けもの道
山の中腹を造成してつくられた分譲住宅街の入口には、山へと続く道があった。
細い道で、この道を行くと、山の斜面をくるりと回り、裏の農道へと出ることができる。農道を左に折れて暫く行けば、住宅街の入口から続いている県道に出るはずだった。農道と県道の合流地点辺りに団地がある。団地から住宅街に抜ける近道になっていた。
ここに越してきて三年になるが、山道を一度も歩いたことがなかった。道があるのは知っていたが、通ったことがない。そういう道は、きっと誰にでもあるだろう。登山の趣味も、ウォーキングの趣味もない。運動不足の中年親父だ。休みの日も、家でゴロゴロしているだけだった。
そんな俺だったが、健康診断で血圧が高いと言われた。血液検査の結果、血糖値やガンマ何たらやら、とにかく、色々な数値が悪いのだそうだ。脂っこいものを控えて、運動をしろと医師に忠告された。
妻からも散々、怒られた。
そんなこともあって、週末、俺は住宅街の入口の山道を歩いてみようと思った。裏の農道に出て、県道を回って家に帰ると、一時間くらいかかりそうだ。良い運動になるだろう。山の中だ。空気が良いし、景色も良い。仕事のストレス発散にもなる。
――いいわね。是非、そうしなさい。
と妻からも勧められた。
「お昼、すませて来るからね。おにぎり、握っておいたから、持って行ってね」妻は息子を連れて、町のショッピング・モールに出かけた。
家族でピクニック気分を楽しむつもりだったが、山歩きには興味がないと言う。ショッピング・モールで美味しいものを食べてくると、出かけてしまった。
むっとしたが、おにぎりを握っておいてくれたのは助かった。これで食事の心配をしないで済む。俺はおにぎりとミネラル・ウォータのペットボトルを持って家を出た。ちょっとした冒険だった。次は息子を連れて来ようと思った。
見晴らしの良い場所で、おにぎりを食べようと思い、正午前に家を出た。
団地の入口脇にある山道に足を踏み入れる。青々と茂った雑草が道幅を狭くしている。山道を歩くのは久しぶりだ。子供の頃は、こういった山道を走り回っていた記憶がある。
幸い、天気にも恵まれた。
もう少ししたら、こんな天気だと汗ばむ季節になるだろう。だが、降り注ぐ日差しが心地よく感じる絶好の季節だった。俺は鼻歌を歌いながら、山道を歩いて行った。子供の頃、よくやったように、道端に生えていたセイタカアワダチソウを引き抜くと、茎を鞭のように左右にしならせ、道端の雑草を薙ぎ払いながら歩いた。
お腹が空いた。
景色の良い場所に出たので、昼食をとることにした。木の枝に腰かけて、おにぎりを食べた。野外で食べるおにぎりは最高だ。普段より、何倍も美味しく感じる。
だが、楽しかったのはここまでだった。
道に迷ったのか、なかなか農道に辿り着かない。道はどんどん険しくなり、山に分け入っているような気がした。ざっと一時間の行程のはずだが、出発から四十分経っても、まだ山の中だ。農道など、何処にも見えない。
途中、道が枝分かれしている場所があった。ひとつは狭くて、けもの道に見えた。この辺りでも猪くらいいるのかもしれない。広い方の道を選んだが、道は直ぐに細くなり、雑草ばかりになった。
道を間違えたのかもしれない。けもの道を選んでしまったようだ。
住宅街の近くだ。遭難するような心配はない。だが、このまま帰れなくなると困る。歩いて来た道を引き返すことにした。結局、また四十分かけて、来た道を戻った。もともと、運動の為に歩き始めただけだ。往復で一時間以上、たっぷり歩くことができた。それで十分だった。
住宅街に戻る。見慣れた景色だ。
ぶらぶらと家路を目指す。背後から猛スピードで軽自動車が追い抜いて行った。住宅街を、あんなスピードで飛ばすなんて、なんて非常識なやつなんだ――と腹が立った。
向こうから中年の女性が歩いてきた。歩いているのだが、物凄いスピードだ。まるで、早送りをしているかのように、足を素早く動かしながらやってくる。
「こんにちは」と、これもテープを早回しするかのような、甲高い声で短く言った。
(何をそんなに慌てているんだろう? しかし、元気だな)
その時は、そう思っただけだった。
家に戻ると、妻と息子が帰宅していた。妻は、「あんた。随分、遅かったわね。迷子になったのかと思ったわよ」と、これもテープを早回しするかのような甲高い声で言った。
「何で、そんなに早口なんだ」
「あんた、何でそんなにゆっくりしゃべるのよ。ほら、さっさと動きなさい。疲れているのは分かるけど、もう少し、しゃきっと動けないの」妻が俺の周りをくるくると回る。
あの妻が、まるで羽が生えたかのように軽々と動いている。
――どうしたんだ⁉
この時、俺はやっと異変に気がついた。
俺の周りの人間が慌ただしく動いているのではなく、俺の動作が遅いのだ。いや、俺は何時も通りに動いている。それでも、周りの人間の動作が早すぎた。彼らからは、俺がゆっくりと動いているように見えるのだ。俺から見ると、周りは倍速で動いていた。
俺の時間だけが遅れているのだ。
食事をすれば、「何時まで食べているの」と妻に怒られる。風呂に入っていると、「いい加減、長風呂は止めてよ」と急かされる。
(ひょっとして、一晩、寝たら、もとに戻っているかも)と寝た。そしたら、夜中に突然、起こされた。「何だ、こんな夜中に――」と文句を言うと、「あんた、何を言っているの。もう、朝よ」と妻があきれる。
周囲の時間が倍速で流れているのだ。睡眠時間が半分になってしまった。
――このままだと、どうなるのだろう?
心配になった。人の半分のスピードで生きている。周りの動きについて行けないが、裏を返せば、人の倍、生きられるのではないか? そう思った。俺が長寿記録を大幅に更新することになるだろう。
喜んでばかりもいられなかった。会社に遅刻した。駅まで歩いていると、何時も倍、時間がかかってしまう。地下鉄に乗っていると、揺れが激しい。窓を流れる景色が早すぎて酔ってしまった。やっと駅について会社まで歩いて行くと、ここでも倍、時間がかかってしまった。
職場でも散々だった。周りの会話が早すぎてついて行けない。睡眠不足で眠くてやりきれない。何をやっても、人の倍、時間がかかってしまう。まるで仕事にならなかった。
だが、仕事が終わるのだけは早かった。周囲は倍のスピードで動いている。半日で仕事が終わった感じだった。俺は逃げ出すように会社を飛び出した。
何時もの倍の時間をかけて家に戻る。
食事が遅い、風呂が長いと言われながら、やっと落ち着くことができた。だが、テレビを見ても、早すぎてついて行けない。音楽を聴いても、キーキーと雑音にしか聞こえなかった。
本だ。本があった。買ったまま、読まずに放ってあった本を引っ張り出してきた。本なら大丈夫だ。だが、読み始めて暫くすると、「あんた。明日も会社でしょう。何時まで起きているのよ」と妻に叱られた。
寝たと思ったら、起こされた。睡眠時間は半分になった。
一週間で、俺はくたくたになった。とても、周りについて行けない。会社で、俺は“ノロ亀さん”というあだ名をつけられようだ。のろまな亀という意味だろう。ブラック企業の一歩手前のような会社だ。このままだと、早晩、リストラの対象になってしまう。
長生きできると喜んだが、考えてみると、いずれ息子は俺の年齢を追い越してしまうだろう。俺は孫に面倒を見てもらうことになる。
――このままじゃあ、ダメだ。何とかしないと!
俺はもう一度、あのけもの道に戻ることにした。
俺の身に異変が起きたのは、あの日からだ。あのけもの道を歩いてからだ。あの時、けもの道を引き返してしまったから、こんなことになったような気がした。引き返さずに、けもの道をひたすら歩き続けていれば、こんなことにならなかたのではないか――そう思った。
今度は引き返さない。その覚悟で山道に向かった。
今度は怪訝そうな表情で、妻がまたおにぎりをつくってくれた。山道を進む。やがて、道が枝分かれした場所にきた。広い道が、けもの道だ。この道をひたすら真っすぐに進むのだ。そうすれば、元の世界に戻ることができる。
俺はけもの道を歩いて行った。
住宅地で、男性が失踪する事件が起こった。
男性は山に行くと言って家を出たまま帰って来なかった。家族から失踪届が出され、住宅の裏山が捜索された。
三日後に男性は見つかった。
男性は住宅地と目と鼻の先にある山中で亡くなっていた。不思議なことに、がりがりに痩せており、頭髪は真っ白だった。死因は臓器不全、俗にいう老衰だった。
了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます