儚き夢世のマモリガミ

泡沫 希生

 最初は、何かに追いかけられる悪夢を見ていたと思う。相手は大きな熊だったか苦手な犬だったか、夢だからはっきりとはしない。

 とにかく僕はその日、夢の中で逃げていた。そこは、毎日通学で歩く道に似た場所で、その道を僕は全速力で走っていた。そして、ついには相手に追いつかれてしまったような気がする。けれど、


「えっ?」


 気づけば、僕は真っ白な空間にいた。後ろを振り返ると、追いかけてきていた相手もいない。助かったと僕は息を吐いた。

 白い空間は見渡す限り続いているように見え、遠くに目を向ければ様々な色に輝く光の帯がゆらゆらと揺れている。光は数え切れないほどあり、それぞれの色を点滅させながら、互いに交わったり離れたりを繰り返している。そんな光の帯が白い空間をぐるりと取り囲んでいた。

 空間の中心には、人の背丈の三倍はある白い門がそびえていて、開かれた門の中だけがぽっかりと黒い。まるで、門そのものが別の場所に繋がっているかのように。空間が真っ白なら、門の向こうは真っ黒。その明暗の対比は同じ場所であるように思えなかった。


「ほう……また一人たどり着いたか」


 ふと、声がした。僕の声ではない。女の吐息が混じった声。

 声をたどれば、いつのまにか門の横に女が立っている。僕より少し年上に見えた。

 女は赤を基調とした着物をまとい、手には煙管を手にしている。青や黄、緑で描かれた花柄が彩る着物が華やかだ。

 艷やかな黒髪は背中まで伸び、緩やかなウェーブがかかっている様が美しい。切れ長の赤目が白い顔によく映えていて、真っ赤な唇と合わせてどこか日本人形を思わせる風貌をしている。

 彼女はそれこそ作り物かと見紛うほどの美人で、僕は思わず息を飲んだ。


「こんなところに迷い込むとは、運がないな。坊っちゃん。いや、むしろ、運が良いと考えるべきか?」


 女は柔らかな声でそう言った。口元には楽しげな笑みを浮かべている。


「まあどちらでもよい。ひとまず、ようこそ夢世ゆめよの果てへ」

「ゆめよのはて?」


 ゆめよ、とは夢とは違うのだろうか。思わず腕を組もうとして、今自分が学校の制服を着ていることに気づいた。もちろん、現実の自分は寝間着を着て寝ているから、今日の夢の中ではこの制服を着ているということなのだろう。

 いつも着ている見慣れた制服で、肌触りも変わらない――そこで触感があるのに驚く。いつもの夢で、これだけ触り心地が感じられることがあっただろうか。

 そうだ。さっきまで見ていた悪夢と比べても、夢にしては自分の思考がしっかりしすぎているように思う。


「はてさて、これは夢かうつつか。そんな顔をしておるな」


 女の持っていた煙管が、いきなり扇子に変わった。女は扇子を閉じたまま、右手を横に伸ばす。


「そなたら人間は、同じ地続きの世界に住んでいるであろう。それと同じじゃ。そなたら個々の夢も全て繋がっている」


 スッと扇子が開かれる。青地に桃色の花が舞っている柄だ。


「ここは夢同士が繋がり作る夢の世界、その果てよ」


 彼女の声は柔らかくも芯がある。頭の中に話の内容がまっすぐ入ってくる。

 やはりこれは夢ではないように感じられた。上手く表現できないけれど、夢にしては目の前に広がる景色は実感をもっている。彼女も確かに存在しているように思える。

 しかし、彼女の言を借りれば、


「つまり、これはやっぱり夢?」


 ということになる。


「そうじゃな、夢かうつつかと言われればこれは夢じゃろうて。だが」


 彼女は扇子を閉じると両手で扇子を持った。次の瞬間、彼女は和傘を持っている。赤色の蛇の目傘。


まことか嘘かと言われれば、これはまことじゃ。我とそなたは今、まことにここに存在し言葉を交わしている。言うなれば、これはまことの夢じゃな」


 彼女は傘を開いて差した。蛇の目傘は、中の骨組みの上部に色とりどりの糸が掛けられていて綺麗だ。


「つまり、僕と君は本当に出会っている」

「そうじゃ」

「なら、だとしたら、僕はどうしてここに? 夢って覚えてないことが多いけど、それでもこんなところに初めて来たように思うんだ」

「本来、ここには我以外の者は来られぬ」


 彼女は、白い空間の周囲を漂う、様々な色に輝く光の帯に目を向けた。


「そなた、この果てに来る前に、悪夢でも見ていたのではないか」

「うん、そうだけど」

「そなたら人間は時にぶつかり合うことがあるであろう。同じ世に生きているのに喧嘩したり争ったり。夢もときにそうじゃ」


 光の帯は交わり離れ、ときにぶつかる。ぶつかるとその場に留まる光もあれば、どこか遠くへ投げ出される帯もある。もしかして、あれが僕たちの夢なのか。


夢世ゆめよは儚い世。夢という、絶えず生まれては消える不確かなもの、そんなものでできているからな。そして、夢のように不確かなものは確かなものになろうとして、互いに争うことがある。夢とて簡単には消えたくないからな」

「寝ている時に無意識に見るものなのに、どうやって夢同士が争うの?」

「全ての夢は繋がっているからこそ、自分の存在を広げようとする。そのために他の夢を夢世ゆめよから消して、目覚めさせようとする。それが争いじゃ。争いになると夢は他の夢からの干渉で歪み、悪夢になることがある」

「それで?」

「そなたの夢は悪夢になり、最後には他の夢に負けて夢世ゆめよから押し出された。本来ならうつつに押し出されて目覚めるはずだが」


 見ている先で、他の光に弾かれて赤に輝く光が一つ、消えていった。あの夢は目覚めたのだろう。


「そなたは夢世ゆめよの外ではなく、夢世ゆめよの果てに弾き出された。故にここにたどり着いた。稀にな、そういうことがあるのじゃ。我がこうして誰かに会うのは初めてではない」

「あの、それって、目覚めるべきなのに目覚めなかったってこと?」

「ふふ、何が不安かわかるぞ。安心せい。そなたが目覚めないということはない」


 思っていたことを否定されて安心する。良かった。


「この夢世ゆめよの果てに来た以上、常より深い眠りに陥ってはおるが、時が来れば我がそなたを起こしてやる」


 彼女はそう言うと、おもむろに傘をたたみ、そこに座った。門以外ここには何もないはずなのに、彼女は何か透明なものに座っているように見える。

 さっきから、彼女の持ち物がころころ変わるのも夢らしいといえば夢らしいけれど、僕にはそんなことはできないわけで。試しに想像してみたけど何も出てこないわけで。そこで、聞くべきことを聞いてないことを思い出した。


「君は誰? ずっとここにいるようだけど、ここで何をしているの?」

「我はここを守っている。この夢世ゆめよの果てをな」


 今度、彼女が視線を向けたのは門だった。正確にはその中を見ているのだろう。

 相変わらず門の中だけが漆黒だ。門の裏側にまわっても黒くはない。その中だけが、どこか別の場所に繋がっている。


「この門の先は、夢世ゆめよではないよね」

「そうじゃ。この門の手前までが夢世ゆめよ、そこから先は異なる世。うつつでもない別なる世」

「現実じゃない、別の世界……」

「確かなのは万一、この門を夢が越えれば、その夢もその夢も見ている者も、二度と目覚めることはないということ」

「僕は危なかったということ?」

「だから、声をかけてやっただろう。間違えて門の向こうに行かぬよう」


 彼女の言う通り、声をかけられなかったら、門を覗くくらいのことはしていたかもしれない。なんというか、あの黒には引き込まれるような何かがある。


「君はずっとここにいるの? 僕のように訪れる者は少ないんだよね」

「訪れる者は少ないが、この果てを守らないとならんからな。門の向こうより時折現れるあのたちから。あのモノらはこちら側には来てはならぬから」


 彼女は立ち上がると僕に近づいてきた。


「そうじゃ。忘れておった。そなた、名は?」

行人ゆきと。君は?」

「我か、我はマモリガミ。他にも名はあるが、最初に我と会った人間がそう呼んだ。だからマモリガミじゃ」

「マモリガミ、神ってこと?」

「神が何かはよく知らぬが、我はマモリガミ。そう呼んでくれ」

「本当の名前は?」

「言ったところで意味がないぞ。聞き取れぬだろうから」


 マモリガミはくすりと笑った。聞き取りにくいほど複雑な名前なのだろうか。

 そんな彼女は、この門から現れるモノを止めるため、この夢世ゆめよを守るためにここにいるらしいが、それは一体いつからなのだろう。


「いつからここに?」

「そなたは質問ばかりじゃな」

「ごめん」

「構わんぞ。こうして誰かとたまに話すのは楽しいからな」


 マモリガミは記憶を辿るように小さく唸り始める。そんな様子さえ絵になるというか、本当に美しい人だと思う。それこそ夢のように美しい。でも、これは本当に起こっていることなのだ。

 夢の中だからだろうか、いつもの自分ならこんなことすぐには信じられないのに、今は素直に信じられている。全てがまことであってほしいと思う。


「ここは時間の流れがあって、ないようなものじゃからな。千年、くらいか?」

「千年!?」

「いや、まあ、おそらくそのくらいという話じゃ」

「それって寂しくないの? 大体は独りなんでしょう」

「そう、じゃな」


 彼女の声が少し控えめになる。


「でも、我はそのためにるからな。仕方のないこと。皆の夢をこうして守れるのだ、誇りに思っておる」


 だとしても、寂しくないわけがないだろう。なおも声をかけようとした時、不意に白い空間がゆっくりと横に揺れた。

 門から何か音がした。重い物が落ちたような、動いているような鈍い音。それが白い空間にも響いているのだ。


「どうやら来たようじゃ」


 マモリガミは門を振り返った。それまで浮かべていた笑みはすっかり消え、真剣な眼差しを門に向けている。漆黒の中で、何か大きなモノが動いている。

 マモリガミは傘を両手で持つと構えた。傘が一瞬で太刀に変わる。朱色の柄をもつ太刀をそのまま門へ向ける。


行人ゆきと。我がそなたを守る。門から離れたところまで下がっておれ」


 僕は言われた通り、門から距離をとった。いつの間にか、彼女の長い黒髪が一つに結われているのに気づく。その姿もよく似合っている。

 そうして、門からは現れた。


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