が間違っているからです。
聖書は知恵の泉であり、他人との関係、自分自身との関係について教えてくれます。
主が身を賭して私たちを愛してくれたように、私たちも主を愛しましょう。
故に讃美歌は愛を歌うのです」
・
・
・
「……」
話が終わって人々が席を立つ中、
俺はぼうっとした頭で説法の内容を考えていた。
相対評価……今の俺のように、他人の感情ばかりに怯えている人間の事だろうか。
ギリッと奥歯を噛みしめた。
世界が汚染されていると知っていても、
とうに接続は失われ、人々は堕落していたとしても、
それでも諦めてはいけないのか?
……もう、諦めてもいいはずだ。
「……ユーヤ、ですか?」
隣から控え目な声がした。
「珍しいですね。こんな所で会うなんて」
「……あ」
ジラールだ。
普段の窓口役の服装よりも、少し堅い印象の正装を身にまとっている。
気まずい。
昨日、その場を逃げ出してそれきりだ。
「もしよければ、隣いいですか?」
「え、ええ……」
そう言ってジラールは横に腰掛けた。
「……久々に信仰の日に休みが取れたので教会に来てみましたが、
色々と興味深い話が聞けました。
やっぱり、この世界で人が分かり合おうとするのは大変ですね。
ユーヤは、どう思いましたか?」
「……私は、そうですね、あまり世界の成り立ちを知らなかったので色々と聞けて新鮮でした。
そう言えばジラールさんがここにいるという事は窓口役は誰がやってるんですか?」
ジラール以外に窓口役をやれそうな人が、あの門にいただろうか?
いないとしたら、今あの門はどうやって回しているんだ?
「……実を言うと、代わりはベルナールがやっています。
彼なら文字も読めますから。
まあ、口頭確認等はその分エルドさんにお願いしていますが……」
ジラールは歯切れが悪そうに言った。
「それは……大変そうですね」
普段から愛想の悪いベルナールと仏頂面のエルド、
両者が上手く噛み合っている景色が想像できない。
「ベルナールは読み書きに関しては私よりも全然できますから……
それより、ユーヤがここにいるのは少し驚きました。
まだ治癒の祈祷のために通われているのですか?」
「……ええ、まあ、そんな所です」
「……」
「……」
少しの間、沈黙が続く。
互いに、昨日のあの事に関して話すのは避けていた。
俺は前々から思っていた事を口にした。
「ジラールさんは、どうして宗教があるんだと思います?
創造主や世界の成り立ちとか、心から聖書の出来事を信じている人なんているんでしょうか? ……あ」
言ってから思わず声が出る。
かなり際どい質問だった。
この妄信的な中世時代では、普段から控えていたような言動だった。
「……あ、いや、今のは」
「……」
ジラールは少しの間黙り込んでいたが、ゆっくりと口を開いた。
「……個人的には、自分自身に折り合いをつけるためなんだと思います。
世の中には、簡単に割り切れない物事が沢山ありますから……」
「……」
「人によっては、割り切れない事をお酒で割り切ろうとする人もいます。
でも、酔って紛らわすんじゃなくて、
同じような事があった時に立ち向かう方法を知らないといけない」
普段から明るいジラールが、弱気な事を言うのは初めてだ。
入市者に強く当たられる事はあっても、
業後になれば一緒に飲みに行こうと誘ってくれる少年だった。
何か地雷に触れてしまっただろうか。
俺は唾をのんだ。
「ユーヤは僕がどうして一部の入市者から強く当たられるか、誰かから聞いていますか?」
「……知らないですね」
何となくタブーとなっていて、聞きづらかった事だ。
「いつか誰かから聞くでしょうから、私から先に言っておきますね。
私はこの都市の生まれではありません。今では放棄された村々の一つで生まれました。
不死公の侵攻が始まる前、私は幼少期を自然豊かな山間の村で過ごしました。
あの時はやんちゃ坊主で、同じ年の子供達と山登りや木登りなんかして遊んでたんです」
「へえ……」
意外だ。
今の性格は、根っからの物ではなかったのか。
「父親は地元の村ではそこそこ名の知れた商人でした。
勉強もさせられましたが、よく遊んでくれました。
母はおおらかな人でしたが、怒る時はちゃんとおっかない人でした。
恵まれた子供時代でしたが、唐突に一変しました。
まだ幼い夜の事、気が付けば私は父の馬車の上にいました。
後ろを振り返ると、村が炎に包まれていました。
母とはその日以降、会う事はありませんでした」
来たのか、死者と獣たちが。
「城塞都市での生活を始めてから、父の性格は一変し、お金にがめつくなりました。
廃棄された村々を我先にあさり財貨を集め、
避難民が寝泊まりする宿泊場所を、足元を見て法外な値段で提供したり、
それらのお金を手元に高利貸しを始めました。
父のおかげで読み書きが学べる環境や良い生活を維持できたとは言え、
人々からの非難や恨みの声は、幼い子供にはつらかった。
いつしか私は父と喧嘩を繰り返すようになり、反発して若くして都市を出ました。
父はお前と弟のためだと言っていましたが、当時の私は周囲からの非難で一杯でした。
そしてカヴェルナで一人生活を始めましたが、
父の悪名は聞こえていて、私の顔や名前を見ただけで、嫌悪を示す人々がいます。
そういう時は、手を出さないようエルドさんに頼み込みました」
昨日の、あれの事か。
「どうして、そんな事を?」
「父の稼いだ金で、育てられたのは確かですから」
律儀な事だ。
わざわざ被る必要のない父親の罪を、被っていると言うのか。
「当時は父が嫌いでたまりませんでしたが、
一人で生活して色々な苦労を重ねていく内に、
当時の父の苦労が少しだけ分かりました。
劇的に移り行く時代の中で、何とか家族が生きる道を探した結果なのでしょう。
かと言って今までの積み重ねた感情が簡単に無くなる訳ではありませんから、
父と素直に和解する気持ちにもなれず……」
彼はそう言って、困ったように頭をポリポリとかいた。
そこには、年相応に悩む一人の少年がいた。
「世の中には簡単に割り切れない事が沢山あると思います。
そう言った時に、教えは時に人を慰め、導いてくれるものなのじゃないかと思うんです。
こんな暗い時代だからこそ、人々は何かにすがりたいんじゃないかと思うんです」
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