Old in the wind

kaku

1

ピィーと、鳥の鳴く声が聞こえた。

その声に、シルファは顔を上げた。

(―行ったわよ、シルファ)

 それと同時に、双子の姉の言葉が

「犬を、けしかけていいか?」

(待って。もう少し)

「わかった」

 姉の言葉に返事をすると、シルファは、崖の上から、眼下に広がる景色を見下ろした。

 崖の下は、湖になっていた。

 この周辺に住む部族には、重要な水辺でもある。

 そしてそれは、動物達にも同じだった。

(シルファ!)

 闘争心も露わにしたシルフィの声で、名を呼ばれる。

 その瞬間、シルファは持っていた獣の皮を植物のつるで縫い合わせたものを、ばっと広げた。

 それはみるみるうちに風にあおられ、空へと上がっていく。

 同時に、崖から見える対岸の方からは、犬の鳴き声が聞こえた。待機していた者が、シルファの出した合図を見て、獲物に犬をけしかけたのだ。

「シルフィ!」

 それを確認した後、シルファは双子の姉の名を呼ぶ。

(―まかせて)

 どこか、酔ったような返事が戻ってくる。

 こんな時のシルフィは、双子の弟である自分ですら、ぞくっとくる。

 双子の姉の精神には、喜びしかなかった。

 強い獲物を追いつめ、狩る。

 もちろん動物達を狩るのは、命を繋ぐためだ。

 生き物達が新しい命を産み育むこの季節に、できるだけ命の恵みを貯えなければ、やがて来る冷たい季節に、生き延びることができなくなる。

 だがそれ以上に―強い獲物を狩ることに、純粋な喜びを、彼女は感じているのだ。

 自分が常に新しい物事を知り、理解することに喜びを感じるのと同じように。

 シルフィの精神がこれだけ高揚しているということは、計画通りに進んでいる、ということだ。

(シルファ!)

 もう一度名を呼ばれた。

 何をぐずぐずしているっ、という気持ちが込められていることを、シルファは感じた。

「だいじょうぶだよ」

 そう頷いた時、どしんっという音が響いた。

 あまりシルフィを心配させて、その集中力を削ぐのは好ましくない。

 狩りをする時は、小さな油断が生死すら分けることさえあるからだ。

 シルファは、すぐさま崖から離れた。

 シルフィ達が、この崖の方へ獲物を追いやっているはずである。

 反対側の方に走り始める。

 あまり走るのは速くないが、少しでも遠くへと離れる必要があった。

『自覚をするんだ、シルファ』とは、亡くなった父が言った言葉だった。

『自分は何ができて、何ができないのか。努力も必要だけど、自分ができることをより高めていく方が、ためになることもあるよ』

 今の自分にできることは、この場から離れることだった。

 狩りの現場は、命を危険にさらされることがあるのだ。

 足手まといにしかならない自分は、いないことの方がよほどシルフィ達のためでもある。

 どしん、どしん、どしん、と連続して地響きがした。これは、かなり体大きい獲物のようだった。

ナウイか……?」

 鹿タレであれば、こんなすごい地響きはしない。

 群れで行動をする習性のある彼らが、一匹で行動していることはめずらしい。

 とすると、考えられる理由は一つしかない。

「シルフィ、あまり深追いはするなっ」

(正解。ナウイよ)

 感心したような声が、脳裏に響いた。

「この時期のナウイは、気が立っている。まして、一匹で行動していたなら、なおさらだ。奴は、男だ!」

 母親を中心として群れを作るナウイは、男であれば、その群れを離れることを運命としている。

 新しい相手を見つけ、相手の群れの中に入れてもらうのだ。

(弱点は?)

「足の皮は薄い。だが、深追いはするなっ。追いつめられないようならば、退く!」

(わかったわ)

冷静に、双子の姉は言った。

その間にも、地揺れのような足音は響いてくる。

ナウイの方も必死なのだ。

己の命を守るために。

だが、それは自分達も同じだった。

パオーという鳴き声と共に、遠くの方で犬のほえる声が聞こえる。

 シルファは振り返り、先ほどまで自分が立っていた場所を見つめた。

 どしんどしんという足音と共に、巨大な獲物の姿があった。 

 その後を、犬と槍を持った者達が追いかけている。 

 遠目からでも、シルフィの木漏れ日と同じ色の長い髪が、なびいているのがわかった。

 その瞬間、シルファの意識は

 そして次の瞬間には、シルファの意識は風と同化し、ナウイを追いつめているシルフィ達の姿を見下していた。

 ナウイは、崖の方に追い込まれている。

 だが、その先は何もなく、崖になっていることをわかっているようだった。

 まだ若いが、頭はいいのだろう。

 だが、立ち止まったナウイは、シルフィ達が追ってきているので、方向転換はできない。

 しかし、その巨大な体を揺らし、長い鼻を左右に振り回して、威嚇を始めた。

 その勢いに押されて、狩り人達も犬達も、近づけないようだった。

 そんな中、シルフィは、巧みにその鼻の威嚇を避けて、ナウイの弱点である足元に近づこうとしている。

 それは、並の男よりも、俊敏に動く体と度胸を持つシルフィだからこそ、できることだった。

 自分と同じ、風の神に愛された「証」を左目に持つ双子の姉は、その加護に、しなやかに動く体と、溢れんばかりの闘争心を与えられた。

 一方、右目にその「証」を持つ自分は、その加護は、肉体ではなく、精神に与えられたようだった。

「シルフィ、無理はするなっ」

 意識は風と同化したまま、シルファは叫ぶ。

 だが、獲物を前にした姉には、その言葉は届かない。

 しかし、このままでは不利だ。どうする、と思った時だった。

 バシンっという、緊張感のある音が聞こえた。

「何……?」

 風と同化した意識は、音に対しても敏感だった。

 シルファは、音のした方に意識を向ける。

 ―ナウイから少し離れた場所に、一人、立っている男がいた。

 最初、シルファには、その男が燃えているように見えた。

 だがすぐにそれは、ひるがえった長い髪だということに気付く。

 男は、その手に弓矢を持っていた。ナウイの皮膚は、とても固い。

 弓矢で仕留められるとは、とても思えなかった。

 だが男は、弓は構えているものの、なかなか放とうとしない。

 どこを狙っているのだろう、とシルファは思った。

 と、その時だった。

 ぴんっと張った空気を、感じた。

 それは、真っ直ぐに象の目に向かっている。

「シルフィ、ナウイから離れろ!」

 シルファは、そう叫んだ。

 あの男は、ナウイの目を狙っているのだ。

 なるほど、目であれば、矢でも十分貫通させることができる。

 狙いどころはいい。

 だがそれは、はっきり言って無謀だった。

 あの巨体の上にある目に弓矢が届くなど、とてもじゃないが考えられなかった。

 しかし、男は本気だった。

 彼から発せされる空気が、そうシルファに教える。

 シルファの言葉が届いたらしいシルフィが、ナウイから離れていくのが見えた。

 その瞬間。

 男から流れてくる空気の色が、変わった。

 矢が、男の手から放たれる。

 それは大きく弧を描き、ナウイの目へと真っ直ぐに飛んで行った。

「届け」

 シルファはそう呟いた。

 まるで、祈るかのごとく。

 そして、そのシルファの願いを聞き届けるように、風が矢を追いかけた。

 そうして、次の瞬間。

パオーン

 ナウイが、大きく鳴いた。

 片目を矢に潰された彼は、痛みのあまりか、崖の方へいっきに走って行ってしまう。

「シルフィ!」

(わかっているわ)

 その後を犬が追いかけ、人間も犬の後に象を追った。

 正気を失ったナウイは、そのまま崖の先へと駆け上がっていく。

 だが、その先に地面はなく。

ザパッーン

 大きな水飛沫が上がり、崖の上にいるシルフィ達にも、それがかかるのが見えた。

「すまない……」

 湖に沈んでいくナウイを見つめながら、シルファは小さく呟いた。

                ★★★

 「……ファ、シルファ」

 遠くの方で、名を呼ばれている。それが双子の姉のものであることは、すぐにわかった。

 その瞬間、シルファは自分の意識が、ゆっくりと浮上していくのを感じた。

「―シルフィ」

 そして瞳を開き、双子の姉の名を呼ぶ。

「シルファ」

 自分と同じ色の左の目と、髪と同じ優しい日差しの色をした右の目が、安心したように細められた。

「だいじょうぶ?」

 そう言いながら、シルフィは自分に手を伸ばして来る。

「だいじょうぶだよ。ありがとう、シルフィ」

 伸ばされた手を掴み、シルファは立ち上がった。

 シルフィ達の狩りをしている様子を見ている間に、意識を風と「同化」させてしまったのだ。

 おそらく、自分は、崩れるようにして座り込んでいたのだろう。

 それを見つけて、シルフィはわかってはいるものの、心配していたに違いない。

「―随分と、大切にされているな」

 と、その時だった。

 ふいに、そんな言葉が聞こえてきた。

 シルファは、声のした方に視線を向ける。

 長い弓を片手に持った男が、炎の色と同じ髪をなびかせながら、崖の方から歩いてきた。

 ナウイの目を矢で狙っていたあの男だと、シルファはすぐにわかった。

 年の頃は、自分達よりも少し歳上ぐらいだろうか。

 すらりとした長身に、他の男達と同様に、腰巻だけをした体は逞しい。

 「巫子」という役目のためとは言え、女達と同じように、上下繋がった服を着て、肌を隠している自分の体とは全然違う。

 これが「成人」の男の体、なのだろう。

 生まれた時から十五回目の芽吹きの季節に、子ども達は晴れて「成人の儀」を受け、一人前となる。

 その「成人の儀」を、シルファがシルフィと共に受けたのは、今から二回前の芽吹きの季節だ。

 だがいっこうに、シルファの体は変わらない。

 身長も、女性であるシルフィと変わらないぐらいだ。

 体つきも、ほっそりとしている。

「何故、そのような格好をしている?」

 男は、神に捧げる石である黄金と同じ色をした目を細めながら、シルファに言った。

「え?」

 その言葉に、シルファは目を見張る。

「―その瞳は、」

 男の手が、シルファの頬へと伸びた。

「風の神の加護を受けた証であるはず。炎と空の色を重ねて生まれて来る色だ」

 黄金の瞳が、自分を見つめる。

「なのに何故、そのような女の格好をし、狩りにも参加しない?」

 真っ当な―そして、シルファを傷つける問いを、男はした。

「そうだよな、男のくせに。へんなのっ」

 と、その男の問いに重ねるように、まだ若い者の声がした。

 ほんとほんとと、幾つかの声が重なる。

「―我が部族の巫子に、無礼ではないか? 湖畔の部族の戦士よ」

 と、その時だった。

 ぱしんっと男の手をはたき、硬質な声でシルフィが言った。

「シルフィ」

「女が、何生意気なこと言ってんだよ!」

 だが男の代わりに、男の後ろにいた年若い者達が数人騒ぐ。

「その女が挑んだ獲物に、一歩も近づけなかったのは、どこの誰達だ?」

 その瞬間、シルフィの表情が変わった。

「まさかその分際で、『ナウイを仕留めたのは、俺達だ!』と言うまいな? 他人の功績を、我が事のように言うことほど、見苦しいことはないぞ」

 それは、獲物を前にした時と同じ表情だった。そうして、その表情のまま優美に微笑む。年若い者達は、ぐうの音も出ないようだった。

「さらに言えば、今日の獲物を狩る方法を考えたのは、こちらの我が部族の巫子だ。久々の獲物に気が大きくなっているかもしれぬが、『力』だけでは、獲物は狩れぬよ。湖畔の部族の戦士よ、そなた達の部族は、そのようなこともこの年若い者達に教えておらぬのか?」

 シルフィはそう言葉を続け、年若い者達にとどめを刺しつつ、男にそう皮肉った。

 だが男は、じっとシルファを見つめていて、何も言わなかった。

「―今日の狩りの方法は、お前が考えたのか?」

 そうして、シルファにそう聞いてきた。

「あ、はい」

 シルファがそう頷くのと、男がシルファの髪に触れたのは、同時だった。

「なるほどな……もう一つは、髪と同じ色なのか」

 そして、男は呟くように言った。

「朝の雪に、空の色を散らした色だ」

 手が、髪から離れた。

 と、その時だった。

「シルフィ、シルファ!」

 崖の方から、今度は自分達の部族の男が叫んだ。

「ヤヌス」

 土と同じ色の髪と瞳を持つ彼は、シルファやシルフィよりも、五回前の暑い季節に生まれたらしい。

 そのせいか、いつも陽気な態度を崩さない男だった。

「そっちにいたのか。下の連中が、どうやって湖から獲物を引き上げたらいいか、聞いているぜ!」

 どうやら、湖の近くに待機していた者達が、湖からナウイを引き上げるのにてこずっているようだった。

「自分達にまかせろ、と言っていなかった?」

 ちらっと、横目で男を見つめながら、小さくシルフィが呟いた。

 普段のしゃべり方に戻っている。

「行こう、シルフィ」

 シルファは姉の腕を取って、歩き出した。

「ちょっ、ちょっと、シルファ!」

 慌てている声にもかまわず、シルファはシルフィの腕をつかんだまま、ヤヌスがいる方に歩き出す。

「まったく……自分達でやると言ったのなら、最後までそれを押し通せばいいのよ」

 ヤヌスが待っている場所まで行って、やっと腕を離してもらったシルフィは、ぶつぶつと文句を言った。

「まあ、そう言うな。せっかく、道具も作って用意していたんだ。使わなきゃもったいないだろう?」

 だが、ヤヌスは陽気な笑顔を浮かべながらそう言った。

「それに次からは、素直にこちらの言うことも聞いてくれるようになるさ」

 そしてその笑顔を浮かべたまま、今度はシルファの方を向きながら言った。

 実は、湖に沈んだ獲物を引き上げる方法も、シルファは考えていたのだ。

 だがその方法を伝えようとしたところ、その役を引き受けた湖畔の部族の者達から、必要ないと拒否されたのだ。

 彼らも、まさかナウイが獲れるとは思ってもいなかったのだろう。

「必要ないと言い張る以上、そう言っている奴らには、何をしても無駄だからな。『やっぱり必要だった』と思わせるのが、一番手っ取り早い」

 シルファ達を湖へと繋がる道へと案内しながら、そんなことをヤヌスは言う。

 一見陽気に見えるが、彼のその陽気さだけではない部分は、こういうところに垣間見える。

「めんどくさいわよね~。今までのように、私達だけで狩りをすればいいのに」

「そちらの方が、後々めんどくさいことになる。だったら、何とかできるうちに、手を打っていた方がいいんだ」

「そうだね……」

 ヤヌスの言葉に、シルファも頷いた。

「そうなの?」

「獲物が獲れなくなっているんだよ、シルフィ。それは、君もわかっているだろう?」

 シルファ達の父親がまだ幼かった頃は、この辺一帯は、木々の豊かな森だったと言う。

 だが、一度酷い火事が起こり、ほとんどの森を焼いたらしい。

 火事自体は、自然に起こったものだった。

 森にとっても、自然に起こる火事は必要だ。

 だが、その後で育つはずの木があまり育たず、生えてくるのは、丈の長い草ばかりだったのだ。

 森というものは、豊かな命を育む場所だ。

 動物も実りをもたらす木々達も、森があるからこそ、その命を存分に育み、人間に恵みをもたらしてくれるのだ。

「各部族で狩りをしていたら、絶対に獲物を獲れない者達が出てくる。そうしたら、そういった者達が考えることは―-」

「略奪、だな」

 シルファの言葉を、前を歩くヤヌスが続けた。

「自分達が獲れないのならば、獲れる部族から奪えばいい。まあ、そう考えるやからが出てきても不思議じゃない。自分達の命がかかっているからな」

「そういった馬鹿な考えを持つ奴らは、殺しちゃえばいいんじゃない?」

 だが、そんなヤヌスの言葉に、シルフィがそう言った。

「シルフィ」

 咎めるように、シルファは姉の名を呼んだ。

「だって、シルファのことを馬鹿にしていたのに、肝心な時には『助けてくれっ』って言うような奴らよ? 助ける義理もないでしょう」

「でも、僕達の部族がそんな立場になるかもしれないよ、シルフィ」

 だがこの双子の弟の言葉には、何かを感じたらしい。

「シルファ」

 と名を呼んで、シルファの方を見た。

 「結局、僕達のためでもあるんだよ。こうやって協力することで、互いの絆を深めるんだ。そうすれば、少なくとも、湖畔の部族からの略奪の心配はなくなる」

 その言葉を聞いて、ヤヌスが小さく笑った。

「さすがに、風の神の加護を持つ者だな。お前達が双子で良かったよ。片や、戦いの『力』にあふれた者。片や、戦いの『知略』に長けた者。どちらも持っている人間だったら、ある意味恐ろしいからな」

「ヤヌス?」

 その言葉の意味がわからず、シルファとシルフィは、同時に彼の名を呼んだ。

 笑いながら振り返った彼は、だがしかし、ちょっと顔をしかめる。

「どうしたの?」

 けげんそうに、シルフィが聞いた。

「いや……」

 ヤヌスが生返事をしていたが、「ちょっと、どくか」とそう言って、ぐいっとシルファの肩をつかみ、自分の真横に置いた。

「え、ヤ、ヤヌス!?」

「先に行くなら、いいぜ」

 そうして、後ろの方を見たままそう言った。

 ヤヌスの見ている方に視線を移すと、そこには、先ほどの男が弓を肩にかけて立っていた。

 火の色と同じ髪が、まるで燃えるようだ。

 彼は、無表情にシルファ達を見ていた。

「……すまないな」

 だが、道を空けてもらったことに礼を言うと、その無表情な顔のまま、ざくざくとシルファ達の横を通り過ぎていく。

「……さっきの話、聞かれたのかしら」

 シルファに近づいて、シルフィが小さい声で呟いた。

「かも、ね……」

 遠ざかる男の背中を見送りながら、シルファも頷く。

「違う……と思うぜ、俺は」

 だが、ヤヌスはシルファの肩から手を離すと、そう言った。

「ヤヌス?」

きょとんとなって、シルファはヤヌスを見上げた。

「……確かに、男にしちゃあ、綺麗だがなあ……」

「ヤヌス!」

 とたんに、尖った声をシルフィが出した。

「それって、シルファが言われること嫌がっているの、知っているわよね!?」

「シルフィ……」

 言われた方のシルファもびっくりして、目をばちくりさせる。

「今日の獲物の取り分、もらうからっ」

「おい、シルフィ!」

 ヤヌスが声をかけたが、シルフィはどしどしと先を歩いて行ってしまう。

「何だよ、おい……」

 困ったように、ヤヌスは呟いた。

「後で、この間作った白岩はくがん漬けの肉を持って行くよ。生の肉よりは、ミルも助かるだろう?」

 そのヤヌスの肩をぽんっと叩いて、シルファは言った。

 彼の妻・ミルは身重の体である。新しい家族ができるヤヌスにとって、獲物の取り分を持って行かれるのは、正直痛いのだ。

 ただ、自分が失言をしたこともわかっているから、それ以上言わないだけだ。

「悪いな」

 短く、ヤヌスは詫びの言葉を言った。

 その言葉に小さく微笑むと、シルファは首を振った。

               ★

 ヤヌスの発言に、シルフィがあれだけ怒ったのには理由がある。

 もちろん、双子の弟である自分のために怒ったのも嘘ではない。

 だが一番の理由は、「ヤヌスにだけは言われたくない」、という思いが心の底にあるからだった。

 ヤヌスは、彼の妻であるミルと同じで、自分達と共に育った。

 幼い頃、部族の子ども達の中で、身体的な能力は誰よりも高かったのにも関わらず、「女だから」「女のくせに」と言われて、男の子達の遊び仲間に入れてもらえなかったシルフィを、「一番上手いのは、こいつだろ?」と言って、仲間に入れてくれたのは彼だった。

 そして、男の子達がやる遊びよりも、植物を集めたり、どんな雲が広がっているのかと空を見上げたり、土を捏ねて器を作ったりすることを好んだシルファも、随分とヤヌスに庇ってもらった。

 そんなシルファを馬鹿にしていた部族の子ども達も、シルファの作る魚釣りの道具でヤヌスがたくさん魚を釣り、上手い果物をシルファに教えてもらいながら集めるのを見て、だんだんと馬鹿にできなくなったらしい。

 「男のくせに」「女のくせに」と言われながら育った自分達にとって、そんな言葉は絶対に言わず、ありのままの自分達を自然に受け入れてくれたヤヌスの存在は、救いでもあったのだ。

 だが、しかし。

 雪解けの季節にヤヌスが妻として迎えたのは、実に「女らしい」ミルだった。

 彼女は、シルファやシルフィにとっては、「姉」と言ってもよい存在だった。

 シルファ達は、生まれてすぐに母親を亡くした。

 だから、その少し前にミルを生んだミルの母親から、乳を分けてもらって育ったのだ。

 女手のないシルファ達の家族の世話をしてくれたのもミルの母親で、そんな母親に似たミルも、世話好きな、愛らしい顔立ちをした女性だった。

 もちろんシルファもシルフィも、二人の結婚には心の底から祝福をした。

 けれど。そう、けれど。

 どこかで、シルフィは傷つけられもしたのだ。

 結局、ヤヌスも「女らしい」ミルの方がいいんだ、と。

 そしてそれは、自分がミルに対して抱いている思いでもあった。

 なまじ、二人が一番身近で、唯一自分達を「神の加護を受けた者」として見ずに、ごく普通の「人間」として接してくれた者達だけに、その思いは強かった。

 幼い頃は共に遊んだ者達も、成長するに連れて分別がつくようになると、やはりどうしても、「神の加護を受けた者」として、自分達を見るようになってくる。

 もちろん、与えられた加護を部族の者達のために使うことに、なんら異存はない。

 シルファ達も幼い頃、部族の大人達にたくさん世話になった。

 ミルの母親や部族の女達もそうだし、狩りには出ぬ父親の代わりに、獲物を分けてくれた男達もそうだ。

 自分達がしてもらったことを、大人になった今、部族の者達に返していくことは当然のことだと、自分もシルフィも思っている。

 だがそれでも、時々思うことはあるのだ。

 「神の加護を受けた者」ではなく、「人間」としての自分を見てくれ、と。

 与えられた加護は、確かに通常の者達には持たぬものだ。

 だがそれでも、自分達は人間なのだ。

 決して、神ではない。

 そのことを理解し、受け入れてくれた身近な者達が、だが伴侶に選んだのは、「普通の人間」で「男らしい」「女らしい」お互いであった。

 多分この気持ちは、自分達にしかわからないのだろう。

 共に生まれ、同じ定めを分かち合った片割れにしか。

 そんなことを考えながら歩いていると、ミルとヤヌスが暮している住居の前に着いた。

「ミル、いる?」

 もう闇が近づく頃なので戻って来ているはずだが、シルファは住居の外から声をかけた。

 シルファ達の部族は、地面に穴を掘り、太い木を一本指して、それを中心にして屋根を組み、最後に乾燥させた草を乗せて住居を作る。

 そして同じような住居が、あと一つ隣りに建っている。

 これは、ミルの両親が住む住居である。

「あ、シルファ?」

 返事があったのは、その両親の住居からだった。

 だが、声は母親のレダのものではなく、ミルのものだ。

「ミル?」

 もう一度名を呼ぶと、戸口にかけてある枯れ草で編んだ布が、ばさりとめくれ、住居の中からミルが出てきた。

「レダに何かあったのか?」

 彼女の両親を案じる時、先にレダの名が出るのはある意味仕方がない。

 母を生まれてすぐに亡くしたシルファ達にとって、母親代わりをしてくれたのはレダだからだ。

「違う、違う。私がこんな体だから、母さんが代わりに野草摘みに行ってくれたの。そのかわり私は、住居を綺麗しているのよ」

 シルファの問いに、手を振ってミルはそう教えてくれた。

 「父さんは、広場に器作りに行っているしね。もう、狩りは終ったの?」

「あ、うん。ヤヌスはまだ戻っていないの?」

 部族の者達と一緒に帰って来たのだから、もう戻っているかと思っていたのだが。

「まだよ。シルファが戻って来ているのなら、ヤヌスも戻って来ているはずなのにね。どこをほっつき歩いているのかしら」

 そのミルの言葉に、シルファは返す言葉がなかった。

 おそらく狩りの取り分をシルフィに没収されたので、代わりの獲物を獲りに行っているか、シルファが白岩漬けの肉を持って来るのを見計らっているのか、どちらかだろう。

「ミル、これ」

 ごめんヤヌスと、心の中で詫びながら、シルファが葉っぱで包んだ白岩漬けの肉を差し出すと、ミルは若草と同じ色の目を丸くした。

「どうしたの、いきなり」

「実は、ヤヌスの取り分を、シルフィが怒ってとっちゃったんだ。だから、代わりにこれを持ってきた」

「あの人、また何か余計なこと言ったんじゃないの?」

 幼馴染でもあるミルは、やはり鋭い。

「いや、ヤヌスはそこまで酷いことは言ってないんだ。まあただ、怒ったシルフィを宥められるのって、ミルとレダぐらいだし」

 はっきり言って、それ以外の者達には無理である。

 それは双子の弟である自分も同様だ。

「それいつも言われるけれど、信じられないのよね。シルフィはあんなに素直な子なのに」

 そのミルの言葉には、シルファは何も言わなかった。

 シルフィについて、そんなことを言ってのけるのは、彼女とレダくらいだ。

 彼女達が、この部族で最強と言われる理由がここにある。

「まあ、いいわ。ありがとう。正直、生の肉をもらうより、助かるかも」

 実りの季節になると採れる、木の実と同じ色の髪を揺らし、ミルはそう礼を言ってくれた。

 獲物の肉は、もちろん獲ったその日に食べるが、全部は無理である。

 それに、全部食べてしまっていては、獲物が獲れない日が続く時や、冷たい季節の時には、食べるものがなくなってしまう。たいがいは、薄く切って天日にさらし、長期的に保存ができるようにする。

 だが、シルファがミルに持ってきた白岩漬けは、生の肉と白い岩を細かく砕いた物を、大きめの器に入れて、重しの石を載せて作った物だ。

 天日にさらした物よりは持たないが、それでもかなりの間保存ができる。

 もっとも、どの白岩もいいというわけではない。

 舐めて、舌がひりひりと痺れる岩でないと駄目だ。

 これは、シルファが考え出した保存方法の一つだった。

「食べる時は、しばらく水につけて」

「ふふっ、ちょっとヤヌスに感謝かな。白岩漬けの肉はとてもおいしいから、母さん達も喜ぶわ」

 ミルは、白岩漬けの肉を受け取りながらそう言った。

「ヤヌスも、責めないでやって」

「正直に話したらね」

 素直に話すかどうかはヤヌスに任せることにして、シルファはミルのお腹に視線を移した。

 ここに来たもう一つの目的は、ミルの体調を確認することだった。

「調子はどう?」

 彼女のお腹には、今新しい命が宿っている。

「時々吐いてしまうけれど、後は特に。あ、子どもね、動くのよ」

 肉を持たない反対側の手をお腹に置き、シルファの問いに答えるミルは、母親の顔をしていた。

「吐き気を感じる時期を過ぎたら、もう子どもは安心だから。それまでは、がんばって」

「ええ。シルファに『言祝ことほぎ』をしてもらうのが、今から楽しみなのよ」

 巫子であるシルファは、部族の生まれた子ども達に、『言祝ぎ』の儀式を行う。

 生まれたばかりの子どもに、たくさんの『祝い』の言葉を授けるのだ。

 そうすることで、この世に生まれた子どもの魂は『守り』を得て、この世と繋がる。

 産室は、本来男は入れないが、巫子であるシルファは男でも女でもないとされているので、それが許される。

 シルファが、女が着る衣を纏うのも同じ理由だ。

 と、ふわりとミルの手がシルファの頬に触れた。

「ミル?」

「あなたのこの瞳は、確かに風の神に愛された証だけど。芽吹きの時期を告げるのも、この瞳と同じ色の花だわ。それに風は、芽吹きの神を運ぶ役目も担っているわ」

 忘れないでね、と彼女はそう続けた。

 もしかしたら、ヤヌスは彼女にきちんと理由を話して、自分が訪れることを承知の上で、留守にしていたのではないか、とシルファは思った。そうなのかもしれなかった。

 大雑把に見えて、細かいところまで気が付くヤヌスは、ミルに今日の顛末を話して、自分を励ますように言ったのかもしれない。もちろん、そうでないことも考えられるが。

 それでも、ミルが自分の気持ちを察して、この言葉を言ってくれたのは、確かなことだった。

「ありがとう、ミル」

 シルファがそう言うと、ミルの若草色の瞳が細められた。穏やかな、微笑み。

 こんな微笑を向けてくれる者がいることは、とても幸せなことなのだろう。

 それは、わかっている。だが、この手が一番大切にしているのは、自分ではない。

 それはとても寂しいことだと―そう、シルファは思った。

                 ★

「お帰り」

 住居の近くまで戻ると、シルフィがそう声をかけてきた。

「シルフィ」

 シルフィは、大きな器を持って立っていた。

「どうしたんだ、それ」

 両手で抱えるようにして器を持つ双子の姉の姿に、シルファは目を丸くした。

「ジャスからもらったのよ」

「ジャスから?」

 ジャスとは、ミルの父親の名である。

「今日獲った獲物の肉を、広場にいるジャスに渡したのよ。そうしたら、これ持って行けって言われて……」

「ああ、そうなんだ」

 シルフィの言葉に、シルファは納得したように頷いた。

「何が!?」

 しかしそう言ったとたん、シルフィはシルファをぎっと睨みつけてきた。

「いや、どうしてそんな大きい器持っているんだろう、と思ったから」

「……ああ」

 だが、シルファの言葉を聞くと、黙り込んでしまった。

「シルフィ?」

 名を呼ぶと、少し目を伏せた双子の姉は、自分に背を向けて住居の方に歩いて行く。

 その背中は、「恥ずかしい」と言っていた。

 おそらくシルフィは、ジャスに今日奪い取ったヤヌスの取り分を渡したのだ。

 それを指摘された、と思ったのだろう。

 自分がミルに対して複雑な感情を持っているように、シルフィもヤヌスに対して複雑なものがあるのだ。

 そしてそれは、自分にはあまり見せたくない感情ものなのだろう。 

 同じ気持ちを分かち合っているからこそ、見せたくないものもあるのだ。

「白岩漬けの肉、ミル、喜んでいたよ」

 だから、シルファは何も気付かないふりをして、その背にそう声をかけた。

「そっか」

 器を持った背が、少しだけ揺れた。

「僕達も、今日は白岩漬けの肉を食べよう」

 多分、これからもずっと。

 自分達は、こうして生きていくのだろう。

 互いにしかわからない感情を抱えながら。 

 ―そう、シルファは思った。


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