短編集
藤原琉堵
錦鯉の池
(一)
その池には一匹の錦鯉が住んでいた。住んでいるのはこの一匹だけ。何で一匹しか住んでないかだって。それにはもちろん訳がある。この池は、四方を森に囲まれた山の中にある。それは静かないい場所だ。春には満開の桜が舞い、夏には涼しい風が木々を揺らし、秋には赤や黄や橙に染まった葉が地面を埋め、冬には一面光り輝く銀世界になる。森の中には、鹿や熊なんかだっている。栗や粟のなる頃なんか、それこそ高く歌いながら収穫を祝ったもんだ。
ところが、近年都会の方は開発が進んでいるだろう。平らなところは、全部高いビルなんかが立ち並んでいる。おまけに資源調達だなんだで、森はどんどん切られていく。この池がある森も例外ではなく、かつての半分以上も森は減ってしまった。そんなこんなで、この森に住んでいた動物達は、さらに山奥へとみんな行ってしまった。しかしこの錦鯉だけは頑としてこの池を離れようとはしなかった。仕方なく他の者は、この錦鯉を置いて出て行ったのであった。
(二)
ある初夏の昼下がりのことである。この日錦鯉は、水草の木陰に隠れて、雲の間を泳ぐ夢を見ていた。するとそこに、微かに水面から水音が聞こえてきた。ふと目を覚まして見上げると、黒いボートの船底が目に飛び込んできた。じっと目を凝らして見てみると、ボートに乗っている学生らしい帽子をかぶった青年と、大学教授らしい丸眼鏡をかけた初老の男が見えた。
「都会の方はひどいですね。」
青年が初老の男に話しかけた。
「全くだ。ああも高い建物ばかり建てられちゃ適わん。畑や田んぼは家に変わる。川も家に変わる。おまけに海まで狭くなってきた。ああ全くもって適わん。」
「どうしてああ高く建てたがるのでしょうね。」
「分からんな。」
そういうと、二人ともすっかり黙ってしまった。
暫く経ってから、青年が呟くように言った。
「ここはいい所ですね。」
「そうだな。」
(三)
それから三日目の午後のことだ。この日錦鯉は、半分顔を水面から出して、少し濃くなった青空を見上げていた。そこへ一匹の蝶が横切った。蝶は池のほとりに咲いた花の上へと止まった。
「こんにちは。」
錦鯉は蝶に近付き、半分顔を出したままで挨拶をした。
「やあ、こんにちは。今日はまたいい陽気だねぇ。」
「そうだねぇ。」
「都会の方は、暑くていけないよ。」
「都会は暑いのかい。」
「そりゃもう、まるで蒸し鍋の中にいるようだよ。」
「そいつはひどいねぇ。」
「ああ、全くもってひどいもんだ。」
そういうと、この二匹は黙り込んだ。
「ここはいい所だねぇ。」
俄に蝶が呟いた。
「そうだろう。いい所だろう。」
錦鯉は微かに笑ってそう答えた。
(四)
それからまた三日目の晩のことだ。この日も錦鯉は、半分顔を水面から出して、十五日目のお月さんを眺めていた。するとそこに、ひとつ人影が現れたろう。錦鯉は思わずぎょっとした。その人影は、音もなく水面を歩いてくる。よく見ると、背中に羽根が生えていた。お月さんの光に合わせて、時々黒く光ったりもした。
「やあ、こんばんは。」
その黒い羽根の人は、笑いながら挨拶をした。
「こんばんは。」
錦鯉は、もうあまりにもどきどきしてしまい、ぎこちなく返した。
「静かでいい所ですねぇ。」
羽根の人はそう呟いた。
「ええ、そうでしょう。ここは静かでいい所です。」
少し落ち着きを取り戻しながら錦鯉が答えた。
「ええ、本当にいい所です。都会とは大違いだ。」
「都会はどんな所ですか。」
錦鯉が問いかけると、羽根の人は口を噤んだ。そして暫く経ってから、まるで独り言のように呟き始めた。
「人間というものはよく分かりません。どうしてああ自分達が住みづらくなるものを作るのでしょう。」
「分かりません。」
錦鯉は静かに答えた。
俄に辺りはしんとなった。羽根の人はどこか悲しげに俯き、錦鯉は半分顔を出したままお月さんを見上げていた。
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