第8話 辞書と教科書

 商店街に来た時には夕方だったので、雑貨屋デアイパチキの一件が終わった頃にはすでに日が暮れていた。

 俺は商店街の『ジュンク・ドゥ書店』で大陸公用語の辞書と教科書を買うだけだと思っていたし、マーちゃんが雑貨屋に寄りたいと言った時も用事はすぐに終わるだろうと考えていた。

 ところがデアイパチキのおっさんは倒れているし、マーちゃんの買い物は数が多いときて予想以上に時間をくってしまった。


「そんじゃぁおっさん、例の件は内緒で頼んだぜ。夢に御使みつかいが出てきたとか、そんな話で良いんだ。いきなり顔色も良くなっちまったし、ここの連中は根掘り葉掘り聞いてくるにちげえねえからな」


 おっさんの角張った広いおでこを見ながら俺は念を押しておいた。


「ケンチ、俺だって信徒だ。殺されても言わねえよ。幸運の神はそのうち俺に別の仕事をくださる。そんな気がするんだよ」


 デアイパチキのおっさんは『法治の神』の従者である『幸運の神』の信徒だった。

 ゴーリ教会じゃ神様をまとめてまつってあるから、信徒同士の仲が悪いということはもちろん無い。


「もう日が暮れてしまったな。ケンチ、念のためこの店に辞書と教科書が無いか聞いてもらえないだろうか? ここで買えれば目的は果たせる」


 今回の買い物の主役はマーちゃんだ。このトカゲ姉さんの好きにすれば良いし、お互いに明日でも良いかと思っている様に感じていたから、この申し出は意外だった。


「ここは日記帳は置いてあるけどよ。一応聞いてみるぜ。

おっさん、ここに大陸公用語の辞書と教科書はねえかな? マーちゃんは文化を記録してんだ。大事な使命ってやつだ」


 おっさんはあきれたような顔をしていたし、チョップは振り返って店の奥へ走っていってしまった。


「そういうことは早く言えよケンチ。中古のやつならあるぜ。内容は変わらねえよ。国で出版してる物だから、おける店にはできるだけ置いとけって言われてんだよ。

マンマデヒクよ、中古の物でしたらここにございます。今からチョップが持って参りますのでお待ちいただけますか?」


 意外なことに目的の物はここにあった。

 おっさんは俺にはぞんざいに言ったが、マーちゃんにはうやうやしく答えた。


「マーちゃん、店長のおっさんが中古ならあるって言うんだがどうするよ? 内容は新品と変わらねえそうだ。買ってくかい?」


「中古でもデジタルデータ化してしまえば問題ないな。是非とも購入したい。今ならこの『部屋用芳香剤サイケデリク』を料金と一緒に渡しても良い」


 マーちゃんは購入を決めたようだが、店内の従業員と客がラリって往来おうらいに飛び出しそうな芳香剤は止めた方がよくないだろうか。


「おっさん、マーちゃんが買うそうだから頼むわ。いくらになんだ? さっきも言ったが料金の受け取り拒否は無しだぜ」


 チョップの持ってきてくれた教科書と辞書はかなり状態の良い物だった。

 おっさんは、渋々しぶしぶながら銀貨10枚を受け取って会計を終わらせた。


 店を出る頃には飲み屋が本番という時間になっていたが、マーちゃんは満足そうだったし、俺も不義理な真似をせずに済んでほっとしていた。

 ついでに店の棚も整理が済んで、店中の掃除まで終わったのは本当に良かった。

 しかし店を出る直前、視界の隅で黒子さんがチョップに紫色で円錐形の何か▪▪を手渡しているのを俺は見てしまった。2人は握手までして別れをしんでいたようだ。

 俺は明日もここの様子を見に来ることを決めた。


 探索者用アパートに戻った俺たちは部屋の鍵を閉めると、アイテムボックス内にさっさと潜り込んだ。アパートの俺の部屋には私物も生活感ももう無い。


 俺は食事と風呂を済ませ、お祈りをして、教科書の内容に関するマーちゃんからの質問に答えた。

 それが終わってから寝室の机の上で日記を書いて、ここでお世話になり始めてからの激動の5日間のことを染々しみじみと思い返した後に寝た。用意してくれた酒も少し飲んだ。




 次の日になって、朝のお祈りを済ませた後のことだ。

 俺はまた商店街に出かけるつもりでいた。マーちゃんの欲しがる物はまだまだあるだろうし、賭博とばくで勝ったようなもうけだし、孤児院に差し入れにも行こうかと思っていたし、部屋用芳香剤サイケデリクが何か起こしていないか確認にも行きたかったからだ。


「マーちゃん、今日もこの後で商店街に行ってこようかと思うんだがどうだい? まだ物が買える金はあるしよ。全部使ってから、今度は山脈のふもとまで行って、それで好きなだけ山を掘ってくれば良いんじゃねえかな」


 俺は用意してもらった朝食を食べながら、今後の予定についてマーちゃんに相談してみた。

 ちなみに今日の朝食はおにぎりで、昆布、おかか、塩鮭、野沢菜、ふき味噌の5種類の具があり、カブの味噌汁にウィンナーソーセージとトマトと玉ねぎのサルサが付いていた。

 俺のデブへの道のりは平らに舗装ほそうされ、大理石が敷かれた上に滑り止め加工がされて、ついでに両脇に排水溝まであるようだった。

 鍛練のメニューを考えなければならない。


「大陸公用語の会話サンプルを集めるのに最適だな。今回は各種の専門店も覗いてみたいのだ。しかしケンチは預金まで全部をおろしたのだろう? それで良いのか?」


「こんだけ世話になっておいて今さらだぜ。おかげで金はほとんど使わねえしな。ここにあるもんは金じゃ買えねえし、俺は構わねえぜ」


 俺の今の生活は、食費も光熱費も、探索のコストも必要の無いものになってしまっていた。

 余談だが水道はここだと無料になっている。水道が無料なものだから、マーちゃんは上水道のポンプから125万リットルも水を吸い上げてしまった。サンプルだとのことだが、新たな事実が判明しないことを祈っている。


「ところでな、大八車だいはちぐるまみたいなもんがあったら貸してほしいんだ。街中でアイテムボックスから出し入れ出来ねえし、今日もたくさん買うかもしれねえだろ? 孤児院に物を持ってくのにも使いてえしな」 


往来おうらい大八車だいはちぐるまいて歩くのはここではスタンダードなのか? もちろん用意出来るし構わないが……」


 マーちゃんから同意も得たので、午前中のうちに俺は大八車だいはちぐるまいて商店街に向かって歩いた。

 『行き倒れのケンチ』と言えばここでは有名人だ。それに大八車だいはちぐるまいてるのもいつもの風景だった。




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