おん

烏目浩輔

前半

     1


 正夫さんの趣味は登山だという。 

 三十年間勤めた会社を定年退職してから、家でのんびりすごすことが増えた。しばらくその生活を楽しんでいたのだが、あるときから身体からだの衰えを感じはじめたそうだ。家の階段をあがるだけでも息切れを起こす。

 少しは運動をするべきだと実感し、若い頃に楽しんでいた登山を再開した。


 遠くの山まで出向くこともままあったが、地元の山に登るのもわりと好きだった。地元の山は町の西方に聳えており、その日も佐久間さんはそこに登ることにした。

 登山道は人ひとりがやっと通れるほどの幅しかなく、両側には丈高い樹々が並び立っている。その枝葉が陽光をさえぎるために、空が晴れていてもあたりは薄暗かった。


 山を登りはじめて三十分ほどが経った頃だった。

 額の汗を拭きつつ歩を進めていると、ふいに頭上でなにかの音がした。

 バサ……バサ……。

 鳥が羽ばたくような音に聞こえた。

 佐久間さんは頭上を見あげた。

とんび……?)

 そのとき、葉むらの隙間から覗いている青空に、素早く通り過ぎていくなにかを見た。

 羽ばたく音がまた聞こえた。

 バサ……バサ……。

 それは逆光で影になっていたものの、鳶の何倍もある大きな鳥に見えた。



     2


 現在の尾崎裕一さんは四十代前半だが、祖父に渓流釣りを教わったときは、まだ十歳そこらだったそうだ。それからどんどん釣りが好きになり、祖父が他界した今でも、暇を見つけては釣行に出るのだという。

 釣り場はもっぱら地元の山に見つけた渓流だった。山は緑豊かではあるものの、車道が整備された場所もある。


 早朝に家を出た尾崎さんは、勝手知ったる道を進み、渓流のそばで車を停めた。愛用のウェーダーを履いて、ごろた石の川原に向かう。ウェーダーは腰や胸もとまであるゴム製の長靴のようなものだ。祖父に、最近はウェーダーとよぶのだと教えても、結局最後まで胴長という言い方を変えなかった。


 釣りをしていると時間を忘れる。気がつくと、もう昼前という時刻になっていた。どうやら今日は日がよかったらしく、ヤマメがそこそこ釣れてくれた。

 まだ釣果があがるかもしれないが、こういうよく釣れる日こそ、欲を抑えて自制しなければならない。

「釣りすぎはいかんぞ」

 尾崎さんは祖父の教えを守って、今日の釣りは終えることにした。

 そうして川原から引きあげようとしたとき、背後で鳥が羽ばたくような音がした。

 バサ……バサ……。

 尾崎さんはその音につられて後ろを振り返った。

 すると、そこからなにが飛び立った。

 同時に砂ぼこりが起きて、反射的に目を伏せた。

 それはあっという間に遠くに消えていったが、人ほどの大きさがある鳥のように見えた。



     3


 由紀さんは趣味で写真を撮っている。今から五年前の四十七歳のときには、県主催のフォトコンテストで大賞をとったこともあるそうだ。

 被写体はさまざまだが、植物であることが多い。ここ最近は地元の山に自生する苔を好んで撮っているという。苔は被写体として地味に思えて、実のところとても美しい植物だ。緑、黄、赤と色鮮やかだった。


 そんな宇都美さんは三連休のなかに、カメラを片手に地元の山にのぼった。

 陽気はいいというのに、登山道は狭く薄暗かった。周囲に立ち並ぶ背の高い樹々が、太陽と青空を隠しているからだ。それでも初夏のさんちゅうは植物の気配が濃く、目あての苔の群生もあちこちに認められた。

 宇都美さんは身を屈めて、樹の根にカメラを向けた。明るい黄緑色の苔が、その一帯に広がっている。

 夢中になってシャッターを切っているとき、どこからか鳥の羽ばたくような音が聞こえた。

 バサ……バサ……。

 音が気になった宇都美さんは、身体からだを起こして、音のしたほうに目を向けた。すると、薄暗くてよく見えないのだが、少し離れたところなにかいる。

 樹々の中に佇むそれは、巨大な鳥のようにも、人のようにも見えた。


 宇都美さんは思わず後ずさった。

 まさか、あれはおんだろうか。


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