暗堂隕鐵(アンドウ イテツ)は思い出したくない事がある
最悪だ。
電源ボタンを押しても、目の前の洗濯機は無言を貫いた。よりによって今、壊れるのか、と大きくため息をつく。
ここで彼が選択できるのは二つ。
―手洗い―
―コインランドリー―
「…………」
このご時世、まさか洗濯板で衣類を手洗いするのはあまりに効率が悪すぎる。最近ではコインランドリーが至る所に見かけるようになったし、文明の利器に頼るのがいいのだろうか。
少しだけ悩み、背に腹は代えられないとため息をついた彼は、近所のコインランドリーへ向かった。
コインランドリー店に入るのは10年ぶりだった。前はもっと薄暗くてなんだか近寄りがたかった気がしたが、今は印象が全く違っていた。
洗濯物を入れ、終了の時間までとりあえず店内で待つか、と手近な椅子に腰掛ける。足を組み、店内をぐるりと見渡した。
(…印象が違うのも当たり前か……)
初めてコインランドリー店に入ったのは彼が警察官になったばかりの頃、店内で客同士が争い、刺された男が死亡する事件が起きたからだ。
(……あれ、深夜だったしな)
犯人はその場に残っていた為に駆けつけた警察官たちによって逮捕され、隕鐵は被害者の搬送先の病院へ行くよう命じられ、死亡宣告を受けた後に司法解剖の立ち会いをすることになった。
(……初めて殺人事件に遭遇して、司法解剖も立ち会って……今思えば新任には荷が重すぎたな……)
一度、思い出してしまうと次々とあの日の光景が蘇ってくる。当時は思い出すの苦痛で、忘れようと抗うとより鮮明になって襲いかかってきたものだった。今でもフラッシュバックするが、そうなってしまったら自ら思い出を辿ることにしている。
一生、薄れることもなければ、忘れることもないのだろう。
ただ、あの日の思い出が蘇ると、その日はどうしても食が喉を通らなくなる。無理に飲み込んでも嘔吐するだけだ。
この身体の奥にずっしりと残るこれを消化しなければ、次のものが入らないのはよくわかっている。10年もの間、繰り返してきたことだしきっとこの先も度々、思い出しては消化に苦慮するのだろう。年数を重ねたところで、消化の速度はかわらない。
(……今まで無意識に避けてたんだろうな)
コインランドリーという場所を。
久しぶりに鮮明な記憶が脳内を駆け巡っているのを、まるで他人事のように引いたところから眺めている気持ちで、しかしながらひとつひとつ丁寧に辿っていく。
それを皮切りに呼び起こされていく記憶の数々。それ以降、彼が立ち合い見送ってきた人々の事を順番に、ひとり、ひとり。
全員の事を思い出し終わった頃、洗濯機は己の仕事を終えたことを知らせてくる。
やはりコインランドリーに来るべきではなかった。
荒れ狂う記憶を洗い直す時間と、自身の洗濯物の洗い上がりのタイミングが同じだなんて。
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