36 おかえり

 私は目の前の光景をすぐには信じられなかった。


 大聖女様は、楽しそうにくるくるとその場で回り出した。大聖女様の動きに合わせて邪気が辺りに広がっていく。


 ――どうして? そんなの楽しいからに決まっています。エステル、邪気を操る邪悪な者がいると言いましたね? あれは私のことです。


 大聖女様はニコッと無邪気に微笑んだ。


 ――フフフ、あなたはずっと騙されていたのですよ。私は平和など望んでいない。ねぇ、エステル、今、どんな気持ちですか?


 クスクスという笑い声が聞こえてくる。


 隣から戸惑うアレク様の声が聞こえた。


「エステル、いったい何が起こっているんだ?」

「ここは、大聖女様がいるゼルセラ神聖国の地下神殿です。そして、オグマートや私たちをここに連れて来たあの方が大聖女様です」

「あれが?」


 アレク様の言うことはもっともで、邪気にまみれて楽しそうに笑っている姿は異様な光景だった。私の知っている慈悲深い大聖女様の姿はどこにもない。


 たった一人きりで涙を流しながら、その身を犠牲にしてきた大聖女様。


 私が必ず会いに行きますというと、少しだけ微笑んでくれた。


 本当に今目の前にいるあれは大聖女様なの?


「あれは……だれでしょうか?」


 私のつぶやきにアレク様が答える。


「大聖女様ではないのか?」

「見た目は大聖女様です。でも……」


 中身はまったくの別人だと感じてしまう。


 回るのをやめた大聖女様は、私に微笑みかけてきた。


 ――さぁ、エステル。あなたの答えを聞かせてください。


「その前に、ひとつだけ質問してもいいですか?」


 ――かまいませんよ。


「この神殿には人々の祈りや願いが集まってくるのですよね? だから、大聖女様なら、私がいつも祈りと共に願っていたことを知っているはずです。それを教えてくださいませんか? あなたが本物の大聖女様ならわかるはずです」


 ――聖女たるエステルの願い。それはもちろん、ゼルセラ神聖国の安寧(あんねい)でしょう。


 私はその答えを聞いて確信した。この人は、やっぱり大聖女様なんかじゃない。


 だって、私はお金のために聖女になったから。だから、私の願いはいつだってこれだった。


 私の大好きな家族がお金に困りませんように!


 日々、秘かに願っていたこの願いは、きっと私と大聖女様しか知らないと思う。


 私はアレク様に向かって小さく首をふった。それでアレク様には伝わったみたい。


 ――エステル、どうしましたか? あなたが答えないのなら、先にアレクに聞きましょう。だれかが犠牲にならないと平和が保たれないとき、あなたはどうしますか?


 アレク様は淡々と答えた。


「だれも犠牲にならなくていい。俺は魔物があふれ出たあとの世界を受け入れる」


 ――フフ、強者の偽善ですね。結局は戦えない弱者を切り捨てている。まぁいいでしょう。


 大聖女様が両手を広げると光輝く剣が現れた。


 ――さぁ、オグマート。この剣を取りなさい。これからアレクと戦って勝ったほうの意見を取り入れましょう。醜い人同士、血なまぐさい方法で決着をつけるのがお似合いです。


 アレク様は腰に帯びている英雄の剣の柄に手をかけながら、私に耳打ちした。


「ひとまず、言うとおりにして俺が時間を稼ぐ。エステルは本物の大聖女様を探してくれ」


 必死にうなずく私の頭をアレク様はなでてくれた。その間に、オグマートは光輝く剣を手に取った。アレク様は剣を鞘から引き抜き、二人は間合いを取る。


 その様子を眺める偽物の大聖女様は、とても楽しそう。


 今の間に私は本物の大聖女様を探さないと。でも、どうやって?


 私は静かに後ずさり、大聖女様から距離を取っていく。神殿内には邪気である黒いモヤが漂い遠くまで見渡すことができない。


 どうしたら……。


 そのとき、かすかに水音がした。


 ピチャン。


 これは大聖女様の涙が水溜りに落ちたときに聞こえる音。


 ということは、大聖女様がどこかで泣いている?


 私は大聖女様が祈っていた祭壇のほうにかけていった。祭壇に近づくにつれて床に水溜りができている。


 ピチャン。


 たしかに聞こえる。こっちで合っているわ。


 私が祭壇の前にたどり着くと、真っ黒なモヤの塊が祭壇に向かって祈るような姿勢をしていた。


「もしかして、大聖女様?」


 私が声をかける黒いモヤがゆらりと揺れた。何か話しているようだけど、声が小さすぎて聞こえない。


 私は祭壇に祈りを捧げたあと、黒いモヤの塊を浄化した。どれほど浄化してもモヤが消えることはないけど、少しずつ声が大きくなっていく。


 ――エステル。


 はっきりと声が聞こえたとき、私は浄化をやめた。


「大聖女様ですね?」


 ――はい。でも、もう聖女の力はほとんど残っていません。邪気にまみれすぎた私は、邪気に身体を乗っ取られてしまいました。


「では、あれはやっぱり偽物なんですね!?」


 また黒いモヤがゆれる。


 ――はい。身体を乗っ取られた私は、もうすぐ消えてしまうことでしょう。


「そんな!?」


 ――よく聞いてください。英雄の剣は切ることで邪悪な者を浄化します。だから、あそこにいる偽物の私を切ってください。


「そんなことをして大聖女様は大丈夫なのですか?」


 ――……どちらにしろ、私はもう長くない命です。私が最後の力を振り絞り、偽物を浄化し動きをとめます。だから、そのうちに……。


 私は黒いモヤの塊になってしまった大聖女様に抱き着いた。


「そんなことしなくていいです!」


 ――でも。


「私だって聖女です! あなたの力を借りて使える聖女なんですよ! だから、私が浄化して動きをとめます」


 ――エステル……。


「私の選択を聞いてください。大聖女様がもたらしてくれた長い平和のおかげで人は数が増えて強くなりました。だから、魔物があふれだす世界でも人は暮らしていけると思うんです」


 私は大聖女様と向き合いまっすぐ見つめた。


「私たちで必ず大聖女様のような犠牲が必要のない世界を作って見せます。だから――」


「だから、もう今すぐ大聖女様なんてやめてしまいましょう! あなたは朽ちて消えるまでなんて祈らなくていい! もう長くないのなら、なおさら好き勝手しちゃいましょうよ! 今すぐここから出て、大聖女様と一緒に新しい世界を生きたいです! これが私の選択です!」


 私が抱きしめる黒いモヤからから一粒の涙がこぼれた。


 ――そんなことをしてもいいのでしょうか?


「いいんです! 大聖女様は私と一緒に暮らすの嫌ですか?」


 ――い、いいえ。でも……。


「だったら、一緒に行きましょう! いいですよね? 良いと言ってください!」


 ――は、はい。


 無理やりだけど同意を得られた私は嬉しくなって大声でアレク様に呼びかけた。


「アレク様! 大聖女様を見つけました!」


 オグマートと競り合っていたアレク様は、その言葉を聞いたとたんに、オグマートの剣をはじいた。そして、すばやくオグマートに剣を突き付ける。


「時間稼ぎは終わりだ」


 顔を歪めるオグマート。


 偽物の大聖女は、『つまらない』とつぶやいた。


 ――でも、どうするつもりですか? この身体はもう私のものなのに。


 偽物を取り囲む邪気がアレク様に襲いかかってきたけど、アレク様は顔色ひとつかえずに切り裂いた。そのとたんに、サァと邪気が消えていく。


 ――その英雄の剣で、私を切ったらこの邪気に塗れた身体も消滅してしまいますよ?


「なるほど」


 小さくうなずいたアレク様は邪気を切り浄化しながら、偽物に近づいていく。偽者の顔にはあせりが見えた。


 ――どうせ、何もできないのです。


 フフッと笑う偽物にアレク様はなんのためらいもなく剣を振り下ろした。


 偽物の周りを漂っていた邪気が浄化されたけど、大聖女様の身体は切られていない。


 混乱している偽物を今度は横切りにする。


 ――な、何を?


 偽物が戸惑うのも無理はなかった。アレク様は過去にオグマートのフードだけを切ったように、大聖女様にまとわりつく邪気だけを切り裂いている。


 ――う、うそ。


 偽物がよろめいても、少しもためらわず剣を振り下ろす。大聖女様の身体には傷ひとつついていない。


 少しずつ偽物を取り巻く邪気が薄れてきた。


 私も祈りを捧げて偽物に奪われた大聖女様の身体の浄化を始める。その間もアレク様は剣を振る手を一向にとめない。


 ――や、やめ……。


 大聖女様に浮かぶ黒文様がだんだんと薄れていった。


 ――や、やめろぉおおお!!!


 偽物がもがき苦しんだかと思うと、大聖女様の身体から黒いモヤの塊が浮かび上がった。


 気を失ったように倒れこんだ大聖女様をアレク様が抱き留め床に下ろす。その隙に黒いモヤは、オグマートに飛びかかった。


 ――力がほしいのだろう? エステルがほしいのだろう? 私がすべてを与えよう。だから、その体をよこせぇええ!!


 そんなっ! オグマートが力を得たらいったい何を起こってしまうの!?


 私の不安をよそに、オグマートは光輝く剣で黒いモヤを一刀両断した。


 ――なっ!?


 切られた黒いモヤが驚いているけど、私も同じくらい驚いている。


 オグマートは、吐き捨てるようにこんなことを言い出した。


「おまえにとりつかれたら、全身黒文様まみれにはなるではないか。いくら力があっても、あんなに醜い姿になるのはごめんだ」


 いや、もうあなたは、だいぶ全身黒文様にまみれていますけど!? 牢にいて鏡を見ていないから顔にまで黒文様が現れていることに気がついていないのかもしれない。


 オグマートの美への執着に開いた口が塞がらない。そういえば婚約破棄の理由も、私が醜くて侯爵令嬢のマリア様が美しいからだったような気がする。


 私がつい感心してしまっている間にアレク様が黒いモヤをきりつけると、今度こそ黒いモヤは消滅した。


 再び剣を構えたオグマートがアレク様に「決着をつけるぞ」と言ったので、私はオグマートに自分の顔を見るように伝えた。


「は?」

「いいから、ちょっと見てみてください」


 オグマートは不審がりながらも光り輝く剣の刃に、鏡のように顔を映している。その顔には黒文様が浮かんでいるわけで。


「ぎゃああ!?」


 情けない悲鳴が辺り響く。


「エ、エ、エステル、浄化してくれ! おまえなら消せるよな? は、早く、私の顔を!」

「わかりました。あとから浄化します。だから、今はややこしいことをせずに大人しくしてください。私の言うことを聞かないと、あなたは一生そのままですよ」


 ひぃと小さな悲鳴をあげたオグマートは剣をおろした。


「はぁ、もう……」


 ふと気がつけば、私の側にいた黒いモヤになってしまっていた本物の大聖女様がいなくなっている。


「大聖女様!?」


 あわてて倒れている大聖女様にかけよる。


 大聖女様のそばにいたアレク様が「息はある」と教えてくれた。


「だ、大聖女様?」


 ゆっくりと大聖女様の目が開いた。

 その瞳は以前のようにうつろではなく光が宿っている。


「……エステル」


 大聖女様の口が開いて声が聞こえた。


「大丈夫ですか!?」

「……ルーシャです」

「え?」

「私の名前は大聖女ではなく、ルーシャ、なのです……」


 私はルーシャの手を握りしめた。


「おかえり、ルーシャ!」


 ルーシャの瞳から涙があふれる。


「……た、ただいま」


 この瞬間、大聖女様はいなくなってしまった。でも、今までたった一人で世界の平和を祈り続けてくれた女性は、涙を流しながら幸せそうに笑ってくれた。

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