「第三日:存在論の深淵 ―思索―」

 8月14日水曜日、さいたま新都心に3日目の朝が訪れた。巨大な卵の存在は、もはや驚きではなく、人々の日常の一部となりつつあった。しかし、その日常は、これまでの「普通」とは全く異なるものだった。


 午前9時、各分野の科学者たちによる初期調査結果の記者会見が開かれた。会場となったさいたまスーパーアリーナには、国内外のメディアが殺到していた。


「我々の調査結果は、驚くべきものです」


 国立科学博物館の鈴木美咲博士が口火を切った。


「この卵は、既知のいかなる生物学的特徴とも一致しません。さらに言えば、その物理的特性は、我々の知る自然法則では説明がつきません」


 会場が騒然となる中、東京大学の田中誠司教授が続いた。


「卵の周囲で観測された重力異常は、アインシュタインの一般相対性理論の枠を超えています。我々は、未知の次元からの干渉を示唆する証拠を得ました」


 この発表は、科学界に衝撃を与えると同時に、哲学的議論の口火を切ることとなった。


 記者会見の様子がリアルタイムで全国に放送される中、各地の大学や研究機関で緊急の討論会が開かれた。


 京都大学哲学科の山田太郎教授は、オンライン討論会で次のように語った。


「この現象は、我々の『現実』という概念そのものを問い直す機会を与えてくれています。我々が知覚している世界は、本当に『真の現実』なのでしょうか? それとも、プラトンの洞窟の比喩のように、我々は影を見ているだけなのでしょうか?」


 この問いかけは、SNS上で瞬く間に拡散し、#現実とは何か というハッシュタグが世界的にトレンド入りした。


 一方で、宗教界からも様々な解釈が示された。カトリック教会のある司祭は次のように述べた。


「この卵は、神が我々に与えた啓示かもしれません。創世記にある『初めに言葉ありき』という一節を思い出させます。この卵は、新たな創造の始まりを告げる神のメッセージなのかもしれません」


 これに対し、ある仏教僧は異なる見解を示した。


「この現象は、我々に『無常』の真理を示しているのではないでしょうか。突如として現れ、いずれ消えゆくであろうこの卵は、全ての存在が移ろいゆくことの象徴なのです」


 このような宗教的解釈は、信仰心の薄れていた若者たちの間でも新鮮な響きを持って受け止められた。


 学生たちの間では、さらに斬新な仮説が次々と生まれていた。さいたま市立O高校の科学部が主催したオンライン討論会では、「集団催眠説」や「シミュレーション理論」が熱く議論された。


「もしかしたら、我々は全員、巨大な仮想現実シミュレーションの中にいて、この卵は、そのシステムのバグなのかもしれない」


 ある高校生の発言に、参加者たちから驚きの声が上がった。


 この仮説は、哲学者たちの間でも注目を集めた。東京大学の佐藤哲也准教授は、自身のブログでこう綴った。


「高校生たちの『シミュレーション理論』は、哲学的には非常に興味深い視点です。デカルトの『我思う、ゆえに我あり』から始まる近代哲学の流れを、現代のテクノロジーの文脈で再解釈したものと言えるでしょう」


 しかし、この理論に対しては批判的な声も上がった。京都大学の山田教授は次のように反論した。


「シミュレーション理論は魅力的ですが、それを証明することも反証することも不可能です。むしろ我々は、目の前の現象をどのように受け止め、それによって我々の世界観がどう変容するかに注目すべきではないでしょうか」


 このような哲学的議論は、驚くべきことに一般市民の間でも広がっていった。カフェや公園、オンライン上で、人々は「現実とは何か」「存在の意味とは」といった深遠な問いについて熱心に語り合った。


 さくらは、この状況に興味を持ち、街頭インタビューを始めた。彼女のTikTokアカウントには、様々な市民の声が投稿された。


「正直、怖いです。でも、同時にワクワクもしています。何か大きなことが起ころうとしているような……」


 ある主婦の言葉が、多くの共感を集めた。


「僕はね、この卵が何なのかはどうでもいいと思うんです。大事なのは、これをきっかけに人々が深く考え始めたことじゃないですか」


 老紳士の穏やかな笑顔が、画面に映し出された。


 さくらは、これらのインタビューを通じて、人々の反応の多様性と、その奥に潜む共通の不安と期待を感じ取っていった。


 夜になっても、さいたま新都心の街は眠ることを知らなかった。巨大な卵の周りには、24時間体制で科学者たちが調査を続け、その外側では市民たちが思い思いの議論を交わしていた。


 そして、誰もが気づかぬうちに、この奇妙な3日間で、人々の「常識」や「現実」という概念は、大きく揺らぎ始めていたのだ。科学と哲学、宗教と常識、そして人々の想像力が混ざり合い、新たな世界観が生まれつつあった。


 その夜、さくらは友人とのLINEグループでこうつぶやいた。


「私たちは、歴史の大きな転換点にいるのかもしれない。この卵が何であれ、それは人類に大きな問いを投げかけているんだと思う」


 彼女の言葉は、この不思議な現象が引き起こした哲学的議論の深化を、鋭く言い表していた。

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