葛織

日向寺皐月

葛織

 宵闇を煌々と照らす屋台の灯り。行き交う人々の流れに乗って運ばれる、焼けた醤油や砂糖の混ざる夏の匂いが鼻腔を擽る。納涼まつりとは名ばかりで、人々の熱気と夏の暑さが肌を包む。

 その中に、僕は居た。そして、"彼女"も居たのだ。だが。

 祭が終わるその間際、彼女は僕の前から居なくなった。




「よぉ、久し振り。元気そうじゃねぇか」

「お前らもな」

 駅から出ると、高校以来の友人達と夏の突き刺さる日差しが出迎えてくれた。大学や就職の為にバラバラになり、コロナ禍が襲来。オンラインで顔を合わせる事はあれど、実際に会うのは四年ぶりだ。

「いや、マジで久し振りだな本当。お前等も祭も」

 僕はそう言い、友人の車へ乗り込む。昔はフェラーリに乗るなんて息巻いていたが、今では家族の為にワンボックスのオーナーだ。何と言うか、時の流れを感じる。

 今日、掛川に帰って来たのは単に友人達と会うからだけでは無い。今日は掛川の納涼まつりなのだ。

 そう、彼女の消えた納涼まつりである。

「納涼まつり自体は去年もあったぜ。まぁ、何処かの誰かさんは来なかったけど」

「うるせぇ。仕方無いだろ、実験が立て込んでたんだから」

「それよりも、だ。お前ら覚えてるか?納涼まつりと言えば……」

「あぁ、コイツの"彼女"事件だろ?」

 僕の家に向かう道すがら。友人の一人がそう言い、懐かしい話だと続けた。

 彼女事件。それは、僕の彼女が居なくなった六年前の事件だ。当時高校二年だった僕は、彼女と納涼まつりでデートをした。しかし、彼女はその祭を最後に失踪。しかも。

「お前、彼女なんか居なかったのに『彼女が居なくなった!』って言うんだからな。そりゃ最初から居ないだろうよ」

 誰も彼女の事を覚えていないのだ。それ所か、卒業アルバムや写真にも残っていない。まるで存在していなかったかの様に。

 彼女と出会ったのは、高校一年の時。確か……同じクラスだった筈だ。そして色々あって、付き合う事になったのである。

 それで……そう、六年前のあの日。夏祭りデートと浮かれた僕の前に現れた彼女は、彼女は…………

「おいおい、何ぼんやりしてるんだよ。取り敢えず帰っておばさん達に会って来い。そっちも久々なんだろ?」

「まぁ、うん」

「じゃあ、後でまた迎えに行くからな」

 その言葉を背に、車を降りる。再び襲い来る夏の暑さに辟易しつつ、懐かしの我が家へと僕は入って行った。


 久々の自室は、半ば物置と化していた。古びたエアコンからは、埃と若干の黴の匂いが微妙に冷たい空気と共にやって来る。しかしベッドと机だけは掃除されていて、「頑張って発掘した」と言う母の言葉は嘘では無いらしい。

 雑多な荷物の先にある本棚には、引っ越しの際に持って行く事が出来無かった本が埃を被っている。久々に読んでみるかと手を伸ばすが、手前の荷物が邪魔で届かない。仕方無いので一つづつ横へと退かし、何とか本棚への通路を確保した。

 と、そんな本棚の下の段。そこに見覚えのある様な無い様な、薄緑の葛織の小銭入れが落ちていた。

「……何だこれ」

 拾い上げると、中身は空なのか随分と軽い。しかし僕はこんな良い財布を使った記憶は無い。一体誰のものだろうか。そう思い、口金を開けた。その瞬間。

 僕の中に、記憶の波が襲い掛かって来た。それは紛れも無く、居なくなった"彼女"との日々。あの祭の日。そして――

「…………思い出した」

 彼女が最後に残した言葉を。たった一言を。


「私を忘れないで」




「ねぇ、紫鏡って知ってる?」

「紫鏡?」

 あの日。焼きそばの屋台に並ぶ僕へ、彼女はそう聞いてきた。薄青の下地に紫の桔梗が描かれた浴衣を着、近くの出店で買った安い扇子を仰ぐ彼女は、夏の暑さとは何処か無縁な涼しさを纏っている。

「何か聞いた事あるな。あれだっけ。二十歳になるまでにその言葉を忘れないと死ぬって」

「そうそう。よく知ってるじゃん」

 でも変な話だよね。そう彼女は言い、扇子を閉じて手首をトントンと叩く。

「だってさ、名前を覚えてるだけで死んじゃうんだよ?それが何かする訳じゃあ無いのにさ」

「んまぁ……そりゃ、そう言う呪いなんだろ」

「そう言うものかなぁ……」

 何だか納得がいかない表情を見せる彼女。と、僕の順番が来た。注文を済ませて財布を出す。

「あ、しまった。小銭が……」

「はい、これ」

 不意に目の前に差し出された、葛織の小銭入れ。見れば彼女が、持っていた小物入れから出したらしい。

「奢られっぱなしは性に合わないし」

「うぉ、サンキュ」

 口金を開くと、丁度ピッタリの小銭が出て来た。それで支払いを終え、彼女に小銭入れと焼きそばを渡そうと見渡した。しかし。

「あれ……?」

 先程まで後ろに居た筈の彼女の姿が見えない。普段より何割も増した人々が、まるで動く壁の様に流れて行く。濁流の如き人混みに、僕は唯一人残されてしまった。

「お待たせ……って、あれ?」

 呆然と立ち尽くしていると、背後から彼女の声が。振り返ると、水滴の滴るジュースのボトルを持った彼女が、少し驚いた顔で僕を見ている。

「どしたの。そんな顔して」

「いや、うん…」

 僕は若干気恥ずかしくなり、口籠る。と、彼女はそんな僕の首元にボトルをえいと押し付けた。ヒヤリとした感覚が全身を駆け巡る。

「ちょあ!」

「もー、暗い顔しないの。折角のお祭りなんだからさ」

 彼女はそう言って、悪戯っ子の様な笑顔を見せた。それから、僕の手を取って祭を進む。ボトルを持っていたからか、随分ひんやりとした白く細い指が僕の手に絡む。

 そして、そのまま祭の終わりまで楽しんで――家への帰り道、別れる間際に彼女は言ったのだ。「私を忘れないで」と。




 どうして。どうして忘れていたのだろう。こんなにも大事な事を。大切な約束を。

 あの時の彼女の手を思い出し、小銭入れを握り締める。

「忘れてないよ」

「忘れてないなら、早く支度しなさい!みんな来てるよ!!」

 そんな母の言葉が、僕の耳を打った。そうだ。今から祭に行くのだ。それを思い出し、慌てて持って行く物をポケットへ仕舞う。そして階段を降りて行った。


 歩いて十分程すると、風に乗せて祭の匂いがやって来る。同時に人の数が増え、祭が近いと知らせてくれる。

「この辺りがこんなに賑やかになるのは久々だな。やっぱり祭は良いや」

「お前奥さんから貰った小遣い使い切るなよ。また怒られるぞ」

 友人達は口々にそんな会話をし、祭の人の流れに乗って進む。ソースの焼ける匂いと甘い砂糖の香り。アルコールと共に僅かに臭うのは、発電機のエンジンのガソリンか。それらが纏まって暴力の様に襲い掛かる。行き交う人々は皆汗をかきながらも、暑さを忘れた様に楽しげな表情を浮かべていた。

「久々だからさ、僕に奢らせろよ。飲めるだろ?ビール」

「マジで?助かるわ」

「行ける行ける、全然行ける」

 折角の祭だし、久々の友人達だ。その位はしなければ。近場にあった牛串屋に人数分のビールを注文し、ポケットに入れた財布を取り出す。と、先程の葛織の小銭入れが引っ掛かって地面に落ちた。

 持って来たつもりは無かったが、慌てた為に間違えたのだろう。そう思って拾おうとすると、不意に友人の一人が口を開いた。

「なんだお前、まだそれ持ってたのかよ」

「……え?」

 驚く僕に、他の友人達もそれに同意する。

「うわ懐かし。変な出店で買った奴だろ」

「それこそ彼女事件の時だろ」

「いや、これは彼女から貰った――」

 僕がそう言うと、全員首を横に振る。

「まだそんな事言うのかよ。そもそもお前、あの日も俺達と一緒に納涼まつりに来たんだろ。で、怪しげなジジイの店でそれ買ってから、不意に『彼女と遊ぶからここまで』とか言い出して、勝手に居なくなっただろ」

「うん。で、お前の彼女を見てやろうと思ったら一人で祭を歩き回っててさ。んで次の日に『彼女が居なくなった』って騒ぎだろ?幾ら見栄張りたくても、そんな無茶な話しなくてもいいだろ」

「いや、そんな、まさか」

 そんな筈は無い。記憶は確かにある。だと言うのに、何故か友人達の言葉も真実の様に聞こえる。一体どういう――

 そう思った瞬間。小銭入れの口金が勝手に開いた。


 気付くと、周囲に誰も居ない祭会場に立っていた。否。唯一人だけ、ゆっくりと近付いて来る。

 薄青の下地に紫の桔梗が描かれた浴衣。見覚えのある扇子。そう、"彼女"だ。

「ちゃんと覚えててくれたんだ。嬉しいな」

 悪戯っ子の様な、愛らしい笑み。しかし今は、背筋が凍り付く様な感覚に襲われる。蛇に睨まれた蛙の気持ちだ。

「覚えてる?紫鏡の話。二十歳まで覚えて居たら死んでしまう呪い。私はそれなの」

 覚えててくれたら、君を食べる事が出来る。そう彼女は楽しげに言って、ニコリと口を歪めた。

 そうか。つまり、最初から彼女との記憶は全て「嘘」だったのだ。だから誰の記憶にも無いし、卒アルや写真にも残っていない。それはそうだ。存在しないのだから。

「じゃあ、戴きます」

 あぁ、食べられてしまう。そんな恐怖は、瞬時に僕を支配した。でも、それも良いかも知れない。そんな事さえ思えてしまう程に、彼女は美しくて――


「――おい!しっかりしろ!!」


 バキッ




「まさか、ビール一杯で寝ちゃうとは。アンタ酒弱過ぎじゃない?」

 酒で死んだ伯父さんとは大違いね。母はそう言って、僕の前にしじみ汁を置いて部屋を出た。

 だが、実際はそうでは無い。友人達が家まで運んでくれた時に、そう言って誤魔化してくれたのだ。

 あの時。つまり勝手に口金が開いた直後。僕は気を失ったかの様に倒れ、しかもまるで生き物の様に動き出した小銭入れに呑み込まれそうになった。

 だから友人達は僕を揺り動かし、小銭入れを踏み付けたそうだ。結果、小銭入れの口金は折れて動かなくなったらしい。

 誰かの記憶を支配し、覚えて居たら捕食する。あの葛織の小銭入れはきっと、そう言う妖怪か何かだったのだろう。何とも不思議な話だが、僕達は納得した。せざるを得なかったのだ。

 僕が寝ている間に、祭は終わってしまった。だが、友人達が色々と買って来てくれたので雰囲気は味わえる。それは良い。だが来年こそは、彼等と共に全力で納涼まつりを楽しみたい。そう思った。


 唯、一つだけ。心残りがある。

 それは、あの葛織の小銭入れ。友人が破壊した後、捨てる為に回収したのだが……


 気付いた時には、何処かへ消えていたそうだ。

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葛織 日向寺皐月 @S_Hyugaji

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