第6章「それでも結城は世話を焼く」

1


「あなたには蟻塚祐絵を陥れて欲しいのよ。嫌いでしょ?あの子のこと」

非常口の見える人気のない廊下まで連れてこられた柊は、そこで突然、旭川にそう持ち掛けられた。

屈託のない笑みを浮かべる旭川に柊は少しだけたじろぐ。

「……どうしてそんなことをするの?」

「どうして?そんなの決まってるでしょ。私もあの子のことが嫌いだからよ」

「蟻塚さんは……良い人だよ?」

「は?」

柊の言葉に旭川は眉をしかめる。

そして、柊の襟首を掴み、壁に叩きつけた。

突然のことに柊は目を白黒させるが、旭川はそんなことお構いなしに話を続ける。

「あなたは虐められてるんでしょ?何、良い人って。頭おかしいんじゃないの?」

「蟻塚さんはもう……私のこと虐めてないよ」

「はぁ!?くそっ、矢渕達也の奴言ってること違うじゃない!」

ここにいない人間に怒りをぶつける旭川。

柊は、そんな旭川に恐怖を抱きながらも、勇気を出して口を開く。

「どうして旭川さんは……蟻塚さんのこと嫌いなのかな?」

「あ?そんなの聞いてどうすんの?」

「前までは凄く仲良さそうに見えてたから……違ってたらごめんなさい」

俯く柊に、旭川は軽く舌打ちをする。

「仲が良かったことなんて1度もないわ。あんな奴と」

「喧嘩した……とか?」

「あなたには関係ないでしょ」

「約束を破られた……とか?」

「……っ!」

柊のその言葉を聞いた瞬間、スパンッ!と旭川の平手が柊の頬を捉えた。

衝撃で尻もちをついた柊の襟首から手を離し、今度は髪の毛を掴んでそのまま見上げさせるように持ち上げる。

「あんたには関係ないって言ったわよね?」

痛みに顔を歪める柊だったが、そんなことはお構いなしに旭川は続ける。

「良いわ。そんなに私に従うのが嫌なら次は私があなたを虐めてあげる。蟻塚も一緒にね」

「……っ」

「何、その目は?もしかして威嚇のつもり?はっ、全然怖くないけど」

嘲笑う旭川を柊は強い眼差しで睨むと、臆することなくはっきりと告げる。

「私は……良い。でも、蟻塚さんだけは虐めないで」

「……」

柊のその態度が気に入らなかったのか、旭川は「ふーん」と短く呟き、掴んでいた髪の毛を乱暴に離すと腹部に蹴りを1発入れた。くぐもった声を出す柊をよそに、どこか狂気を滲ませる瞳をした旭川は再び口を開く。

「だったら、あなたを襲わせることにするわ。蟻塚祐絵の代わりに」

「襲、う……?」

「ええ、あなたが言ったのよ?蟻塚祐絵を虐めるなって。代わりになる覚悟はあるんでしょ?」

そう言いながらパチンッ、と旭川が指を鳴らすと突然非常口から3人の男子生徒が現れる。

全員、柊の知らない顔だった。

明らかにガラの悪い生徒達を前に、柊は思わず後退りしてしまう。

そんな柊を見て旭川は楽しそうに笑い、ポケットから取り出したスマホを操作するとカメラを向ける。

「ほら、さっさと脱がすなりしなさいよ」

「いや……え?蟻塚は?」

「うっさい。裏切って私の側についた癖にいちいち逆らわないでくれる?良いのよ私は。あなた達のやらかしを右京先輩にチクっても」

「……くそが」

3人の男子生徒は悪態を吐きながら、渋々といった様子で柊のジャージに手を伸ばす。

「や、やめて……!」

抵抗しようとする柊だが、2人がかりで両腕を掴まれ、簡単に抑え込まれてしまう。

「誰かに見つかる前にさっさとやれ!」

そう言われ、1人の男子生徒が柊のジャージを捲りあげようとした時だった。

パシャッ!と旭川ではない誰かが写真を取ったような音が鳴る。

その音の発生源に目を向けると、そこには手にスマホを持った蟻塚が立っていたのだ。

「何やってんだか」

溜息混じりの言葉を漏らす蟻塚。

そして、再び写真を撮るような音が響く。

「……あっ」

突然の蟻塚の登場で手が止まっていた男たちは急に我に返ると、慌てて柊から離れる。

「見知った顔がいるからわざわざ言わなくてもわかるわよね?何も言わずにさっさとここから消えて」

蟻塚の言葉に、3人はバツの悪そうな表情をしながら走り去っていく。

その様子を見届けた蟻塚は呆れたように溜息を吐くと、ゆっくりと柊の方に歩み寄った。

「もう大丈夫よ」

連中に襲われていた恐怖からか、柊の頬をつたっていた涙を指で拭き取ると、蟻塚は優しく頭を撫でる。

「使えない連中ばかりで本当にうんざりね」

対して旭川の方は嫌悪感を隠そうともせず、舌打ちをするとそう吐き捨てるように呟いた。

「上がダメだと下につく連中もダメになるんでしょうね」

「あ?」

その言葉にピクリと反応する旭川。

2人の間に不穏な空気が流れ始める中、柊はオロオロしながら両者を交互に見ることしか出来ない。

「あの連中は元々あなたの所にいたんだから今の発言はあなたがダメにしたって事でいいのよね?」

「アンタがそう思いたいならそれで良いんじゃない?」

「はあ!?何、その態度は?私が悪いとでも言いたいわけ!?」

「だから、そう思いたいならそれで良いんじゃない?」

激昂する旭川に対し、蟻塚はまったく動じることなく淡々と答える。

「1つ言っておきたいんだけど」

そう言って、蟻塚は冷たい視線を旭川に向ける。

「この子に手を出すのはやめてくれる?私ならいくらでも相手してあげるから」

「はぁ?散々柊南帆を虐めておいて今度はそっち側ってわけ?」

「そうよ。文句ある?」

平然とした態度で即答する蟻塚に旭川の表情がどんどん歪んでいく。

そんな2人のやり取りを見ていた柊は恐る恐る口を開いた。

「えっと……とりあえず落ち着こうよ……」

その言葉を聞いた瞬間、旭川はギリッと歯を食いしばり、怒りに満ちた表情で睨みつけてくる。

「おかしいでしょ!虐めた側と虐められた側が仲良くするなんて!周りから見たら異常でしかないわ!」

「だから何?」

「なっ……」

蟻塚は一切怯むことなく、むしろ堂々とした態度で聞き返す。

「もしかして心配してくれてんの?私たちが異常な目で見られるのを」

「ち、違……っ!」

図星だったのか、言い返す言葉が見つからない様子の旭川に蟻塚はさらに続ける。

「確かに異常だと私も思ってるわ。でもね、もう決めたの。この子の復讐に付き合うって。それこそ気が済むまでね」

そう言うと、蟻塚はチラリと柊を見る。その視線を受けた柊は少し恥ずかしそうに俯いてしまうが、すぐに顔を上げて蟻塚を見つめ返した。そんな柊の反応を見た蟻塚はフッと小さく笑う。

「私との約束は……破ったくせに」

「え?」

ぼそっと呟いた旭川の言葉に、蟻塚が眉をしかめる。

「約束って何のこと?」

「……っ!私とのデートをすっぽかして他の子と遊んでたじゃない!」

それを聞いた蟻塚は怪訝そうな表情を浮かべた後、小さく溜息を漏らした。

「それならもう謝ったでしょ。まだ怒ってたの?」

「当たり前でしょ!!こっちはずっと待ってたのに!!3時間も!!」

「だから、ごめんてば」

段々と語気を強めていく旭川とは対照的に蟻塚はあくまで冷静だ。しかし、それが逆に旭川を刺激してしまったのか、彼女は声を荒げながら訴えかけるように話す。

「なんで私だけこんな思いしないといけないのよ……!ふざけないでよ!自分だけ幸せになろうなんて虫が良すぎると思わないの!?」

「幸せ?」

「ええ、そうよ!好きな女と一緒にいられてさぞかし幸せなんでしょうね!」

「……私がいつ柊を好きになったのよ」

呆れ顔で呟く蟻塚だったが、彼女の言葉など耳に入っていない様子で旭川は続ける。

「私はこんなにあなたのことが好きなのに……!」

その言葉を聞いて、柊は思わず目を見開いてしまった。

(え……?)

動揺している柊を他所に、2人の会話は続いていく。

「前にも断らなかった?私は普通に男が好きだって」

「嘘つかないで!だってあなたは……!」

そこまで言うと、旭川はハッとした表情を浮かべて口を噤んだ。

「あなたは何?」

「な、何でもないわよ!とにかく、私は絶対に認めないから!」

そう言い残すと、旭川はその場から逃げるように立ち去っていった。

取り残された柊と蟻塚はしばらく無言の時間が続くが、やがて柊が口を開く。

「えっと……助けてくれて、ありがと」

「お礼なんかいらないわ。それよりも本当に良いの?」

「え?」

唐突に投げかけられた質問の意味が分からず首を傾げる柊に、蟻塚は続けて問いかける。

「私なんかと仲良くすれば今みたいな奴らがまた現れるかもしれないのよ?」

「……うん」

それはわかっているのだろう。柊は暗い表情のまま頷く。

それを見て、蟻塚は小さく息を吐いた後に言葉を続けた。

「私はあなたに散々酷いことをした。それでも友達になりたいって言うの?」

「……うん」

「そう」

短く返事をすると、蟻塚は柊に近づく。そしてそのまま彼女を抱きしめた。

突然のことに驚きながらも、柊はされるがままになっている。

しばらくして体を離すと、蟻塚は優しい口調で告げた。

「私のことは一生許さないでくれる?それくらいのことを私はしたんだから」

「……でも」

「でもじゃない。これは私の責任で償いだから。許さないって誓ってくれるなら良いわよ。友達でもなんでも」

「……。うん」

「ごめんなさい。そして、ありがと」


2


「くそ、くそ、くそ……っ!」

苛立ちを隠そうともせず、旭川は長い廊下を歩きながら悪態をつく。

「何かないの?蟻塚祐絵を泣かせる方法は!」

1人で叫んでみても、誰も答えてくれない。ただ虚しく声が響くだけだ。

「旭川文葉ぁ!」

突然背後から怒鳴り声が聞こえ、旭川は慌てて振り返る。そこには、先程柊を襲わせようとした3人の男たちが鋭い目で旭川を睨んでいた。

「な、何よ」

「お前のせいで蟻塚に弱みを握られちまったじゃねえか!どう責任とってくれるんだ!?」

「……っ、それはあなたたちが悪いでしょ!さっさとやってズラかれば良かったのに!私のせいじゃないわ!」

男たちの剣幕に気圧されながらも、旭川は必死に言い返す。だが男たちは聞く耳を持たないようだ。

「ふざけやがって!覚悟しろよ!」

「わ、私に手を出したら右京先輩が黙ってないわよ!」

咄嗟に思いついたことを叫ぶが、それでも男たちには通用しない。

「うるせえ!知ってんだぞ、お前が右京先輩に見向きもされてねえってことくらいはな!」

「なっ……!」

図星を突かれて思わず口ごもってしまう。その隙を突いて、1人が旭川に殴りかかった。

「ぐっ……」

殴られた衝撃で床に倒れ込む。起き上がろうとする間もなく、もう1人に腹を蹴られ、痛みで動けなくなる。

「ううっ……やめて……!」

悲痛な叫び声を上げる旭川だったが、男たちは容赦なく彼女を蹴り続けた。

(痛い……!苦しい……!誰か、誰か……!!)

心の中で助けを求めるも、それに応えてくれる者はいない。結局彼女は、そのまま気を失った。


3


「おい、動かなくなったけど死んでねえよな?」

「知らねえよ、そんなん。とりあえず運ぶぞ」

男たちは気絶した旭川を抱え上げると、彼女を別の場所へと移動させる。

次に目が覚めた時、旭川は薄暗い倉庫のような場所に閉じ込められていた。窓はなく、扉は外側から鍵がかかっているようだ。部屋の片隅に置かれた小さなテーブルの上には、水の入ったコップが置かれている。

「……どこなのよ、ここ」

痛む体を引きずりながら、なんとか立ち上がる。その時、扉の外から声が聞こえてきた。

「聞こえるか?旭川」

「え……?」

聞こえてきた声は、確かに聞き覚えのあるものだった。

「もしかして、矢渕なの?」

「ああ、そうだ。どうやら無事みたいだな」

「早くこの扉を開けて。あいつらを殺さないと気が済まない!」

怒りに任せてそう叫ぶが、矢渕の声は冷静だった。

「悪いが、まだお前を外に出すわけにはいかない」

「どうして!?まさか、あなたまで私を裏切るの!?」

信じられないといった様子で問い詰める旭川に対し、矢渕は静かに答える。

「そうだよ。いい加減鬱陶しくてな。お前のその自己中心的な性格にもうんざりしてたし」

「そ、そんな……」

ショックのあまり言葉を失う旭川を無視して、矢渕はさらに続ける。

「まあ、そのうち教師の連中が心配して探しに来るだろ。それまでじっとしてろ」

そう言い残して、矢渕の気配が消えた。残された旭川はしばらく呆然としていたが、やがて我に帰ると扉を激しく叩き始める。

「開けなさい!開けてよ!!」

ドンッ、ドンッと鈍い音が響き渡るが、扉が開く気配はない。

「なんで開かないのよ!私は悪くない、全部あいつが悪いんだからぁ!!」

半狂乱になりながら、何度も扉を叩く。

「うう……ぐすっ……」

やがて涙を流しながらその場に座り込む旭川。

「私は……悪くない」

自分に言い聞かせるように呟くが、その声は震えていた。

「悪くないんだから……」

泣きじゃくりながら、うわ言のように繰り返す。それからしばらくの間、彼女のすすり泣く声だけが響いていた。


4


「お前、何やってんだ?こんな場所で」

建屋外でふらふらしていた矢渕を見つけてオレはそれとなく呼び止める。

「もうすぐ集合時間だぞ?」

「あー、悪い悪い。今ちょっと体調不良気味でさ。俺のことは気にせず合宿最後の時間を楽しんできてよ」

矢渕は笑顔でそう答えるが、どことなく不気味なオーラを纏っていた。

これから何をするつもりなのか見当もつかないが、ここで見過ごす気もない。

一応、級長だしな。

「体調不良の奴がなんで外をぶらついてんだ」

「別にどこにいようが俺の勝手でしょ」

「何を企んでる?」

「さぁね」

あくまでもシラを切るつもりらしい。

だがその程度でオレが諦めると思ったら大間違いだ。

「今なら教師に報告せずに済ませてやるけど?」

「どうぞ。好きにしたら?」

「……そうか。なら好きにさせてもらう」

オレは静かに息を吐くと、矢渕を睨みつけた。

「鍵をよこせ」

「なんだよ、見てたのか。そう言ってくれればよかったのに。でも、残念。鍵は渡せないよ」

「嫌がらせにしては少しやりすぎなんじゃないか?」

「これくらいしなきゃ反省しないでしょ?ああいう人間になっちまった奴にはさ」

「反省?」

怪訝そうな顔で聞き返すオレに、矢渕はニヤリと笑ってみせた。

「そう。結城くんは知らないかもしれないけど旭川は他人を脅して従わせるのが好きな奴でさ。まあ、そういう人間は遠からず痛い目を見るのが決まってる。相手を選ばず敵を作り過ぎたんだよ、あいつは」

「お前もその敵の中の一人ってことか?」

「そうとも言えるし、そうとも言えない。俺は別に他の奴らと同じく殺したいほど旭川を憎んでるわけじゃないし。ただ、反省して更生してほしいだけだ。今のままのあいつだとろくな人生送れないだろうしさ」

「お前も大概人のこと言えないと思うけどな。何に感化されたのかは知らないけど真っ直ぐじゃない奴はとことん嫌うだろ」

「厳しいなぁ。俺はただ幸せになってほしいだけだよ。惚れた女にくらいはさ。今のアイツじゃなくて昔のアイツにだけど」

「……そうか」

矢渕の気持ちは分からなくもない。

分からなくもないが、オレにもオレなりの用件がある。

ここで引き下がるわけにはいかない。

「鍵をよこせ」

「いや、話聞いてた?あいつを反省させたいんだって」

「分かってるっての。その上で言ってんだ。大体、閉じ込めた程度で反省するような奴なのかよ。お前の惚れた女ってのは」

「……」

矢渕はしばらく黙り込み、視線をそらす。

どうやらそこまでの自信はないらしい。

だとしたら。

「反省でもなんでも後からにしてくれ。先にオレの用事を済ませたい」

「旭川に何の用事があるのさ?」

「謝罪させたいんだよ。柊と蟻塚に」

「……へぇ」

途端に興味深そうな視線を向けてくる矢渕。

この様子だと何か知ってそうだな。

「どこまで知ってんの?」

「お前に教える義理はない」

「つれないなぁ。教えてくれたっていいのに」

「鍵をくれたら教えてやるよ」

「やなこった。そんなにほしいなら力ずくで奪ってみなよ。出来ないだろうけど」

そう言って矢渕は鍵をポケットに入れると、臨戦態勢を取る。

「殴らせてやる代わりに鍵をくれって言ったら?」

「殴らずにそのまま消えるに決まってんじゃん。本気で謝らせる気ある?」

「チッ」

舌打ちをして、オレも拳を構える。

正直、殴り合いなんてする気はない。

そもそもオレは喧嘩慣れしていないし、相手が相手だ。

勝ち目がない勝負に挑むような馬鹿でもない。

だからこれはあくまでポーズに過ぎない。

オレが本気を出したら勝てるという意思表示をしているだけにすぎないのだ。

つまりはハッタリである。

しかし、それが通用するかどうかは別問題。

さて、どうなるか……。

「良いね。来なよ」

余裕綽々といった様子で手招きをする矢渕。

舐められてるなぁ、これ。

「言われなくても行ってやるよ!」

一気に距離を詰めて拳を突き出す。

だが、矢渕はそれをあっさりと避けて軽くあしらってくる。

その後も何度かパンチを繰り出すが全て空振りに終わり、次第に息が上がってくる。

対する矢渕は息一つ乱さず涼しい顔だ。

くそ、やっぱ強いなコイツ。

このままじゃ埒が明かない。

どうにかして隙を作らないと。

「遅いよ」

「っ!?」

一瞬のうちに背後を取られ、首に腕を回される。

やばい……!

慌てて振り払おうとするがもう遅い。

がっちりと固定されてしまい身動きが取れなくなってしまった。

「くそ……!」

「はい、捕まえたっと」

楽しそうな笑みを浮かべながら、ゆっくりと力を込めていく矢渕。

苦しい、息ができない……! 必死にもがくが拘束から逃れることはできない。

「こうしてると昔を思い出すよ。毎日結城くんを虐めてた頃をさ」

「そうかよ……それは、良かったな!」

踵を思いっきり矢渕の足の甲に振り下ろす。

流石に効いたらしく腕が緩んだので急いで距離を取った。

容赦なさすぎるだろ、こいつ。

咳き込みながら呼吸を整えていると、矢渕が急に笑い出して言った。

「いやぁ、流石に学んでたか。でも、それだけじゃ足りないんだよなぁ」

「はぁ、はぁ……」

息を整えながら睨みつけるオレを見てさらに笑う矢渕。

悔しいが、今のオレに出来ることはこれしかないのだ。

「ほら、もっと来なよ。頑張んないと俺を倒して鍵を取ろうなんて到底無理だよ?」

「……そうかもな。まあ、必要なくなったけど」

「は?」

きょとんとした表情を浮かべる矢渕をよそに、オレは見せつけるように鍵をちらつかせた。

それを見た途端、矢渕の表情が一変する。

「な……っ!?」

「迂闊に近付いたのは失敗だったな」

勝ち誇った顔でそう言うオレだったが、内心はかなり焦っていた。

何故なら今この瞬間まで殴り合うことなく鍵を奪う方法を思いついていなかったからだ。

いや、正確には思いついたには思いついたのだがリスクが高いため実行しなかったというのが正しいか。

「なるほど。動きが悪かったのはわざと拘束される為だったってことか」

「……そういうことにしておいてくれ」

「まあ、良いさ。奪われたんなら奪い返せば」

「おいおい、あんなに自信満々だったのに鍵を奪われた挙句負けを認めずに続けるつもりか?それって真っ直ぐって言えんのかよ?ちょっとダサくねーか?」

「……言うじゃん。まあ、その通りかもね」

意外にもあっさり認めたことに素直に驚く。

てっきり意地になって挑んでくると思っていたから拍子抜けだ。

「良いのかよ」

「殴り合っても結果は見えてるしね。それより結城くんの勇姿に免じて今回は引いてあげる」

「反省はどうすんだよ」

「なんでそんなこと聞くのさ。結城くんは人の心配し過ぎ。他人のことまで不安がってたらキリないよ?もっと自分の周りのことだけ考えなって」

そう言って矢渕は再び笑みを浮かべると、ひらひらと手を振って去っていった。

「勝手なお世話だっつーの」

一人残されたオレは小さく悪態をつくと、倉庫へと向かったのだった。


5


「お?級長じゃん。やほ〜」

鍵を手に入れて倉庫に辿り着いたオレを待っていたのはいつもの調子で手を振る橘だった。

「お前も何やってんだ?こんな場所で」

「何って言われてもな〜。倉庫に女の子が閉じ込められちゃったみたいでね?それをウチが助けてたんだよん」

「……鍵は?」

「あるよ?じゃじゃーん。スペアキー」

ポケットから取り出した鍵を自慢げに見せびらかしてくる。

倉庫も実際に開いているし、どうやら本物らしい。

「なんでお前がそれを持ってんだ?」

「いや〜、これには深い事情があってさ。手っ取り早く説明するとこの鍵ウチのものなの」

「は?その小さい南京錠みたいな奴がか?」

「そそ。いくら同じ部屋にいる人がクラスメイトと言えど自分の私物は自分で守らなきゃでしょ?」

確かにそれなら納得は出来る。

出来るが。

「オレには別の使い方をしてるようにしか見えないけどな」

「そこはほら。ヤブチャンが言ってなかった?幼馴染を更生させたいだかなんだかって。協力してあげたんだよん。友達として」

「……旭川は?」

「残念だけどもう行かせちゃった。誰かさんがウチらの計画邪魔してくれたおかげでね。急いで交換条件提示して解放する羽目にはなったけど。まあ、安心して。ちゃんとナホチとユエチには謝るよう言っておいたから」

得意げにウインクをする橘にオレはなんとも言えない気持ちになる。

橘は橘なりに考えて行動したんだろう。それが正しいかどうかは置いておいて。

「丁度ウチの為に働いてくれる『友達』も欲しかったところだし、一石二鳥って感じかな?結果オーライってやつだね〜」

「……そうか」

「あれ?もしかして怒っちゃった感じ?……ごめん。確かにちょっとやりすぎだったも」

「別に怒ってはねえよ。ただ、一つだけ聞かせてくれないか?」

「うん、いいよ。なに?」

「お前は……何がしたいんだ?」

オレがそう尋ねると、橘はキョトンとした顔で首を傾げ、やがてニコッと笑った。

「ウチは恩返しがしたいだけだよん。つまんない日々を楽しませてくれる友達にね。それ以外はどうでもいい」

まるで子供のような無邪気な笑顔。

そこに悪意なんてものは微塵も感じられない。

だから余計にタチが悪く見えるのだろう。

橘の行動原理は単純明快で、とても分かりやすいものだ。

だからこそ、危うい。

橘もきっと分かっているはずだろう。

そこにあるのは決して平坦な道ではなく、むしろ崖っぷちを歩いているようなものだという事を。

でも、それでも彼女は歩みを止めないのだろう。

例えその先に待つものが破滅だとしても、彼女はきっと笑って受け入れる。

そんな気がした。

「そろそろ時間じゃない?ナホチも心配してるかもだし早く行こ?」

そう言って先に施設へ戻ろうと歩き出す橘。

ここで今オレがどうこう言ったところで橘の気持ちは変わらないだろうし、今更何かが変わるとも思えないが、ただ一つ言える事があるとすればそれはーー

「何でも自分の思い通りになると思ったら大間違いだぞ?」

オレの呟きが聞こえたのか、橘の足が止まる。

そしてゆっくりと振り返ったその顔は不気味な程に笑っていた。

「その台詞はウチに勝ってから言って欲しいな〜。級長は休んでなよ。後は全部ウチが上手くやっておくからさ〜」

それだけ言うと橘は再び歩き出し、あっという間に見えなくなった。

「全く、どいつもこいつも……」

残されたオレは一人ため息を吐くのだった。


6


「あっという間だったね。オリエンテーション合宿」

学校へと帰るバスの中でたまたま隣になった柊がそんなことを言った。

「復讐は出来たか?」

「復讐……?」

何のことだかさっぱりといった様子の柊にオレは笑う。

「蟻塚とは仲良くなれたか?」

「……。うん」

「そっか」

何か含みのある間だったが、特に気にすることもないだろう。

蟻塚は蟻塚で今は橘にウザ絡みされているようだが。

オレからオリエンテーション合宿のグループに誘ったとは言え、結局あいつのことは分からずじまいだった。

大抵の奴は理解出来るほどの自信はあったんだけどな。

「湊斗くんは……楽しかった?」

「まあまあだな。楽しいってよりは結構気が気じゃないことが多すぎた」

「ごめんなさい……」

「柊は悪くないだろ。ただオレが優しすぎただけだ」

「そう、かな?」

「そうだよ」

オレの返答を聞いても尚納得いかないのか首を傾げる柊。

ホント自責の念が強いよな。

オレと一緒で。

「仲直りは……出来たの?」

「ん?仲直り?」

「矢渕さんと」

そう言われてオレは目をパチクリとさせる。

そして思わず笑ってしまった。

「いや、仲直りも何も元々あいつとは仲良くなんてなかったし」

「そうなの?」

「ああ。互いに啀み合ってるだけの間柄だからな」

だから今回のことで関係が悪化したわけでもないし、良くなったわけでもない。

良くも悪くも平行線。

喧嘩するほど仲が良いなんて言葉があるせいで勘違いしているのかもしれないが、オレとあいつは本当にただのクラスメイトでしかないのだ。

「……。ありがと」

「なんだ?どうした急に」

突然のお礼の言葉に動揺するオレに、柊は微笑んだまま言う。

「ううん。なんでもない」

「はぁ?」

その笑顔を見て、なんだか無性に恥ずかしくなったオレは顔を窓の方に向け、バスの外の景色を眺めた。

バスがカーブを曲がる度に、オレの体も揺れる。

この振動に身を任せて寝てしまおうかと思った矢先。

「そこのお二人さん。イチャイチャしてないで大富豪でもいかがかな〜?」

オレたちを茶化すようにそう言ってきたのは、さっきまで蟻塚と絡んでいたはずの橘だった。

ニヤニヤしながらカードを見せびらかしてくる彼女に、オレも柊も呆れ顔で返す。

「やらねーよ」

「ごめんね」

「えー!?なんでさ!?」

ブーブー文句を垂れる蟻塚に、オレはため息混じりに言った。

「疲れたんだ。寝かせてくれ」

「私もちょっと眠いから……」

「え〜!ケチ〜」

頬を膨らませながら拗ねる蟻塚を横目に、オレはゆっくりと目を閉じた。

こうしてオリエンテーション合宿は幕を閉じたのだった。


7


オリエンテーション合宿を終え、それぞれの生徒が帰路に着く中、橘風佳はとある人物と待ち合わせをしていた。

「待たせたわね」

橘を見つけた織笠は開口一番にそう言うと、ベンチに座る橘の横に腰を掛けてカバンを抱え込む。

「全然全然。ウチも今来たとこだよん」

「早めに済ませましょ。もういい時間だし」

すっかり辺りは暗くなり、空には星々が瞬いている。

「それで?あの優男はどうだったの?」

「まあ、簡潔に言えば……大したことない男の子だったかな」

「というと?」

「オリチが目くじら立てるほどの相手じゃないってこと。その辺にいくらでもいるような普通で真面目な男子生徒だよ」

「あの見た目で?複数の女をはべらせてたりは?」

「全く。元々が陽キャとは真逆の男の子だったみたいだし、そういう複数の女の子と関係を持つみたいなのは軽蔑してそうではあるよね」

「……」

「おやおや?なんか納得いかない感じ?」

「別に、そんなんじゃないわ」

「ふ〜ん」

橘は含みのある笑みを浮かべると、立ち上がって数歩前に進み、クルリと回って振り返る。

「まあ、オリチが気に入らないって言うならそれでも良いんじゃない?直接確かめてみたら良いよ。普通にヘンテコで面白い人だからさ」

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