おん

烏目浩輔

前半

     1


 もうすぐ六十歳になるという佐久間さくま忠志さんは、山に登ることがちょくちょくあるそうだ。

 佐久間さんが急に体力の衰えを感じはじめたのは、五十代の半ばになった頃からだったという。自宅の階段をあがるだけでも、軽く息切れを起こすようになった。そのうえ、ビールの飲み過ぎが祟ったらしく、腹もぽっこりと出てきてしまった。

 さすがに運動不足を痛感した佐久間さんは、若い頃に楽しんでいた登山を再開したそうだ。一旦再開してみると思いのほか楽しく、月に一度は山に登るようになった。


 遠くの山まで出向くこともままあるらしいが、地元の山に登るのもわりと好きなのだという。地元の山は町の西方に聳えており、その日も佐久間さんはそこに登った。

 登山道は人ひとりがやっと通れるほどの幅しかなく、両側には丈高い樹々が並び立っている。その枝葉が陽光をさえぎるために、空が晴れていてもあたりは薄暗かった。


 山を登りはじめて三十分ほどが経った頃だった。

 額の汗を拭きつつ歩を進めていると、頭上でなにかの音がしたそうだ。

 バサ……バサ……。

 それは鳥が羽ばたくような音に聞こえた。

 佐久間さんは頭上を見あげた。

(イヌワシ……?)

 小鳥にしては羽音が大きく感じられた。きっと、ときどき見かけるイヌワシに違いない。そう納得して前に向き直ろうとしとき、枝葉の隙間から覗いている青空に、なにかが素早く通り過ぎていくのが見えた。

 羽ばたく音がまた聞こえた。

 バサ……バサ……。

 それは逆光で影になっていたものの、イヌワシの何倍もある大きな鳥に見えた。



     2


 現在の尾崎裕一さんは四十代前半だが、お祖父じいさんから渓流釣りを教わったときは、まだ十歳そこらだったそうだ。それからどんどん釣りが好きになり、お祖父さんが他界した今でも、暇を見つけては釣行に出るのだという。

 釣り場はもっぱら地元の山にある渓流だった。山は緑豊かであるものの、車道が整備された場所もあり、釣り場にはいつも車で向かう。


 早朝に家を出た尾崎さんは、通り慣れた道を進み、渓流のそばまで車を進めた。車外におりて愛用のウェーダーを履き、ごろた石の川原に向かう。ウェーダーは腰や胸もとまであるゴム製の長靴のようなものだ。お祖父さんに、最近はウェーダーとよぶのだと教えても、結局最後まで胴長という言い方を変えなかったという。


 釣りをしていると時間を忘れる。気がつくと、もう昼前という時刻になっていた。日がよかったらしく、ヤマメがそこそこ釣れたそうだ。

 まだ釣果があがるかもしれないが、こういうよく釣れる日こそ、欲を抑えて自制しなければならない。

「釣りすぎはいかんぞ」

 尾崎さんはお祖父さんの教えを守って、その日の釣りを終えることにした。

 そうして川原から引きあげようとしたとき、背後で鳥が羽ばたくような音がした。

 バサ……バサ……。

 尾崎さんはその音につられて後ろを振り返った。

 すると、そこからなにが勢いよく飛び立った。

 同時に砂ぼこりが起きて、反射的に目を伏せた。

 それはあっという間に遠くに消えていったが、人ほどの大きさがある鳥のように見えたという。



     3


 宇都美うつみ由紀さんは趣味で写真を撮っている。今から五年前の四十七歳のときには、県主催のフォトコンテストで大賞をとったこともあるそうだ。

 被写体にはさまざまだが、植物であることが多い。ここ最近は地元の山に自生する苔を好んで撮っている。苔は被写体として地味に思えて、実のところとても美しい植物だという。緑、黄、赤と色鮮やかである。


 そんな宇都美さんは三連休のなかに、カメラを片手に地元の山にのぼった。

 陽気はいいというのに、登山道は狭く薄暗かった。周囲に立ち並ぶ背の高い樹々が、太陽と青空を隠しているからだ。それでも初夏のさんちゅうは植物の気配が濃く、目あての苔の群生もあちこちに認められた。

 宇都美さんは身を屈めて、樹の根にカメラを向けた。明るい黄緑色の苔が、一帯に広がっている。

 夢中になってシャッターを切っているとき、鳥の羽ばたくような音が聞こえたという。

 バサ……バサ……。

 音が気になった宇都美さんは、身体からだを起こして、音のしたほうに目を向けた。すると、薄暗くてよく見えなかったものの、少し離れたところなにかが立っていた。

 樹々の中に佇むそれは、巨大な鳥のようにも、人のようにも見えた。




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