【百合クライム小説】紫藤の檻 ―裏切りの輪舞曲―

藍埜佑(あいのたすく)

プロローグ:新宿の喫茶店

 新宿の片隅、路地裏に佇む古びた喫茶店「紫藤」。その店内に漂う珈琲の香りと、かすかに流れるジャズの調べが、独特の雰囲気を醸し出していた。薄暗い蛍光灯の下、奥のボックス席に座る二人の女性の姿があった。


 長身でスリムな体つきの蒼鷹(そうよう)は、真っ直ぐな黒髪をポニーテールに結い上げ、シャープな眼差しで周囲を警戒していた。彼女の手元には、銀色に輝くアタッシュケースが置かれている。その指先が、無意識にケースの表面を撫でていた。


 蒼鷹が身に纏うのは、ダークグレーのテーラードジャケットに同色のスラックス。胸元に覗くシルクのブラウスは、深みのある紫色で、彼女の凛とした雰囲気を引き立てていた。足元には、イタリア製の本革パンプス。そのヒールの先端には、特殊な仕掛けが隠されているのだが……。


 対面に座る萌葱(もえぎ)は、蒼鷹とは対照的な雰囲気を醸し出していた。ショートカットの髪は鮮やかな翡翠色に染められ、大きな瞳には常にどこか挑発的な色気が宿っている。彼女は、ぴったりとしたレザージャケットに、膝上丈のミニスカートを合わせていた。その姿は、まるでどこかのロックバンドのボーカリストのようだった。


 萌葱の指先には、高級ブランドのシガレットケースから取り出された煙草が握られていた。彼女は深く煙を吸い込むと、ゆっくりと吐き出す。その仕草には、どこか儚さと色気が入り混じっていた。


「ねえ、蒼鷹……」


 萌葱が口を開いた瞬間、喫茶店のドアが開く音が響いた。


 二人の視線が、一斉にドアの方へ向けられる。そこに現れたのは、艶やかな着物姿の女性だった。


 蘭丸(らんまる)と呼ばれるその女性は、優雅な足取りで二人の元へと近づいてくる。彼女の着物は、深い紫地に金糸で紫藤の花が描かれた逸品だった。その姿は、まるで浮世絵から抜け出してきたかのような美しさだった。


 しかし、その目元に浮かぶ笑みには、優しさと同時に危険な色が潜んでいた。蘭丸の唇は、艶やかな朱色に彩られ、その一つ一つの仕草が、長年培われた色気を滲ませていた。


「お待たせ、お嬢さん方」


 低く響く蘭丸の声に、蒼鷹と萌葱の背筋が一瞬凍りついた。二人は思わず顔を見合わせる。その瞬間、彼女たちの運命が大きく動き出すことを、二人とも直感的に悟っていた。


 蘭丸は、優雅な動作でボックス席に腰を下ろすと、艶のある声で続けた。


「準備はいいかしら?」


 その言葉に、蒼鷹と萌葱の表情が引き締まる。蒼鷹の手が、無意識にアタッシュケースを握りしめる。萌葱は、煙草の煙を深く吸い込んだ。


 静寂が流れる。その沈黙の中に、これから始まる危険な賭けへの覚悟が、三人の間で共有されていた。


 喫茶店の外では、新宿の夜が深まりつつあった。ネオンの光が闇を彩る中、「紫藤」の看板だけが、静かに夜風に揺れていた。


 蘭丸の言葉が、静寂を破った。


「さて、お二人とも。今夜の仕事の詳細をお話しましょうか」


 蒼鷹と萌葱は、息を呑んで蘭丸の次の言葉を待った。蒼鷹の瞳に、鋭い光が宿る。萌葱は、煙草の灰を優雅にはたき落とした。


 蘭丸は、着物の袖から小さな封筒を取り出すと、テーブルの上に滑らせるように置いた。封筒の色は、彼女の着物と同じ深い紫だった。


「中身をご覧なさい」


 蒼鷹が慎重に封筒を開け、中の写真を取り出す。そこに写っていたのは、中年の男性だった。政治家らしき風貌で、どこかで見たことがあるような顔だ。


 萌葱が身を乗り出し、写真を覗き込む。彼女の鼻先に漂うのは、蒼鷹の付けている香水の香り。ジャスミンとムスクをベースにした、官能的で知的な香りだった。


「この方は……」


 蒼鷹が言葉を紡ごうとした瞬間、蘭丸が人差し指を立てて制した。


「名前を口にしてはいけません。危険すぎる相手よ」


 蘭丸の声音に、わずかな緊張が滲んでいた。それを察知した二人は、さらに身を引き締める。


「この方が所有している美術品を、お二人に持ち出してもらいたいの」


 蘭丸の言葉に、蒼鷹と萌葱は顔を見合わせた。二人の目に、興奮の色が浮かぶ。


 萌葱が、艶のある声で尋ねる。


「どんな美術品なの?」


 蘭丸は、にっこりと微笑んだ。その笑顔には、どこか危険な魅力が潜んでいた。


「それは、国宝級の刀よ」


 その言葉に、蒼鷹の瞳が鋭く光った。彼女の頭の中では、すでに作戦が組み立てられ始めていた。一方の萌葱は、煙草を優雅に消すと、口元に小さな笑みを浮かべた。


 蘭丸は、ゆっくりとテーブルに両手を置くと、身を乗り出した。その仕草に、二人は思わず息を呑む。


「報酬は破格よ。ただし……失敗は許されない。わかるわね?」


 その言葉には、甘美な誘惑と同時に、冷たい警告が込められていた。


 蒼鷹は、アタッシュケースに手を伸ばした。中には、この仕事のために用意した特殊な機器が収められている。指紋認証システムを搭載した最新鋭のロック、高性能の盗聴器、そして万が一の時のための護身用具。全て、彼女がこだわり抜いて選んだものだった。


 萌葱は、レザージャケットの内ポケットから小さな化粧ポーチを取り出した。中には、一見すると普通の化粧品に見えるが、実は高性能な解錠ツールや微量の毒薬が隠されていた。彼女の唇に塗られた艶やかなルージュさえも、特殊な成分が配合されているのだ。


 蘭丸は、二人の様子を満足げに眺めていた。彼女の目には、まるで獲物を見定める捕食者のような光が宿っていた。


「さあ、行きなさい。素敵な夜はこれからよ」


 蘭丸の言葉とともに、蒼鷹と萌葱はゆっくりと立ち上がった。二人の動きには、長年の経験から来る無駄のなさがあった。


 喫茶店を出る直前、蒼鷹は一瞬立ち止まり、振り返った。蘭丸は、まだ同じ場所に座ったままだった。その姿は、まるで浮世絵の中の美しい妖艶な女性のようだ。しかし、その目には冷たい光が宿っていた。


 蒼鷹は、わずかに頷くと、萌葱の後を追って外へ出た。


 新宿の街に降り立った二人を、ネオンの光と喧騒が出迎えた。これから始まる危険な夜に、二人の心臓が高鳴り始める。


 蒼鷹は、ポニーテールを軽く揺らし、周囲を警戒した。萌葱は、口紅を軽く塗り直すと、挑発的な笑みを浮かべた。


 二人の足取りは、夜の闇に吸い込まれるように、新宿の雑踏の中へと消えていった。

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