02."Good morning, my dear."
「おはようございます、キースさん」
太陽の光が眩しい。僕は顔をしかめて布団をかぶり直した。
小鳥のさえずりや朝の日差しはいつもなら心地いいけれど、人さらいに間違われて尋問を受けた身では逆にうっとうしい。放っておいてほしいという気持ちを込めて唸ると誰かが布団を揺すってきた。
「もう朝なのですよーう。起きてください、ねえねえ」
間延びした愛らしい声にあわせてぽふぽふと布団を叩かれる。声のトーンや手の小ささに違わず、そう力は強くない。布団ごと体を揺らされるとちょうどマッサージでも受けているようでまぶたが重くなっていく。もうちょっと寝てもいいかなあ、どうせ今日は非番だし気楽な独り暮らしだし、疲れた体をいたわってもいいじゃないか――なんて甘えた思考は一瞬のうちに吹き飛んだ。
独り暮らしの僕の部屋から僕以外の声がする。
布団を蹴りあげて跳ね起き、壁際まで後ずさった。
「おはようございますっ」
昨日の女の子が僕のベッドのそばで満面の笑みを浮かべた。
背中に羽はなく頭や足に巻かれた包帯が痛々しいけれど、明るいところで見ると本当に宗教画から天使が抜け出してきたようだった。
「だ、誰……!?」
「わたくしはシエルといいます。人間界のみなさまが言うところの『天使』を務めております」
金の髪を揺らし、女の子はそう言い切った。
「天使?」
「はい。寿命を迎えた人間を天界までお連れするのです。大事なお役目なのですよ」
嘘をついたりからかっている様子はない。天使なんて宮廷の魔法使いでも召喚するのが難しいと聞いているから、彼女が真面目に言っているならちょっと危ないひとかもしれない。
今僕はヤバイ女とふたりきりでいる。なんとか隙をついて逃げられないか、ベッドと扉の距離を目算で測っていると、ふいに視界に白いものが舞った。
あわく光る翼。
本当に天使だと示すように背中の翼を広げ、女の子はどこか寂しそうに眉を下げて微笑んだ。
「……僕を迎えにきたの?」
「はい」
この子が本当に天使で、死ぬ運命の人間を導くのが使命だとしたら。
僕は遠からず死ぬということになる。
息を吸うと胸の内側が膨らむ。シーツを握りしめる指先の感触だってはっきりある。いきなりの余命宣告にただ呆然と天を仰ぐしかない。自分が誰かも分からないまま、走馬灯で現実逃避も許されない短い記憶を抱えて死ぬなんて――いや。
「昨日、君が割り込まなきゃ僕は死んでたと思うけど?」
僕はシエルという子に向き直った。
彼女は昨日、酔っぱらいに襲われた僕を身を挺してかばった。もしも彼女が僕の魂を導くなら僕が死ぬまで高みの見物を決め込んでいればいいのに、本人いわくの『大事なお役目』を投げ出してまで僕を助けたのだ。
……こいつのせいで人さらいに間違われたのはちょっと脇に置いて
おく。
「それは、ですねえ」
シエルはまた眉を下げて微笑む。今度は唇の端がひきつって微妙に視線があわない。
長い沈黙の後、シエルはうなだれた。
「わたくし天使の中でもできそこないのポンコツなのです。指導くださった先輩にも呆れられる次第なのです」
「それで?」
「放っておけなかったのです。あんなふうにひどい事されたら痛いし悲しいのです」
肩を震わせ、白い翼で自分をかき抱く。死の間際の苦しみに共感しすぎて本来の役目を果たせないなら本当にポンコツでできそこないで、優しすぎる。
しょうがない奴だ。
「まあいいや。助けてくれてありがと」
ため息とともにそんな言葉が滑り落ちた。
シエルははっと顔をあげ、空色の目に涙を滲ませて笑った。
「まだ猶予はあるのですよ! わたくし頑張ります、一緒に天界に帰りましょう!」
「あ、うん、ほどほどにね? ウチ狭いし羽しまおっかっくしょん!」
テンションにつられて羽ばたいたせいで細かな埃が舞い上がる。大きなくしゃみが出るとシエルがまた笑った。
無邪気な笑顔を見ていると心の奥が暖かくなる。その笑顔と、陽に照らされる金髪のうつくしさをいつまでも眺めていたかった。
「あ、そうだキースさん」
しばらく笑うとシエルが軽く手を打ち合わせた。
「リジチョさんという方から伝言をいただいておりました。お目覚めになったらすぐ事務室に来るように、と」
突風が胸のうちの灯火を吹き消した。
遠く始業の鐘が鳴る。
昨日。僕が解放されたのは兵士が寝こける酔っぱらいから財布を回収したおかげだ。財布には身分証明が残されており、それを見た兵士が連絡を取ったおかげで身元引き受け人が来てくれた。
王立魔法学校の雑用係。記憶も身寄りもない僕の、今の身分だ。
「理事長が来たの?」
問いかける声が震えていた。
「はい」
「会った?」
「はい。あ、ええと、天使とゆうのを明かしてはおりませんよ!」
「そっかあー……」
素性の分からない不審者を拾って働かせてくれているというのに。昨日の僕は誘拐犯に間違われて恩人に迷惑をかけた挙げ句、住みかに女の子を連れ込みやがったばかやろうだ。
本日は快晴のはずなのに寒気が止まらない。いっそ全部聞かなかった事にして二度寝してやろうか……なんていうのは思うだけ。僕はベッドから下りて着替えを手に取った。
シエルはお使いを完遂した子供のように得意気に胸を張っている。
「着替えるんで」
「どうぞ!」
「どうぞじゃなくてね? ……向こう向いててくれる?」
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