蛾の舞うところ
宝飯霞
第1話
「きゃっ、やだ、虫」
母の声に驚いて、旭は台所をのぞき込んだ。
「ほら」
母がどこか自慢げに見せた手元には、半分に切ったキャベツと、葉にくっついた幼虫がもぞもぞと小さく動いていた。
「どうするのそれ」
「どうするって、捨てるのよ」
「どこに? 外に?」
「害虫でしょ。きっと蛾になるんだから。外に放しちゃだめよ。また他の野菜にくっついて悪さするでしょ。ゴミ箱行きだわ」
母はガムテープで幼虫を覆ってゴミ箱に捨てた。
「ねえその幼虫さ、蝶になるかもしれないよ」
旭は幼虫をそんなあっさりと捨ててしまった母に若干の腹立たしさを感じながら言った。
「いいえ。これは蛾だわ。どうみても蛾の色だもの」
虫に哀れみを感じながらも、かといって、ゴミ箱に手を突っ込み、ガムテープを開いて張り付けにされた幼虫を取り出して逃がしてやろうという気にはならない旭である。いらない生命なら、捨てるのがいいのだ。周りが不幸になると言うのなら、命など絶った方がいいのだ。
中学校三年生。十四歳。春。
旭は、学校では目立たない生徒だった。成績もぱっとしない。いるのかいないのかわからないそんな生徒だ。それだから、旭は、身分違いの、クラスの調子者の集団に加わっていることもある。それほど仲がいいわけではないが、目立たないので居ても文句も言われないのでいさせてもらっている。居ても居なくても彼らは気にしないのだ。なぜだか、旭にはそういう目立つ不快さはなかった。旭はつまらない自分の人生に外から光を入れようと、よくこのグループに紛れ、笑っていることがあった。また時々本好きの陰鬱な数人のグループに混じって、最近読んだライトノベルについて話すこともあった。
彼はクラスメイトの楽しいおしゃべりのおこぼれに話に加わるのを好きとしていた。
桜が散り始めた頃、河瀬というニキビ面の馬みたいな男が
「おい聞け」
と小声になって友人を集めた。そこには旭も立っていた。彼は何か楽しいことはあるのかと期待して寄ってきたのである。
「なんだよ、なにか面白いことか」
伊藤という背の低いメガネの男が耳に触る甲高い声できいた。
「一年生に菊池なおという女が居るんだけどさ、そいつ頭がおかしいんだ。でも顔は可愛くてさ。見に行かないか」
「見に行ってもいいけど、どう頭がおかしいんだ?」
「誰に対してもお兄ちゃんていって、着いてくるんだ。下校するときに家まで着いてこられたやつもいる」
「なんだか親鳥から離れた雛みたいだな。ただ事じゃないよそりゃ」
「お兄ちゃんって言って着いてくるとは、兄者に死に別れでもしたのか」
「なんだか可哀想だな」
「いわくありさ」
「よし、その子は可愛いんだな。なら見に行ってやる」
こうしてぞろぞろと三年生の男の集団は一年生のクラスに向かった。
「養護学校に入れるべき子を普通クラスに入れるたあ、なんだか親の執念じみた愛を感じるよ」
「しかし、顔が可愛いのなら、いろいろ危険じゃないのかい。俺たちが守ってやらないと必要とあらば」
一年二組にその菊池なおはいた。ぱっちりした二重瞼に長いまつげが被さり、どこかアンニュイで、輪郭は卵形で、唇は小さかった。黒い髪の毛は細く、さらさらしていて、後ろに長い髪を垂らしている。ひどく華奢で、ふれたら折れてしまいそうな手首をセーラー服の袖から見せていた。
彼女はいすに座ってぼんやりしていたが、
「菊池なお」
と、誰かが呼ぶと、三年生の男達の方へ顔を向け、なおはやにはににっと笑い、立ち上がって、飼い主に呼ばれた犬のように、素直に男の側に立って、
「お兄ちゃん何」
と、怪しげに笑いながら身をくねらせた。
「可愛いな」
「彼氏居るの?」
その質問になおはくすくすと笑って答え、
「お兄ちゃん、帰ろ」
と先頭に立った河瀬の手をにぎるのだった。周りの男達がはやし立てるように大きくざわめいた。
「本当におかしいんだね君。顔見ただけじゃわからないよ」
こうしてその日は菊池なおの存在を認めただけだったのだが、その後性欲の強い彼らだったから誰が言い出したのか、菊池なおレイプ計画というのが持ち上がり、ひそひそと女子の目をしのび、男達だけで話し合いが起こった。
旭はその話の輪に加わりながらも、不愉快だった。何もわからない純粋な少女をだまして草むらに連れ込み犯すなど、倫理に反する。
しかしながら、多少甘い蜜の味を感じ、みんなで連れ去ってどうするか妄想し出すと、股間が熱く立ち上がるのを感じた。
弱いものは守られるべきである。
しかし、弱い者はその弱さにつけ込まれるものだ。どうしてそんなことが起こるのか。それは、人間が嗜虐的な生き物だからだ。
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