第9話 ユリア先生の家がこんな所に
「あ……」
「…………」
夜中になり、拓雄が近くのコンビニに買い物に行くと、店の前でユリアにバッタリ会う。
仕事帰りなのか、ユリアはスーツ姿で拓雄の事をジーっと見つめていた。
「こんばんは、ユリア先生」
「こんばんは。ここで何をやっているの?」
「その、シャーペンの芯がなくなったので、買いに……」
「そう」
彼女の淡々とした冷たい視線で見つめられながら、ぎこちない口調でそう答える。
毎日、顔を合わせているとは言え、ユリアの透き通るような目で見られると、どうしても緊張してしまい、少しだけ居心地が悪い気分になってしまっていた。
何故、ユリアがこんな所に……と、訝しげに思っていたが、話すこともないので、
「あの、それじゃ……」
「待って」
「はい?」
店内に入ろうとすると、ユリアに呼び止められ、
「悪いけど、ちょっと近くまで送ってくれない? 最近、この辺で痴漢が良く出るってうわさを聞いたから、先生、とっても怖いの」
「は、はい! 良いですよ。えっと、少し待って下さい」
思いも寄らぬ事をユリアに頼まれたが、そう言う事ならと拓雄も了承し、急いで買い物を済ませて、ユリアを送る事にする。
痴漢が出るなどと言う話は、拓雄は聞いた事もなかったが、夜道をユリアの様な女性を一人で歩かせるのは危険だと思ったので、拓雄も言い聞かせていた。
「…………」
夜道の中を、ユリアと並んで黙って歩いていく拓雄。
微妙に気まずい空気にはなっていたが、拓雄も何を話して良いのかよくわからず、ただユリアの顔を時折、見ながら彼女に付いて行ったのであった。
(先生、この近くに住んでいるのかな?)
最近、登校中もよく会うので、もしかしたらと思ったが、彼女の家を知ったからと言って、どうにかなる訳でもないと思ったので、わざわざ聞く事もしないまま、拓雄の家の前まで来てしまった。
「拓雄君」
「は、はい」
「ありがとう。この辺で良いわ」
「え? 先生の家って……」
「近くなの」
「そうなんですか? 実は僕の家も……」
「ふーん。この近くなんだ」
と、ユリアに言われて驚いてしまい、自分の家も近くだと告げると、ユリアも全く関心なさそうな顔をして、そう返事する。
やっぱり、自分の家の近くに住んでいたのかと思ったが、一体、どのあたりに住んでいるのか興味が湧いて来たので、ユリアには悪いが、彼女の後を付けてみる事にした。
「それじゃ、また」
「あ、はい。気をつけて」
ユリアがそう言って去っていったので、拓雄も彼女を見送りながら、手を軽く振る。
「えっ?」
だが、彼女が向かった先を見て思わず声を張り上げる。
ユリアの家は、拓雄の自宅のすぐ向かい側にある最近出来たばかりのアパートで、一瞬、目を疑ってしまっていたが、階段を上がって二階の部屋に入っていくのが見えたので、こんな家のすぐ近くに住んでいたのかと、驚くと同時に今まで、こんな近くに住んでいたら、ユリアに常に自分が監視されてるのではと、勘ぐってしまっていた。
翌朝――
「おはよう、拓雄君」
「お、おはようございます……」
家を出ると、すぐユリアと鉢合わせし、ユリアに挨拶すると、彼女もすぐに挨拶を返す。
まさか、自分の家のすぐ前に住んでいるとは思わなかったので、ユリアの
「あの、先生。先生の家って……」
「そこのアパートよ。今まで、気付かなかったの?」
「そ、そうなんですか。最近、良く会うなって思ったんですけど。僕の家もそこなんです」
「知ってる。家に入るの見た事あるから」
やはり、ユリアは自分の家の場所も知っていたのかと思っていたが、それにしても何時の間にこんな近くに住んでいたのかと、首をかしげていると、
「あの、いつからあのアパートに?」
「先月、越してきたばかり」
「そうだったんですか。あの、どうしてここに……」
「偶然よ」
「は?」
「あなたの家の近くに越してきたのは偶然。運命の悪戯みたいな物だから」
「は、はい。ですよね、はは……」
まさか、自分を追いかけて引っ越してきた訳はないと言い聞かせながらも、こんな偶然があるものかと拓雄も疑問に思っていたが、わざわざ自分を追いかけて、近くに引っ越してきたとも考えられなかったので、彼自身偶然と言い聞かせていく。
だが、偶然とは言え、ユリアがこんな近くに住んでいると知ったら、彼女の事を学校でも余計に意識してしまう事になり、益々、気が休まらなくなると感じていたのであった。
「はい、今日は木彫りの彫刻を作りたいと思います。皆さん、彫刻刀は持ってきましたね?」
美術の時間になり、担当の彩子がそう言って、木彫りに使う板を配り、まずは板に模様を描いていく。
拓雄は山に虹かかっている風景を板に描いた後、彫刻刀で線に沿って彫っていった。
「何かあったら、遠慮なく質問してくださいねー」
そう言いながら、彩子は室内を巡回し、彫刻に勤しむ生徒たちの様子を見て回る。
刃物を使っているので、彩子も今回はサボっていたり、彫刻刀を危なく使っている場合を覗いて、基本的に自分からは声をかけず、質問があったら答える事にしたので、生徒達の作業を一人ひとり黙って覗きながら、室内を回っていった。
「ふふ……」
「…………」
一生懸命、板を彫っている拓雄を微笑みながら眺め、拓雄も彩子の視線を感じながら、自分が書いた絵に沿って彫刻を進めていく。
彩子は声こそかけなかったが、拓雄の周りをよく歩いており、彼が懸命に彫刻をしている様子をうっとりとした目で眺めていた。
「あ、いたっ!」
「どうしたのっ!?」
「あの、手を……」
彩子の視線が気になってしまったせいで、うっかり彫刻刀で抑えていた左手の指を切ってしまい、慌てて彩子が拓雄の下に向かう。
「ああ、大変! 血が……あ、絆創膏、準備室にあるから付いて来て」
「は、はい……」
持ってきていたポケットティッシュを使って、血が出ていた指を抑えながら、彩子の後に付いて、準備室へと入っていく。
思いの外、出血が多かったので、早く絆創膏を貼って止血しないとと言う一心で、彩子の懐に飛び込んでしまった。
「ちょっと傷を見せて」
「はい」
「まあ、大変……結構、血が出てるわね……んっ、はむ……」
「っ!」
準備室に入り、彩子が彫刻刀で切ってしまった拓雄の指を口に咥える。
ただ絆創膏を貰いに来ただけだったのに、まさかこんな事をされるとは思わず驚いて声を張り上げそうになるが、彩子は止血目的とは思えない程、執拗に彼の指を吸引して、拓雄も顔が真っ赤になっていった。
「んっ、ちゅっ、んちゅ……」
唾液と舌の粘膜が指と絡み合う度に、拓雄もぶるっと体が震えてしまい、指を切ってしまった先だけではなく、かなり指の根元まで口に含んで吸い付いていき、明らかに過剰な彩子の応急処置に、困惑しながらも、身を委ねるしかなかった。
「ちゅっ、んちゅ……ちゅっ、はあっ! ああ……やっと血が止まったかしら……はい、絆創膏。良かったら、もう一枚、予備に持っていって」
「は……はい……」
彩子に指を吸われ、身も心も蕩けそうになっていた拓雄は朦朧としながら、やっと指を開放した彩子に傷口を絆創膏に貼られ、一枚予備で渡された絆創膏を胸ポケットにしまう。
拓雄が怪我をしてしまった事は心配ではあったが、こうして彼の体に密着出来た事にしてやったりとした気分にも彩子はなっており、
「ユリア先生の家……」
夜中になり、二階の自分の部屋の窓から、ユリアの住んでいるアパートを眺める。
彼女の自宅らしき部屋はまだ灯りが点いてなかったので、帰宅してない様であったが、ここからだと本当に自分の部屋の事も見えてしまう距離であり、ユリアはいつも自分の様子をここから眺めていたのかと思っていた。
「ん? あれは……」
アパートの前にタクシーが止まり、その車の後部座席から、ユリアらしき女性が出て来た。
今日はタクシーで帰宅したのかと思ったら、そのタクシーからもう二人、見知った女性が出て来たので、
「もしかして……」
ユリアと一緒に出て来たのは彩子とすみれであり、アパートの前でしばらく三人で話し合っていた。
「え?」
そして、下に居たユリアと目が合ってしまい、彼女が指でこっちに来いと手招きしたので、拓雄も慌てて一階に降り、彼女達の元へと向かっていった。
「ふふ、そうなんだ……あっ! あれ、拓雄君?」
「ど、どうも……」
三人の下へ行くと、彩子が拓雄を見て驚いた顔をし、拓雄も恐る恐る一礼する。
「おお、拓雄じゃない。何やってるのよ、こんな所で」
「実は彼の家はここなの」
「え? まあ、そうだったのね。ユリアちゃんの家のすぐ前じゃない」
「あー、そう言えば、あんたの家、この辺だったわね。くす、こんな美人の先生がすぐ近くに居るなんて、あんたもラッキーじゃん」
と、彩子とすみれが拓雄にそう言うが、二人ともユリアが拓雄の家の前に住んでいる事はとっくに知っており、あまりにも白々しかったが、拓雄はそんな事は知らず、ただ愛想笑いして相槌を打つばかりであった。
「今夜はこれから、ユリア先生の家で一杯やる所なの。拓雄も来るー?」
「え、遠慮しておきます」
「むうう……先生も、拓雄君にお酌してもらいたいなあ」
「飲み会の席に生徒を同席させたら、問題になるから止めて。一応、ついでだから、二人にも拓雄君の家の近くに住んでるって事は知ってもらいたくて。挨拶させたわ」
「良いなあ、私もここに引っ越そうかしら?」
彩子が心底羨ましそうに言い、彼女も拓雄の家の近くに引っ越す事も考えたが、車を買ったばかりで、引越しの費用がまだ捻出出来なかったので、今は断念せざるを得なかったのだ。
「空きが出来たら考えれば良い。じゃあ、また明日」
「間違っても乱入するんじゃないわよ」
「しませんよ!」
「くす、悪いけど、今日の事は誰にも言うんじゃないわよ。あと、ユリア先生が近くに住んでいる事も内密に。住んでる場所が知られると、ファンが押しかけるかもしれないからね」
「は、はい」
と、すみれが拓雄にそう釘を刺し、彼も三人の元を去っていく。
「あーあ、拓雄君も一緒が良かったのにい」
「くす、仕方ないわ。でも、ここから拓雄の様子を一晩、じっくり観察してやりましょう。きっと、ウチらの事も気になってるに違いないわ」
すみれと彩子が去っていく拓雄を見てそう言い、三人でユリアの部屋に入っていく。
ここはユリアの家と同時に、三人が拓雄を監視するための基地にもなっており、ユリアだけではなく彩子とすみれも定期的に出入りして、拓雄の様子を覗き、チャンスを伺っていたのだが、彼はそんな事はまだ知らなかったのであった。
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