第18章 Approaching the hands of the Demon

第171話 マスター、そこはお前がママになるんだよって言わないと

 火曜日の朝、久遠が目を覚ますとドラクールが久遠の顔をじっと覗き込んでいた。


 その姿はUDSの時と同じであり、幼女形態だったドラクールはもう何処にもおらず、今は成熟した外見である。


 守護悪魔になってから、ドラクールはできる限り送還しないでほしいと久遠に頼み、ドラクールを常に傍に置いておく条件を受け入れたからその頼みを承諾した。


 自分が寝ている間に桔梗が夜這いして来るのを見張ってくれるだけで、久遠としてはありがたかったからだ。


「おはようございます、マスター」


「おはよう、ドラクール。俺の顔に何か付いているか?」


「いえ、マスターの寝顔を見て愛おしいと思っていただけです」


「愛おしい?」


 ドラクールの口から愛おしいなんて言葉が出て来たのは初めてだから、久遠は少しだけ驚いた。


 最初に実体化した頃に比べて自分に甘えられるようになったドラクールだが、昨日まではまだ遠慮がある感じだった。


 それが久遠の目覚める時までじっくりと寝顔を見ているのだから、ドラクールの心情に変化があったのは間違いない。


「はい。マスターは起きている時にいつも凛々しいお方ですので、寝ている時のマスターの無防備な表情を見て、私が愛おしいマスターを守らなければと気持ちを新たにしていたところです」


「母性が目覚めてる?」


「母親になった経験がございませんのでわかりかねますが、私の全てを賭してマスターを守ると誓いましょう」


「ありがとう」


『マスター、そこはお前がママになるんだよって言わないと』


 (リビングフォールン、朝っぱらからエンジンをふかし過ぎだぞ)


 久遠がドラクールと喋っていたら、まだ召喚していないリビングフォールンがここぞとばかりに色欲を司る者として朝から過激なことを久遠に吹き込んだ。


 もっとも、久遠はリビングフォールンをあしらうことに慣れているため、サラッと受け流してベッドから起き上がった。


 リビングフォールン達も召喚してからリビングに向かうと、桔梗が朝のニュースを流しながら朝食を作っていた。


 作業が終わったタイミングで顔を上げ、桔梗は久遠に微笑む。


「久遠、おはよう」


「おはよう。何か地獄関連のニュースはあった?」


 久遠が訊ねると桔梗は今もやっているニュースについて触れる。


「新座市のガソリンスタンドが夜中に火事になったらしいけど、監視カメラに映ってた姿がアンデッドモンスターっぽかったよ」


「まだいたのか。というか、東京タワーからどんどん離れてるじゃん。特務零課は何やってんだ?」


「どうだろうね。まあ、何がどれだけ逃げたか正確に把握できてないだろうから、事件が起きてから動くしかないんじゃないかな」


「それもそうか。流石に予知や探索をできる従魔は特務零課にはいないんだった」


 その時、リビングに小さな地獄の門が開き、そこから手紙がひらひらと床に落ちた。


 (これ、トーキングレターか?)


 そんな風に久遠が首を傾げていたら、手紙の近くにいたアビスドライグがそれを拾おうとする。


 ところが、手紙が宙に浮き上がって折り紙の要領で口に姿を変え、手紙の文章をパイモンの声で読み上げ始める。


「ゆうべはドラクールとお楽しみでしたね」


「おい、変なことを言うんじゃない」


「ねえ、久遠。どういうこと? ドラクールとお楽しみって何? ねえ、答えてよ」


 ハイライトの失われた目をして桔梗が久遠に詰め寄り、まさか一線を越えたんじゃないだろうなと訴えるが、そこにドラクールが割って入る。


「止めて下さい。パイモンが場を掻き回して楽しんでいるだけです。私はマスターの眠りを見守っていただけですよ」


「その通りだ。別に俺が寝てた時にドラクールは何もしてなかったはずだぞ。そんな形跡はなかったし」


「…そうかな。確証はないけど何か臭うんだよね。ドラクールから雌の臭いがする」


 (雌の臭いってなんだ?)


 桔梗の言っていることはよくわからなかったが、ヨモミチボシが「美味です」と小さく言っているのを聞いて桔梗がドラクールを敵視していることは理解できた。


 そこにパイモンの声で再び手紙が読み上げられる。


「ふむ、宵闇ヤミがドラクールにヘイトを向けているのが手に取るようにわかる。安心したまえ。今のは適当に言っただけだ」


「やっぱりそうか。迷惑な奴め」


「さて、手紙を送った理由だが、獄先派の動きを共有するためだ。昨日、鬼童丸達をサタナキアが襲ったように、ヴァルキリーの戦都とリバースの観暁かんぎょうにも獄先派が侵攻して返り討ちに遭った。獄先派は統治エリアに名前を付けるだけの力を持つプレイヤーを襲った。これは現世での戦いで脅威になると思ったからだろう」


「ゲーム内で潰せるなら潰しておきたかったってことか。その目論見が失敗したんなら、獄先派がまた仕掛けてくるんじゃね?」


 獄先派が簡単に現世への侵攻を止めるとは思えないから、久遠は手紙に書かれているであろう獄先派の動きの共有を言外に催促した。


 勿論、パイモンもそれを共有するつもりだったらしく、手紙の内容はこれからの獄先派の動きについてだった。


「獄先派は昨日の戦いに負けてから、再び現世に攻め込もうとしていた。それゆえ、タナトス達を地獄に向かわせてそれを食い止めようとしている。タナトスだけでなく、他の師匠キャラの中の者達も戦いに行っているから、本編が成り立たなくなっているので大型アップデートと告知している訳だ」


「既に失敗したプロジェクトHを匂わせるようにワールドアナウンスで使ってたけど、あれにはそういう事情があったのか」


 獄先派が現世に刺客を送って来てしまった時点で、親人派が描いていたプロジェクトHは失敗に終わっている。


 それがまだ続いているかのように演出していたのは、親人派デーモンズソフトが地獄で獄先派の侵攻を阻止することを対外的に隠すためであることがわかった。


 プロジェクトHが失敗しているのを知っているプレイヤーは久遠達を含めてごく少数だから、久遠達が黙っておけば問題あるまい。


「ということで、タナトス達がこれ以上日本にアンデッドモンスターや悪魔を送り込まれないように戦っているが、その隙をついてゲームの中から逃げ出した中立派の残党が何体かいる。外出する時は気を付けることだ。以上」


 (UDSの中から現世に逃げて来た中立派の残党がいるのか。十中八九余計なことしかしないだろ)


 獄先派ならば単に破壊を目的とした侵攻なので、倒してしまえばそれで終わりだから逆に単純とすら言えよう。


 トーキングレターは書かれた内容を読み終えて元の手紙に戻った。


「マスター、ここは【透明近衛インビシブルガード】の出番です」


「…なるほど。ただ、それってドラクールが送還されてても効果は持続されるの?」


「問題ありません。守護悪魔になって完全体で顕現できる今、それぐらいどうってことなくなりました。何かあっても【透明近衛インビシブルガード】がマスターをお守りするのでご安心下さい」


 透明な分身である【透明近衛インビシブルガード】を傍においておけば、周りに姿の見えないドラクールがいるのと変わらない。


 久遠は朝食を取って身支度を済ませたら、ドラクール達を召喚して【透明近衛インビシブルガード】に護衛を任せて出勤する。


 【透明近衛インビシブルガード】のことは寧々にも伝えて出勤したのだが、最寄り駅から乗る電車は昨日よりもかなり空いていた。


「ニュースの影響かね?」


「多分ね。在宅勤務が増えたんじゃないかな」


「まあ、うちの会社でも在宅勤務の社員がいるからなぁ」


「私が在宅勤務をするのはまだ先だよね」


 寧々は今月からブリッジに転職し、研修期間を終えて昨日から本格的にチームに配属された訳だからまだまだ覚えるべき仕事が多い。


 その状態でいきなり在宅勤務にはできないから、寧々が在宅勤務をするのは当分先のことになる。


 逆に久遠はすぐにでも在宅勤務を始められたが、安全確保のために平日の通勤時間は寧々と行動を共にすることにしていたから、その付き合いで在宅勤務をすることはない。


 出社して始業時刻を迎えた訳だが、やはり社内にいる人数はかなり減っていた。


 ミーティングは会議用のアプリがあるから問題なくできる上、ペーパレス業務が増えてきたことで出社しないとできないことも少ないから支障も出ていない。


 結局、今日の仕事はスムーズに進んだため、久遠と寧々は定時で退勤した。

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