疲れに対して

 その晩、夢を見た。


「ハッ……ハッ……ハッ……」


 俺は闇深い夜の森を、がむしゃらに逃げ走る。

 肺や足、あらゆる部分が痛い。


 が、足を止める事はできない。

 すぐ背後には獣の吐息。

 追いつかれれば、命はない。


(誰か……)


 森の闇は無限に続いている。

 先が無く、一寸先が崖であっても分からない。


 恐怖を押し殺して、ただ走り続けるしかない。

 少しでも立ち止まれば、たちまち追い付かれる。


(もう……)


 俺は一人で森を走り続ける。

 焦燥感、恐怖、疲労、心が折れそうだった。


(誰か、助け――)


 俺はその場で足を取られ、大きく転ぶ。

 そして、影の獣が牙を剥き――


「……ぅあ!」


 俺は目が覚めた。

 酷い寝汗で、気持ちが悪い。


 ……どうして今更、あの時の夢を見るのだろう。


 ・

 ・

 ・


 祭壇の前には、いつものように合唱団が讃美歌を歌っている。

 それに応じて、信徒も起立して合唱している。

 数曲歌い終えた所で、ようやく皆が座り始める。


 信仰の曜日という事もあり、隣には世話になっている宿一家、マガリ、大将、女将も着席している。


 普段は仕事姿の3人も、教会に行くとなると服装を整えている。

 マガリも普段のカチューシャではなく髪を下ろし、給仕服ではなく黒を基調としたドレスの上から、ジャケットを羽織っていた。


 この街の人々は、律儀にも日曜日には教会に来るらしい。

 こんなカルトのために?

 ご苦労な事だ。


「ユーヤ、眠いの?」


 小声で隣のマガリが言った。


「うん、まあ、ちょっと……」


 俺は目をこすりながら答える。

 昨日見た悪夢のせいか、どうにも眠気が取れない。


 ん、あれ?


 讃美歌が終わると、登壇したのはいつものエタンではなくリディアだ。

 エタンはというと、端の方で微笑みながら見守っている。


「皆さん、本日もお忙しい中お越しいただきありがとうございます。

 今日も皆さんと共にあれて幸せです」


 壇上に立ったリディアの顔は、普段と比べて若干強張っているように見える。


 ……それもそうか。

 今日は信仰の曜日、教会に訪れた人たちは椅子を埋め尽くしている。

 300人はいるだろう。

 まだ15、6そこらが相手にするには多すぎる数だ。

 シスターも大変だな。


「本日はエタン神父に代わって、私が代わりにお話しします。

 精一杯やらせていただきますので、よろしくお願いします」


 さて……今週から導きの霊の守護する月間が終わり、初代癒し手様の守護する月間になりました。

 ここで今一度、初代癒し手様に関して振り返ってみようと思います。


 初代癒し手様は、主の旅路を支えた随行六聖の一人で、心優しい女性だったとされています。

 旅路が終わった頃、癒し手様以外の六聖は皆殉教されましたが、自身は御力の一端を授かり、初代の教皇と祈祷術の開祖となられた方でした。


 その一生を、奉仕にささげた方でした。

 その祈りにより、多くの病人と子供を救われたとされています。

 以降、彼女は病人と女性と子供の守護者として知られるようになりました」


 最初の治癒の魔法の使い手という事だろうか。

 だとしたら、聖職者と言うよりも魔女に近い気がする。

 修道服も魔女みたいに、黒が基調だしな。


「初代癒し手様を始めとして、治癒の祈祷が広まりました。

 現在はこのアルティリア各地で、それが使われています。

 祈祷の素質ある者は癒し手と呼ばれ、死後はさまよえる信徒の魂を、主の御許まで導く定めがあるのです」


 生前は病人の為に働き、死んでからも人々のために働くのか。

 有給はあげて欲しいものだ。


 リディアは緊張したように唇を湿らせた。


「ここでは一度、その生涯について注目してみましょう。

 初代癒し手様はその生涯において、配偶者を持たず、質素な生活を送り、人々の為に尽くされました。

 だからこそ、この教えはこれ程までに広まったのでしょう。


 しかし彼女のように、生涯を通じて自分を律する事はどれだけ難しいのでしょうか」

 自分を律する事に関しての戦いの形は多くあります。


 分かりやすい物で言えば、節制、毎日祈り続ける事、人々に愛を持って接する事。

 さらに言えば、人への態度、言葉の選び方、話し方、色々な気遣いの形にまで及びます。

 大なり小なり、人々は常に選択をして自分の態度を決定していますよね」


 そう言えば門に配属された頃は、人との関わり方に気を遣っていた気がするな。

 ……今は全然やってないな。


「中には様々な理由から、道を辿り続けるのを難しいと感じる場合があるでしょう。

 そういった時、私は、初代癒し手様の御業や言動禄を思い出すようにしています。

 また、私は老賢者が聖書の中で述べた言葉を思い出します。

『人は常々の善行に嫌気がさしてはならない。心を引き締めて、その道を辿るのである』と」


 要は教えにのっとり、もっと人に気遣って生きろという事か。

 ……余計なお世話もいい所だ。

 俺と同じ目にあっても、同じことが言えるのだろうか。


「聖書の中には人の生き方への姿勢についての御言葉が点在します。

 この教会では聖書における、日々の生活を良くするための部分に焦点を当てています。

 ……以上で、私のお話は終わりになります。ご清聴いただきありがとうございました」


 リディアが礼をすると、周囲の人々から拍手の手が挙がる。


「他の教会よりも分かりやすいですよ!」

「ありがとう!」


 男達が声援を送る。

 今日もファンは元気だ。

 少しして、神父が登壇する。


「ありがとう。シスター・リディア。どうやら彼女は祈りが通じるだけではなく、神の御言葉の理解者でもあるらしい


 ……さて、私の意見を言わせてもらいましょう。

 聖書を読んで思うに、正しき道に至るには以下が必要になります。


 一つ目は、まず善行を心がける事

 二つ目は、疲れに対して抗う事

 三つ目は、物事に対して落胆しない事


 ここに来る人々の多くに、直面している問題があると思います。

 ですが、一度これらを通じてその問題に取り組めば、多少見方が変わるのではないでしょうか」


 説教されているようでむずかゆい。

 俺はこんな事で考えを変えんぞ……


「正しき道に至った者は、物事をふかんして見る事が出来るものだとされています。

 そのためには、教えへの理解を深め、主をあなたの心に受け入れる必要があります。


 やがてそれは貴方の心に根差し、大樹の如く根を張り、そして人生を導いてくれます。私がそうであったように。


 聖書にはこうあります。『例え旧き神々や、主の獣たちが襲ってきても、私から神の愛を取り上げる事は出来ない。私の心の側には、常に彼が寄り添っているのだ』と」


 心に寄り添う者、か……

 要は心にイマジナリーフレンド的な何かを作れという事だろうか?

 その内、自我を持ち始めて勝手に喋ったりしないよな?


「それでは、今日は終わっていきましょう。

 主よ、本日も御言葉をいただきありがとうございます。

 貴方と共に人生の旅路を進み、私に物事に対処する力をお与えください。

 疲れ、落ち込んだ時にこそあなたの存在が必要です」



 合唱団が歌い上げる。


「貴方は我が岩 我が砦

 例えどのようなものが襲って来ようとも、

 貴方と仲間たちの築いた城壁は壊されない。


 御言葉が心に沁みこみ、枯れた木々を潤わせる。

 穢れは退き、くびきは断ち切られる。

 どうか貴方の側にいさせてください。我々の解放者よ」


 ・

 ・

 ・


 礼拝堂で知り合いと話している宿一家と離れ、俺はいつものように診療室に向かう。

 騒がしい礼拝堂から一転、人気のない静寂が辺りを包む。


 同室にいるのは、初日に出会ったカロルだ。

 リディアと違って、切れ目でどこかピンとした空気を張っている。

 あまり話した事がないので気まずい。


 前と違って、今度は怖い顔の修道士もいない。


「……前に来た時にリディアから手当てを受けた時は、付添の修道士がいたんですが、今日はいないんですか?」


 カロルは包帯の準備をしながら答えた。


「ブラザーがついていたのは、シスター・リディアが特別な人だからです。

 この都市に二人しかいない、治癒の祈祷を行える癒し手ですから」

「二人しかいないんですか?」


 そんなに少ないのか。

 それは重宝されるはずだ。

 やっぱり、選ばれた者は違うらしい。


「祈祷の素質があるのは本当に稀なんですよ。

 その上、多くの癒し手の方々は前線で職務を行っていますから、内地の都市はどこも人手不足が酷いと聞きます」

「もう一人の癒し手もこの都市のどこかにいるんですか?」

「ええ、それこそ大鐘楼の置かれた、中央第一教会に勤めているらしいですよ。


 治癒の祈祷には、相手の怪我を治すことも出来ますが、

 熱を通して相手の自律神経を整え、人の心をケアをする祈祷もあります。

 上街の癒し手様は、高貴な方々に後者の祈祷を行う事が多いのだとか。


 と言っても、ほとんど上街から出門されないので、お姿を見た事はありませんが」


 カロルは慣れた手つきで道具を準備すると、次に俺の包帯を取り始める。

 どのような副作用が出たか、副作用がどれ程続いたか、痛みを感じる所がないか等の質問に、淡々と答えていく。


「本当は、シスター・リディアはこんな所にいるような人じゃないんですよ」


 包帯を取り換えながら、カロルが続けるd。


「治癒の祈祷は本来、選ばれて天より授かった物。

 本来なら、彼女も上街で良い暮らしが出来たでしょう。

 事実、最初はそうなる予定だと聞いていました。

 それが直前になって、急に下街の教会に赴任すると言い出したのですから、当時は皆驚いたものです」


 自分からこんな下街に?

 物好きな人だ。

 俺だったら上街でヌクヌクと暮らすだろうな。


「最初に癒し手様をお出迎えした時は、皆緊張したものです。

 治癒の奇跡なんて、下街の私たちには生涯縁がないものだと思っていましたから」


 例えるなら田舎の寂れた支店に、

 本店から偉い人が急に赴任してきたようなものだろうか。


「あの時だけですよ。エタン神父が緊張で青ざめていたの!

 普段から司教様から目を付けられているからって、監視役が来たのかと思ったのかしら!」


 そう言ってカロルはクスクスと笑う。


「リディアはここに来る前は何を?」

「教国の神学院を卒業して、最初の赴任先がこの国だったようです」

「本当ですか?」


 俺は驚いた。


 卒業して初めての勤務地が、国外という事か?

 退職代行の出番だな。

 

 よほど、癒し手がいなかったんだろうか。

 今ですら二人だけだし。


「国外から、わざわざ来られたのですか?」

「はい。癒し手の素養がある修道女は、皆教国で学ばなければなりませんから」


 恐らく教国とやらが、癒し手育成のノウハウを独占しているのだろうか。


 しかし、あの妙に正義感の強い性格の理由が分かった気がする。

 要は学校を卒業して新卒の勤め先がここなのか。


 年齢も高校生程度で、社会経験が少ない。

 理想だけで、空回りしている事にも気づかないまま突き進んでいるのだろう。

 だから、あの夜のような強硬な行動に出たのか。


「数か月前にここにいらしてから、本当に大変な毎日でした。

 世間知らずだし、前例のない行動をするし、色々と指導が必要でした。

 挙句の果てに、患者の意思に反して治癒の祈祷を行うなんて……」


 そう言って愚痴を吐くカロルだが、内容とは裏腹にどこか楽しそうにも聞こえる。

 リディアが妹なら、世話焼きの彼女はさしずめ姉という所だろうか。

 どことなく、そう感じる。


「でも男性のあしらい方は上手いのよね。意外と強かだし。

 その辺は学院で学んだのかしら……」


 気が付けば、俺の上半身から全ての包帯がとかれていた。


「……目立った外傷は残っていませんね。ちゃんと二度目の祈祷が効いています」


 体を見ると、確かに各所の痣は目に見えて引いている。

 小さな筋のような跡は残るものの、ほぼ全快だ。


「これだけよくなれば、後は最後に軽い祈祷を一度行って完了になるでしょう」

「まだ、祈祷が必要ですか?」

「うーん、そうですね……これは私見の診察ですから、実際はシスター・リディアに診てもらう必要があります。とりあえず、またいらしてください」

「はあ、分かりました……」


 また来なければいけないのか……

 診察が終わったため、カロル案内してもらい礼拝堂に戻る。


「そう言えば、確か渡り鳥の寄り木亭に滞在していらっしゃるんですよね?」


 あの宿、そんな名前だったのか。

 字が読めないから分からなかった。


「ま、まあ、確かそんな名前だったかも」

「マガリは元気ですか?」

「知ってるんですか?」


 俺はぎょっとした。

 あの粗野な町娘に知人がいたとは。

 いたとすればそれは、ゴブリンの類だろうと思っていた。


「ええ、私もこの下街の出身ですから、

 子供の頃から知っていますよ」

「お知り合いだったんですね……マガリは元気にしてますよ。

 元気過ぎて、たまに辛い時もありますけど」

「フフッ、昔はそうではなかったんですけどね。

 やっぱり色々な旅人の給仕をしていると強くなると言うか……」

「昔はそうじゃなかったんですか?」

「ええ、昔はもっと可愛げがありましたよ」

「可愛げ?はぁ……?」





「……元気過ぎて悪かったわね?」


 気付けば礼拝堂に出ていて、そこには律儀に俺を待っていたのか宿一家がいた。

 俺とカロルの会話は丸聞こえだったらしく、マガリさん、いや、様は不機嫌な表情をしている。

 その少し後ろから女将と大将が悪戯に笑っている。


「それではこれで失礼します」


 カロルは険悪な雰囲気を察したのか、サッと廊下へ引っ込んだ。

 判断が早い……


「あ、あの、マガリ様……」

「待ってて損した……帰ろ!パパ、ママ!」


 マガリが女将と大将を引き連れて教会を出ていく。


 俺はその場に一人取り残された。


 なにこれ……

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