ええ

壱原 一

 

早朝散歩に耽った時期がありました。自宅玄関の鍵を与えられたからです。


部活動を始めたり、習い事を増やしたりして、家を出入りする機会が変則的に多様化した故の措置でした。


思えばその分あたらしい規則や人間関係に直面していたので、無意識に息抜きを求めていたのかも知れません。


日の出の早い季節でした。午前3時頃に起き出し、親の目を忍んで散歩へ出掛けていました。


自宅は跨線橋の袂にありました。鉄道路線を跨ぐ橋の出入口の傍です。


自宅は小道に面しており、小道の向こうに跨線橋が横たわります。橋はなだらかな四車線で、両端が歩行者用の通路でした。


橋を越えると十字路に至ります。十字路を直進した先にコンビニエンスストアがあって、近辺で唯一24時間営業していました。


橋の歩行者用通路を経て、コンビニへ行って帰ってくるのが定番の散歩道でした。


*


朝霧の濃い日でした。外は薄明るく、少し青っぽい色をしていました。


大気は湿ってひんやりと重く、それでいて緩やかに流動しています。あちらで薄まって透けて見え、こちらに溜まって沈んで隠れ、紙漉きの溶液に浸かっているかのようでした。


聞こえるのは懸命な虫の声ばかりです。不意に通過する車両のヘッドライトや、項垂れる道路照明灯、縁石や錆びた欄干、僅かな草やごみなどが、霧中に見えたり隠れたりします。


何とも夢現で、浮遊感があり、高揚と心許無さが綯い交ぜの気分です。


そんな気分でしたから、橋の天辺へ近付いて、行く手にコンビニを認めると、濃霧の海上で灯台の明かりを見付けたような安心感を覚えました。


同時に霧が蟠っているのか、コンビニの上に何か乗っているように見えました。


*


コンビニへ向かって橋を下ります。りーりーと虫が鳴き、十字路の信号機が点滅しています。


鮮やかな色の点滅も、コンビニの上の物陰も、多めに綿を被せたり少し除いたりする風に、ぼやけたりはっきりしたりします。


コンビニは、大型自動車を複数台収容できる、広い駐車場を備えています。


角皿へ据えた豆腐のように、駐車場のコンクリートの上で、四角い店舗が白々と輝いていました。


店舗の上の物陰は、店舗を覆うくらい巨大です。


色は白っぽく、太く、曲線的。


霧の滞留ではなさそうです。催し物のバルーンか、工事現場用の防音シートか。


そう遠くない所に、住宅展示場やホームセンターがあります。あるいはそうした商業施設の大掛かりな展示物とも思われます。


訝しんでコンビニを凝視し、あれこれ考えながら進みます。


果たして橋を下り終え、十字路を前にします。


物陰はどうも生き物の形をしていました。


*


大きな牛に近い生き物でした。真っ白く滑らかで、少してらてらしたぬめりのある体表をしています。


まるで重量がない風情で、畳んだ前足を店舗に乗せています。脇息に寛ぐ貴人のように横座り、しんなり首を撓垂れさせて、悠然と息衝いていました。


十字路を直進して、コンビニの駐車場の手前で、しげしげと生き物を見上げます。


太い首の先に、人の頭がありました。長い髪を垂らし、ほっそりした下がり眉で、物憂げに目蓋を伏せ、線を引いたような唇を恨めしそうに噤んでいます。


夢を見ているのかと思いました。


店内のレジで店員が俯き、手元で作業しています。隣の四車線道路を、トラックが勢い良く走って行きます。


恐れ知らずで好奇心一杯の年頃だったので、興味を引かれるままにじろじろ見ていました。


口が開いていたかも知れません。


生き物は視線を察知したかのように、徐に少し身動ぎます。


それからのんびりこちらを向いて、「ええ」と静かに嘆息しました。


*


高い男声のようでも、低い女声のようでもありました。


安堵のような、諦めのような、はたまた深い悲しみのような、力の抜けた声でした。


ええ…


ええ…


生き物はゆっくり言いながら重たげに頭を動かして、コンビニの店舗の屋上から、何か咥えて下ろしました。


ええ…


足元へ置かれたのは、苔生した白い布袋でした。


朝霧にぐっしょりと濡れて、泥を吸い、深い緑色に汚れた布袋。


油性ペンで番号を書かれた、給食着の袋でした。


*


持ち上げて生き物を窺いました。生き物はこちらを向いたまま少しも動きませんでした。


振り返り戻る道すがら、ずっとこちらを向いていました。


陽が昇り起き出した親へ、鴉が引っ張り落としたと述べて託しました。


*


先日なくしたばかりなのに悪びれなく笑うから、言葉も荒くなったとか。


必ず見付けてきなさいときつく叱られて跳び出したあと、行方が分からなくなっていたそうです。


その日に限って冒険したのか、普段の経路を著しく逸れていたのが見付からなかった原因でした。


帰路で持ち物を振り回して遊ぶ、快活な悪戯っ子だったので、見失った放物線の着地点に目星を付け、自分で登ったろうとのことでした。


後頭部を打った痕があり、炎天下で意識を失って倒れたままになったようです。


階段の上へ隠れて、そのように聞いていました。


察して余りある様子で親が言葉を掛ける度、くぐもった声が応じます。


ええ…


ええ…


安堵のような、諦めのような、はたまた深い悲しみのような。色々なものが混ざったような、力の抜けた声でした。


延々とお説教されて、新たな環境にも慣れてきて、早朝散歩は廃れました。


生き物はあれきり見ませんでした。



終.

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ええ 壱原 一 @Hajime1HARA

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