29 黒文様を持つ者②

 オグマート殿下は、急にうっとりとした表情を浮かべた。


 その顔は、過去に私に婚約破棄を突き付けて、新しい婚約者がマリア様だと教えてくれたときのことを思いださせる。


「ああっ、なんて美しいんだ……」


 この人はこんな状況下で何を言っているの?


 ゼルセラ神聖国の第三王子が王宮に忍び込み、カーニャ国の騎士を切りつけた時点で両国の友好関係は崩れ去った。


 目の前の男は、もう王子ではなくただの罪人だ。


 オグマートの手が私の髪にふれそうになったので、あわてて避けた。その様子を見てオグマートはフッと笑う。


「恥ずかしがらなくていい。今のお前なら私にふさわしい」

「ふさわしい? さっきから何を言って……?」


 部屋の外が騒がしくなった。バタバタと複数の足音が近づいてくる。


 それに気がついたオグマートが舌打ちをしながら、剣先を足元でうずくまる騎士たちに向けた。


「エステル。着いてこないと……わかっているな?」


 切りつけられた騎士達は、今ならまだ助かるかもしれない。私は覚悟を決めた。


「わかりました。着いていきます。だから、これ以上彼らを傷つけないという証拠に、その剣を捨ててください」


 オグマートは「やはり聖女は、そうでなくてはな」と嬉しそうに剣をその場に投げ捨てた。


「さぁ行くぞ」


 手首をつかまれ強引にバルコニーまで連れ出される。ふれられた箇所が気持ち悪くてゾワッと鳥肌が立った。


「落とさないから安心しろ」


 私が何かを言う前に、オグマートは私を横抱きに抱きかかえた。そして、バルコニーの柵に足をかけたかと思うと、そのまま飛び降りる。


 わずかな浮遊感のあとに、身体が落下していく。驚きすぎて悲鳴すらあげられない。


 オグマートは、左手で私を抱きかかえたまま、落下途中に右手で木の枝をつかみ、落下の勢いを殺してから地面に着地した。


 それでもかなりの衝撃があったのに、ふらつくことも立ち止まることもなく、私を抱きかかえたまま走り出す。


 私はすぐ近くにあるオグマートの冷たい横顔を呆然と見つめていた。


 大聖女様は『ゼルセラ神聖国内で能力が飛びぬけて高く、強靭(きょうじん)な精神を持つ者を三人選びました』と言っていた。


 たしかに、オグマートはすごい。大聖女様に選ばれるほどの能力を持っているのかもしれない。


 でも、ためらいもなく人を切りつけて殺そうとするような人でもある。


 大聖女様は、どうしてそんな人を選んだの?


 どれだけ祈っても大聖女様には、あれから会えていない。


 お願いだから、もう一度会って話を聞かせてほしい。私が両手を合わせて大聖女様に祈っているとオグマートの手が私の髪をなでた。


「エステル、心配しなくていい」


 どこか甘い響きを含むオグマートの言葉に吐き気を覚える。オグマートの腕の中で、少しずつ自分の意識が遠のいていくのがわかった。


 **


 ピチャン


 水滴が落ちる音で目が覚めた。


 私はいつの間にか、冷たい石の床に倒れこんでいた。舞踏会用のドレスを着ていたはずなのに、なぜか寝るときに着ているナイトドレスに着替えている。


 ドーム型の天井の中心部からは淡い光が差し込んでいた。


 あ、ここは大聖女様がいる薄暗い神殿……。


 ――エステル。


 落ち着いた静かな声を聞いて、私はあわてて身を起こした。


 側には、栗色の髪の女性がたたずんでいる。


「大聖女様!」


 大聖女様の顔には、以前見たときと同じようにびっしりと黒文様が浮かんでいた。そして、以前とは違い、彼女の周りには邪気が漂っている。


「大変! すぐに浄化します!」


 私の言葉を聞いた大聖女様は、うつろな瞳で『もういいのです』とささやいた。


「でも!」


 ――私はもう、手遅れです。


「で、でも……」


 大聖女様は困ったように小さく微笑む。


 ――エステル。私に聞きたいことがあってここに来たのでは?


 私はその言葉にハッとなった。


「大聖女様が選んだ三人目を見つけました。でも、どうしてオグマートなんですか? 彼は……とてもひどいことを平気でするような人ですよ?」


 ――それは、善悪関係なく能力のみで、私のあとを継げる者を選んだからです。


「大聖女様の、あとを継ぐ?」


 頭が真っ白になり、すぐには言葉がでてこない。私はなんとか言葉を絞り出した。


「……それは、大聖女様の代わりに、この薄暗い神殿で祈り続けるということですか?」


 大聖女様は、ゆっくりとうなずいた。


 ――はい。その責務に耐えられる者を選びました。


「で、でも、私以外聖女ではないのに、どうやって……?」


 ――聖女でない者は、邪気が具現化した魔物を、ここで倒し続けることになります。


 だとしたら、もしアレク様があとを継いだら、ここで気が遠くなるほどの年月、たった一人で魔物を退治し続けるの? そんなこと絶対にさせたくない。


「大聖女様……もし、だれもあとを継がなかったらどうなるんですか?」


 ――邪気があふれ出し、大陸中に魔物が現れます。


 やっぱり……。そうなってしまうと今の平和は失われてしまう。


 両親や妹や弟。フリーベイン領で出会った大切な人たちの顔が脳裏に浮かんでは消えていく。


 最後にアレク様の優しい笑みを思い出して、私は痛いくらい胸がしめつけられた。


「アレク様がつらい目に遭(あ)うくらいなら、私が……」


 私の唇に大聖女様の指がそっとふれた。指の先まで黒文様が現れている。


 ――エステル、この件は一人で決めてはなりません。選ばれた者達で決めてください。一人で決めないことに意味があるのです。


「どうして?」


 ――これは……私の、最後のわがままです。


 大聖女様は、悲しそうに瞳をふせた。


 ――今のこの状況は、過去に私の身に起こったことをまねています。神の力を得た私たちのだれかが犠牲になることで世界に平和が訪れる。大昔に、私たち夫婦は今のエステルと同じ選択を迫られました。


 邪気があふれだす、この場所を、だれがどうするのか?


 ――神の力を得たと同時に、世界を平和にもたらすという使命を与えられていた私たちは、すぐに結論を出せませんでした。でも、長い沈黙のあとで夫が『俺がここに残る』と言ったので私は結界を張り、夫をこの場所から追い出しました。大切な人が苦しむくらいなら、自分だけが犠牲になればいいと思ったのです。


 それは、ついさっき私も考えたことだった。


 ――結界の外で、夫は暴れて怒鳴り散らしたあとに、しくしくと泣きはじめました。そんな夫に私は『幸せになってね』と伝えました。長い間、結界の前に立ち尽くしていた夫は、ある日フラッとどこかへ消えてしまいました。私はあのときの選択を後悔していませんでした。でも……。


 大聖女様の瞳から、また涙が一粒こぼれた。


 ――長い月日を一人きりですごしているうちに、私はあのときの選択が本当に正しかったのか、わからなくなってしまったのです。


 その話を聞きながら、私はどうしようもなく泣きたくなった。


 天井から降り注ぐ淡い光を大聖女様が見上げる。その姿は黒文様まみれでも神々しい。


 ――ここには大陸中の祈りと願いが届きます。小さな願いから、醜悪な欲望まで。私がここで邪気を浄化しつづけても、人々はこんなにも苦しんでいます。いったい何が正解だったのでしょうか? もうすぐ朽(く)ちて消えゆく私は、最後にどうしても、私以外の人の選択を知りたくなったのです。


『エステル、あなたたちを巻き込んでしまってごめんなさい』と大聖女様はささやく。


 私は真相を聞いても、大聖女様を恨むことができなかった。神殿で大切な人達のために一人祈る姿は、過去の私そのものだったから。


 大聖女様は私。フリーベイン領に行かず、アレク様に出会えなかった私。だから私はどうしても彼女を助けたい。


 ボロボロと涙を流しながら、私は大聖女様に尋ねた。


「だ、大聖女様はどこにいるんですか? この神殿はどこにあるんですか? 魔物がたくさん現れるフリーベイン領にいるんですか?」


 ゆるゆると大聖女様は首をふる。


 ――フリーベイン領に魔物が頻繁に現れつづけるのは、夫の剣がそこにあるからです。


 そういえば、アレク様が持っている剣は、英雄が使っていたものだと言っていた。


 ――あの剣には神の力が宿っていて、切ることで邪悪なものを浄化することができます。前にも話しましたが、ゼルセラ神聖国を恨み、国そのものの消滅を願っている者がいます。邪気を操るその邪悪な者が、自分を浄化できる剣を奪おうとしているのです。


「では、大聖女様はどこに?」


 ――私は……。私はゼルセラ神聖国の地下深く、閉ざされた神殿内にいます。


 信じられない言葉に耳を疑っていると、大聖女様は言葉を続ける。


 ――ゼルセラ神聖国は、数年後に戻って来た夫が、地下で祈り続ける私を見守るために興(おこ)した国なのです。

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