第17話


 ◇◇◇





 彼女はおもむろに話し始めたのは、「生物」と言う言葉からだった。


 進化生物学。


 ——つまり、俺たち人間の「起源」について。


 自分を攫った組織は、表向き上は製薬会社だが、実際は国際的な医学協会、国際製薬医学会(IFAPP)を取り仕切る多国籍共同団体の中核であり、ある“極秘”のプロジェクトを進行している非公式の科学研究機構であった。


 その“極秘”のプロジェクトというのは、あらゆる生命の起源に関わっているとされる「リボソーム」という生体タンパク質合成を行う分子機械が、特異菌(新種の真菌)のゲノムを組み込むことによって、「生物」という遺伝子の“個”を脱し、「生」という概念そのものを変えられる『裸の事象点』を生成することができるのではないか?という仮説が発端になっていた。


 この仮説の発着点となった「リボソーム」は、人間を構成する細胞内のパーツの一つだ。


 高校の生物を学んだ人なら、このリボソームについて、「タンパク質を合成する工場」として記憶しているだろう。


 DNAから転写されて運ばれてきたタンパク質の設計図を精細に翻訳し、ひとつひとつアミノ酸をつないで合成する。


 こんな精巧な仕組みがどうやって出来上がったのか、プロの生物学者たちはずっと不思議に思ってきたらしい。


 だからこそ、リボソームの起源は長年の謎とされてきていた。


 現代の進化生物学の考えでは、かつて30~40億年前の海洋──原始のスープ──において、分子レベルの化学反応が数億年かけて繰り返される中で、自らを複製する分子──すなわち、自己複製子としての分子──が偶然現れた。


 自己複製子の内、淘汰を免れて化学的な外被をまとった分子が、現代生物学では遺伝子と呼ばれている。


 自己複製子が行う自己複製は完璧ではなく、誤りが発生することがある。


 特に発生当初の未発達な自己複製子は、今よりも誤りが多かったと考えられている


 「原始のスープ」において、不正確な複製をされて変異した分子は、オリジナルより自己複製しにくい仕組みを持つ分子もあり得たし、しやすい仕組みを持つ分子もあり得た。


 そうして分子がさらに増えていくと、分子を構成する資源をめぐって、分子同士の物理的な競争(であるかのように見える行動)が発生した。(もちろん、分子に感情や知能は無い)


 結果的には、より自己複製に有利な行動をする分子ほど、より自己複製しやすく存続しやすい。


 そのため、自己複製のための自己維持に有利な仕組み──外界から身を守る化学的な(タンパク質の)外被──をまとった分子が現れると、この分子はさらに自己複製していった。


 現代では、この分子を覆う仕組みが生存機械の、つまり生物の始まりであると考えられている。



 リボソームというのは、実はそれ自体、RNAとタンパク質の両方からできている分子である。


 タンパク質をつくるときに、mRNA(伝令RNA)がリボソームに結合して、そこにtRNA(転移RNA)がアミノ酸をつれてきてタンパク質を合成するのだが、実はその舞台となるリボソーム自体、RNAとタンパク質の複合体なのである。


 リボソームは数十種類以上のタンパク質と、数種類のRNA分子(リボソームRNAと呼ばれる)からできている。


 立体的な構造は代表的なものをネットでいくつも見ることができるのだが、それらは本当に「絡まり合っている」というのがふさわしい。


 2種類の「紐」が、解きほぐし難く一つの構造物を作り上げ、そこで、紐1(核酸)の情報から紐2(タンパク質)の合成が行われる。


 リボソームそのものが、二重の意味で、2つの「紐」が交わるところになっている。


 生命の起源の議論では、RNAが先か、タンパク質が先かという議論があって、それぞれ、RNAワールド仮説、プロテインワールド仮説、などと呼ばれている。


 リボソームは、セントラルドグマの中で重要な役割を果たすものであるため、地球生命の進化のきわめて早い段階からないと困るのに対し、いきなり両方が絡まり合って存在しているということが、大きな「謎」として広まっていた。


 そこである科学者は、RNAが先かタンパク質が先かという話ではなく、恐らく同時に進んできたのではないか、と考えた。


 原始地球の頃からRNAとタンパク質の紐が共存していて、両方の紐が同時にあることがお互いにそれぞれ有利に働くような共進化が働いて、そのおかげで徐々に大きいリボソームのようなものができたのではないか、——と。

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