渋柿

小日向葵

渋柿

 山五つほど南にある那古野なごやという街が、半月前に空襲を受けたと云う。もう冬だというのに周囲の山林は騒がしい。人にあらざるもの達も、地が焼かれるという恐怖におののいていた。


 空を飛んで来て、街と人とを焼いた金物かなものの鳥。遥か空にぎらりと輝いたそれは、地上に這いずる物々を睥睨へいげいし、死の閃光をばら蒔いたと云う。


 萎びた柿を齧り、あやかしは溜息をつく。この雪の静寂の中に、血の臭いがする。



 蠱惑的な匂い。命そのものと言ってもいい臭い。それをすすることが、妖の一族がその一族たらん証と教えられた。だからこそ絶つのだと両親は言っていた。かぐわしき甘き死へのみちとして、血を拒絶するのだと。



 体の芯が疼く様な気がした。脳髄がじんじんと痛み、涎が後から後から口中に湧き出ずる。長い時の中で弱くなった本能がそれでも鎌首をもたげているのを感じる。


 「君は、誰だ。なぜこんな所にいる」


 金髪碧眼。枯草色の見慣れない服をあちこち赤黒く染め、左腕を押さえ片足を引き擦り、そいつは呆然とした顔で言った。


 ああ、ここも十年か。妖は嘆息する。人に見つからぬよう、人と交わらぬよう、また他の妖共ともぶつからぬよう移り棲んだこの山奥での暮らしもここまでか。


 「君はアメリカ人か、それとも」

 「どちらでもない」


 男の言葉を遮って妖は答える。言の葉が違う、やまと言葉ではない。けれど妖にはそれが何を言わんとしているかくらいは判る。人に紛れ人を喰らう一族には、人の思う所くらいは察知できねば商売にならない。


 「自分は第七十三航空団の」

 「黙れ」


 ぴしゃりと妖は言った。雪を掻き分けて逃れて来た痕跡。点々と続く血の痕跡。もう駄目だ。


 「お前のお陰で全てがおじゃんだ」


 もう腹も立たない。ただ淡々と事実を述べる。


 「お前のお陰で山狩りが始まるだろう。この時代にも落ち武者狩りとはな」

 「ムシャ?何を言っている、君は捕虜か?なぜこんな所に」

 「黙れと言った」


 鈍色の空を、妖は遠く見つめた。北へ歩いて黒部へ向かうか。あそこにはまだ化け猫の集落があったはずだ。ちと遠いが、ここに残るよりは面倒がなかろう。


 山の麓に人の気配が集まり始めている。物の怪たちが身を隠す相談を始めている。せっかく見つけたこの洞穴もたった十年か。もし下の街にも異人が混じるようであれば、むしろ人の間の方が身を隠しやすいやも知れない。


 こんな所にまで異人が来る。日の本も敗けるな、と妖は思った。呑気に畑を耕していれば良かったのだ。戦はいつも民の生活を壊す。その基盤となる土地を壊す。それでも人は戦い続け、妖はずっとその様子を見て来た。平和な時代に見えても小競り合いは常にあったし、それらはうねって次の争いへと続いていく。


 妖は手近な食料をぼろに包んで手に持った。秋のうちにもいで干しておいた柿、川魚の干物。無理に食べる必要もなかったが、一人で時間を潰すための道具だ。


 「どこへ行く」


 そいつは何かを手に持っている。ああ拳銃という奴だ、麓の巡査も持っていた。どこぞの殿様も持っていた。それよりは装飾も少なく武骨な形をしているが、間違いなく拳銃という奴だ。


 「どこへ行こうとあたしの勝手だ」

 「そうはさせない。味方が救出に来るまで、敵に見つかるわけには行かない」

 「敵も味方も知るものか。お前がここに来たお陰で全てがご破算だ。もう山狩りが始まる」

 「山狩り?」

 「そんなに血をぽたぽた垂らして、見つけてくれと言っているようなものだ」



 馬鹿馬鹿しい。そんなものであたしが殺せるものかよ。妖は拳銃の鈍い光を嗤う。



 「君は本国のスパイじゃないのか」

 「違う。あたしはそもそも人ではないんでな」


 やはり北だ。おっての気配は南に山一つと言ったところか。いつまでこうして生きて往けばいいんだろうか。


 「しかしその髪は」

 「あたしは由緒正しきトランシルバニアの……」


 妖は口を噤んだ。


 「トランシルバニア?」

 「ふん」


 妖は洞穴を出て、辺りを見回す。そろそろ日も暮れる。行くなら今だ。


 「待ってくれ」

 「No」


 妖は吐き捨てて、虚空に跳んだ。一跳びで五町。あっという間に十年住んだ洞穴が遠ざかる。全く、血の臭いなどをぷんぷんさせやがって。五度ほど跳んでから、妖は雪に腰を降ろしてぼろの中から萎びた柿を取り出し、齧った。


 「渋柿か」


 その渋味が、鼻孔の奥に残る血の臭いを拭ってくれる気がした。




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渋柿 小日向葵 @tsubasa-485

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