異世界アウトサイダーズ

しゅげんじゃ

その日、静かな雪の日

 その日を思いかえすとき、記憶は白と黒の単色だけで浮かびあがってくる。アシラは胸がはり裂けそうになりながら、それでも、その日のことを思い浮かべる――。


 その日は、静かな雪の日だった。


「いいですか、皆さん」


 食堂に集まった一同に、男はゆったりと告げていく。

 見えないよ……。

 アシラはスカートを握りしめ、居ならぶ大人たちのなかでめいっぱいの背伸びをしてみる。それでもやはり大人たちが邪魔だった。男をはっきりと見ることはできない。

 誰かが唾を飲みこむ音がする。

 魔王についての物騒な噂が飛びかうなかで、突然、高位の神官が訪ねてきたのだ。店の大人たちの態度は浮わついていて、当時、十にも満たなかったアシラにもその空気はしっかりと伝わってくる。


 大陸を統べるウルガの帝都イブラは、比較的温暖な地域にある。ましてや春が近い季節だった。雪が降りつもることなど珍しく、それもあってか、いつもは賑わっている大通りにも人の姿は見えなかった。だからアシラの両親が経営するここテベット商会の面々もまた、ひるげの刻を迎えて「そろそろ店じまいかな……」そんな会話を交わしていたところだった。


 そんなときに男が――医学神ニサルの神官を名乗る男が訪ねてきたのだ。


 男は肩から下げた布袋から、獣皮製の水筒を取りだした。男の前には商会の皆が食事に使う質素な飯台があり、そこには大小さまざまな水飲み盃や酒器が並べられている。男に請われて急遽その場にいる全員分を用意したのだ。不揃いなのはご愛敬だった。


 男は馴れた手つきで水筒の中身を盃のひとつに注いでいく。人差し指と中指をその上にかざし、静かにいんを切りながらなにかの真言マントラをつぶやいた。その厳かな雰囲気が、ますます大人たちを感心させていく。


「準備ができました」


 男の声に大人たちがざわめく。顔をめぐらし会話する大人たちの動きで、アシラはますます埋もれてしまう。もう……! 怒りを覚えながら、アシラは大人たちの足と足の間に頭をねじ込んでいく。そして、男の顔をまじまじと見つめた。


 男は痩せていて、顔色は白い。神官装束を身につけたその腕には、ニサル紋を標した腕章があり、総じて、どこか柔和で知的な印象を抱かせた。


「皆さんもすでにご存じかと思いますが……。最近イブラ近郊では、魔王の眷属どもの動きが活発になっています。当然、討伐隊が向かってはいますが、やつらが放つ瘴気によって市民の健康が害されるおそれがあります。それを防ぐのが、この御聖水です」


 男は盃を掲げた。


「陛下のご意向に感謝いただきたい。こうして神官団で手分けをして、一軒一軒まわって貴重な御聖水を下賜しているのです」


 おお、なんてありがたい……大人たちは口々に感謝の声をあげた。

 男はうなずき、つづける。


「この御聖水は歯に触れると効果が減じてしまいます。だから、よく見ていてください。私の飲み方を、しっかり真似するように。次の予定もたて込んでいるので、一度しかやりません」


 男はそう言うなり、舌をめいっぱいに伸ばして見せた。伸ばした舌を指さしながら、こうするんだ、と言わんばかりに一同を見渡す。そして盃を口元にもっていくと、伸ばした舌に聖水を垂らし、舌を巻きこむようにして飲みこんだ。


「わかりましたか?」


 大人たちがうなずく。

 アシラもつられるようにうんうんうなずいてみせる。


「ただ、これで終わりではありません。皆さんが飲み終わったあと、私がニサル神の祝詞のりとを唱えます。唱え終わるまでは全員ここから離れないように」


 説明はそれで終わりだった。男は次々と盃に聖水を注いでいき、印を切って皆に手渡していく。アシラの心臓はドキドキと高鳴った。あたしの番はまだかな……。と思った瞬間、目の前に盃が差しだされた。びっくりして見あげると、そこには微笑む男の顔があった。


「ここの娘さんかな? お名前は?」

 思わずスカートの端を握り、体をもじもじさせてしまう。

「……アシラ」

「アシラか。わたしがやったように、ちゃんと御聖水を飲めるかな?」

 アシラは黙ってうなずく。

「うん、いい子だね」


 やがて全員に盃がいきわたり、皆が男の号令とともに舌を伸ばし、彼がやったように聖水を飲み干した。


 熱い。


 聖水を飲んだ瞬間、アシラはそう思った。まるで沸かしたてのお湯を飲んだみたいに、のどから胸にかけてがカッカと熱くなった。大人たちも顔をしかめている。口々に「強い酒を飲んだみたいだ」……そんなことをつぶやいている。


「では祝詞を唱えます。皆さん、その場を動かずにご静粛に」


 そう言って、男がなにかを唱えはじめた。

 一度も聞いたことがない祝詞だった。


 誰かが咳きこんでいた。「ちょっと……これ……」そうつぶやく声が聞こえる。少しずつ咳きこむ大人は増えていき、アシラもまた、しゃっくりが止まらなくなってくる。胸の熱さも消えない。胸の奥がムカムカと燃えるようだ。なんだろう、これ、大丈夫なのかな……。そう思っているうちに、どんどんと苦しくなっていって、ついには視界が揺れはじめた。おかしい。絶対におかしい。得体のしれない恐怖がわきあがる。アシラは怖くて泣きそうになった。やがて熱いなにかが、胸の奥からこみあげてきた。


「エ゛……ッ」


 え……? 口から流れでたのは泡だらけの青い液体だった。それを見つめながら、アシラは苦しみのあまりうずくまる。大人たちのうめき声が聞こえる。アシラは助けを求めるように顔をあげた。揺れ、かすむ視界のなかで、次々と大人たちが倒れていく。


 いつの間にか、男の祝詞は止まっていた。


 苦しい。なにが起きているの? アシラは床に突っ伏す。自分が吐いた液体にまみれながら、もだえ、泣いて胸をかきむしった。苦しいよ。助けて。助けて、お母さん……。


 帳場の方へと向かう足音があった。

 大人たちのあえぎ声が聞こえる。

 帳場から、ガチャガチャと金貨や銀貨をかき集める音がしはじめる……。


 それらの音を聞きながら、アシラの意識は遠のいていった。

 あたし、死んじゃうの……?

 暗転していく意識のなかに、なぜか、微笑む男の顔が浮かんでいた。 



 数日後、アシラは目を覚ました。生死の境をさまよっていたアシラを救ったのはニサル神官たちだった。彼らの必死の治療がアシラの命を救ったのだ。


 そして――。


 神官団が聖水を配っていた事実はなかったということ。

 テベット商会の財貨はすべて持ち去られていたこと。

 犯行に使われたのは〈異界〉から持ちこまれた正体不明の劇薬だったこと。

 アシラ以外はみんな、死んでしまったということ――当然、父と母も。


 子どものころから一緒だったみんなが、いっぺんにいなくなってしまったのだと。

 その事実を、アシラはいずれ知ることになる。


 それは静かな雪の日のできごとだった。

 十二人の男女が壮絶な苦しみのなかで死んでいった。

 犯人の行方は、杳として知れない。


 それが、帝都を震撼させた〈テベット商会事件〉のあらましだ。

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