【アップ】2023年10月29日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】2023年10月29日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/live/wMDYvuS-iTc?app=desktop&feature=share


【アメーバブログ】

聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。

ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12827110508.html



前奏

招詞 哀歌3章22~25節

頌 栄

たたえよ、主の民[こ改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問59

「十戒のまとめ」

こどもさんびか

うたいましょう[改126(4節)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 284番

聖書

ガラテヤの信徒への手紙1章3~12節(新約P342)

イザヤ書43章1~7節 (旧約P1130)

説 教

「ただ一つの福音~主の召命と契約の民」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 525番

みことばの交読文

詩編25編14~18節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 542番

祝 祷

報 告



讃美歌~♬


讃美歌284番(歌詞付)54年版「主のとうときみ言葉は

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=TFIWwaptF6s


1 主のとうとき みことばは

  わが生命(いのち)の もといなり

  たよるわれは 安けしや

  世にまたなき みことばよ


2 ただ我のみ汝(な)が神ぞ

  おそれず行け ためらわで

  力つよき 我が腕(かいな)

  なれにそいて はなれじ


3 なやみの火は燃え上がり

  なげきの河 あふるとも

  めぐみの手に すがりなば

  つねに勝ちて あまりあらん


4 老いの坂を のぼりゆき

  かしらの雪 積もるとも

  変わらぬ 我が愛におり

  安けくあれ 我が民よ


讃美歌525番 54年版「恵み深き主のほか」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=suRVOx3dC6o


 1. 恵み深き 主のほか、たれかわれを なぐさめん

   (おりかえし)

   わが主、わが神、恵みたまえ

   ただ頼りゆくわが身を

 2. わが主ともに いまさば 悪魔われを いかにせん

   (おりかえし)

 3. きよきみむね おしえて はたしたまえ みちかい

   (おりかえし)

 4. とうとき主よ、われをば 君のものと したまえ

   (おりかえし)



2023年10月29日 礼拝説教 中心聖句 


あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。

ガラテヤの信徒への手紙1章6節


彼ら(イスラエルの子孫)は皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し 形づくり、完成した者。

イザヤ書 43章7節


はじめに

プロテスタント宗教改革を覚え、今、福音に生きる教会を信じ求めたい。

「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い」と、キリストとその働きが語りだされる。わたしたちは、キリストにおいて、神を「わたしたちの神」また「父」と知る。「御心」とは、人の意志、知恵ではなく、神の御意志。主イエス御自身「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくだることです」(ヨハネ17章15節)と御父に祈った。「信仰者の霊魂は、彼らの死のとき、完全に聖くせられ、直ちに栄光に入り、信仰者の体(からだ)は、なおキリストに結びつけられたまま、墓の中で休みます」(ウェストミンスター小教理問答問37)と教えられるとおり、完全な解放は「死のとき」を待たねばならない。それは、ただ、キリストが、「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」ゆえ。この意味で、世の言う、死は苦しみからの単なる解放ではなく、キリストの負われた死と苦しみを信じるゆえに、神の怒りと呪いという刑罰としての死を免れる、真実の救いとして信じなければならない。「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン」との賛美の告白は、キリストの命と真理が、心に与えられた再生者による、確信の表明。キリストと神の栄光と贖われた者の礼拝こそ、永遠に続くもの。

「キリストの恵みへ招いてくださった方から」と、使徒パウロは、ただ一つの福音に反する「ほかの福音に乗り換えようしている」者について、「わたしはあきれ果てています」という。しかし、「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があながたがを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎない」と言う。主イエスが、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と言われたとき、弟子たちは、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と応答した。しかし、主の言葉のとおり、弟子たちは「散らされて自分の家に帰ってしま」う。かえって、主イエスは、「あなたがたがわたしによって平和を得るため」と言われ、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と約束される。主の真実は、世のただ中で、あらゆる苦難を超える歩みを与える(ヨハネ16章28~33節)。

ならば、使徒パウロの「呪われるがよい」との言葉は、神とキリストの福音(真理の言葉)に真っ向から反抗する偽りの教え(信仰によらず、行いによる救いを教える、もう一つの福音)の断罪。「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」とは、十字架の上に死んだ侮辱されるべき罪人イエスが、ダマスコ途上でサウロの名を呼び、また、福音を異邦人に伝える召命を与えられたこと(使徒9章4節、22章21節)。

おわりに

主イエスは、契約の民をその名「ヤコブ、イスラエル」をもって呼ばれるお方。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる」との約束を信じる。現代のプロテスタント教会の歩みはいかに。恵みの日に今日、主の名を正しく呼びたい。



(Mynote)

二〇二三年一〇月二九日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『子供と親のカテキズム 問五九』

「キリストが教えて下さった十戒の要約とはどの様なものですか。」

「心を尽し、精神を尽し思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい」。また「隣人を自分の様に愛しなさい」です。聖書の全体はこの二つに纏められます。

(公同礼拝)

『ガラテヤの信徒への手紙』(第三章三〜一二節)

『イザヤ書』(第四三章一〜七節)

この箇所は先ずイエス様の事が書かれてあり、イエス様はこの世に天の父なる神様から遣わされ、全ての人の罪の贖いをされ(清められ)、神様の内に救われる事が示されてある。

それなのに、これ程の恵みが既に神様からイエスキリストを通して与えられて居るのに、なぜ世の多くの人々がその恵みと信仰から離れ、他の、人が造り上げた邪教に陥って行くのか、その事が本当に不思議で成らない。その人が造り出した福音に似た邪教の教えは福音ではなく、或る種の人々があなた方を掻き乱し、キリストの福音を曲げようとして居るだけの事である。その様に人々を掻き乱し、神様が初めから人々に与えられた福音と恵みを掻き乱し邪教を広める者は、ただ呪われるべきである。そう言う或る種の人達は先ず人に喜ばれようとして居るだけであり、真実なる神様に喜ばれようとして居ない。人々の関心・感心を買う事に全力を努める事は、この世での徳と財産とを求めて居るだけであり、天を見て居ない。だからその人達とその人達に付き従う者達の栄光は全てこの地上で片付けられるものであり、地上が滅びれば、その人達も、その人達が信じてやまなかったものも、全て地上と共に滅び去る。

「兄弟達よ。あなた方にはっきり言っておく。私が宣べ伝えた福音は人間によるものではない。私は、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエスキリストの啓示に依ったのである。」(『ガラテヤ人への手紙』第一章一一〜一二節)

邪教の教えは全て人を惑わすものであり、神様から初めに受けた恵みと命、聖霊の働きに反するものである。人々の誉れだけを初めから目指す福音は邪教によるものであり、それはキリストの真実には無い。

「恐れるな。私はあなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ、あなたは私のものだ。あなたが水の中を過ぎる時、私はあなたと共に居る。川の中を過ぎる時、水はあなたの上に溢れる事がない。あなたが火の中を行く時、焼かれる事もなく、炎もあなたに燃え着く事がない。私はあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救い主である。私はエジプトを与えて、あなたの贖い代(しろ)とし、エチオピアとセパとをあなたの代わりとする。あなたは我が目に尊く、重んぜられるもの、私はあなたを愛するが故に、あなたの代わりに人を与え、あなたの命の代わりに民を与える。恐れるな、私はあなたと共に居る。私は、あなたの子孫を東から来させ、西からあなたを集める。」(『イザヤ書』第四三章一〜五節)

この両箇所は、人が信仰に縋る上で救いを求め、信仰者としてどの様に在るべきか?に就いて教えて居る。

例えば人がそれまで信じて来た信仰を捨て、別の教え(所謂る宗教)に乗り換える・信仰を変える事は至難の業に在る。不可能に近い事に在り、譬えそれが間違った宗教であってもそれを正義と信じ、その「人の主観・感情」により難しく、やはりその一度信じた信仰から離れられない。この時、何が正義に辿る為に必要と成るか?

キリスト教会に集う者達が「あなたの信仰の基は何か?」と異邦人に問われたら、何を差し出してそれを証明するのか?聖書か?教会の在り方か?詰りそれは信仰であり、また見えないものであり、見えない・触れられないからこそ確かが無く、その上で人は感じられず信じられない。時に信仰の在り方は知って居ながらそれ等を軽く見て、「そんなものだ」としながら、尚も自分は邪教に堕ちて居る事がある。人には信仰の確かさが、自力では解らないからである。

信仰とは先ず、神様の御前に屈服する事から始まる。その神様が邪教の神々ではなく唯一真実のキリストの神である事を知り、その確かな道を「どうすれば得られるか?その道に歩めるか!?」を人は本気で問わねば成らないのである。この本気で神を求める姿勢に先ず道が在り、その道を正すのが信仰であり聖霊の働きであり、唯一真実の神様の御力である。

全ての人に、夫々の時がある。それは真実の神様に繋がる救いの時であり、また好機(チャンス)とも呼ばれるものだろうか。神様を試しては成らない上で常に正直に神様のみに依り頼み、その処で人に頼まず、ひたすらに神様の力を「下さい!!!」と溢れる程の喜怒哀楽を以て追い求める事、これが大事にあろう。この在り方は、神様とその個人にしか分からないものかも知れない。他人にその「神様と個人の一対一の関係・その内実・経過と結果・聖霊に依る恵み」は時に見得ないものかも知れず、神様が信仰に於いてその人に与えられる恵みの時やも知れないのである。

人は本来(生来)、自分の主観によってでしか物を語れず、考える事も出来ない。しかし全ての人は神様から命を受けて生まれて居り、世界中の男女が神様の下(もと)に在る兄弟姉妹に在り、本来(生来)、自分の親である神様の事を知って居る。それが無意識のゆえ見えない・触れないものであるゆえ分からず(解らず)、やはりこの地上で迷い、その「真実の救い」すら何が何だか全く解らなく成る。これを人の間で混沌と呼び、その混沌の内に善悪の区別も付かなく成り、その上で生まれ持った罪により欲望だけが何故か残り、その欲望により争い・反抗・不品行・堕落・罪による凡ゆる事が現れる。今この地上で目と感覚に直接見て取れ現れるのはそれ等の罪の産物であろう。

だからこそ、人は本来・生来の在り方に立ち返る為に正しい信仰が必要に成り、真実であり唯一の神様に依り頼み、先ず罪から離れ、邪教から離れ、神様に創られた本来の正義の在り方に立ち返る努力が必要と成る。その「キリストに依る恵み」がさっぱり分からない(解らない)では済まされず、それはその個人の直接の救いに繋がるものである為、全ての誰にとって最も身近な救いへの道であり、この救いが無ければ人は自滅・神様の教えに叛いた状態に在るしかなくなるのである。

信仰に就いて言えば、信じるか否か、先ずこの地上ではそれに尽きるだろうか。その上で神様からの啓示がその人だけに分かる形で現れ、それを他人に説明しようとしても無理である。詰り全ての人にその啓示による恵みが先ず与えられ、その奇跡とも呼べる経験を土台にした上、初めて互いの信仰に依る救いを分かち合え、邪教を全て取り除く事が出来、信仰に於ける真実が唯一つだけ在る事が解る様に成る。これはイエスキリストの復活を先ず信じるか否か、唯一のキリストの神様が居られる事、その神様から自分達が生まれた事を信じるか否か、唯一の信仰の在り方が言葉通りに唯一に在る事を信じるか否か、その信じる事の成果により初めて得られる真実に在ろう。人の世界では、人の思いを一つにする事が先ず大事に在る。この思いとは、唯一の信仰に依る思いであり、神様が人に与えた正義に従う事に在り、そうせねば人の幸せと喜びは必ず来ない。一瞬ずつに見て感じて取れる堕落による快楽はこの地上に於ける一瞬のもので過ぎ去り、堕落して神様に叛いた儘に在る為、罪の内に滅びる土台と成る(『コリント人への第二の手紙』第一三章一一〜一三節を参照)。

人はそもそも弱いものである。強いものが無ければ倒れる。その強いものを何にするかである。その時に目の前に在るものに飛び付く習性が全ての人にある為、そこで目に見えて感じ取れる悪魔の業・邪教に寄り縋る事が多い。そして更に迷い、史実を理由に曲解し、事の善悪を人の主観によって取り決めて仕舞う。その姿勢を持つ前後に於いて、キリストに依る正義・正しい信仰が必要に成る。先ずキリストの真実、唯一の神様に依り頼む事。それから救いへの全てが始まるのである。群れの土台は独りの土台を初めとする。その「独りの土台」を初めにキリストに依る土台とし、神様の教えを独りの人から全ての人の心に留め、この世全体が救われる事、即ち神様の愛と聖霊の働きに依り福音が全世界に宣べ伝えられる事を祈り願う。この事が、全ての人の救いにとって大事に在ろうか。

〈御言葉の交読文〉

主を畏れる人に、主は契約の奥義を悟らせて下さる。私はいつも主に目を注いで居ます。私の足を網から引き出して下さる方に。

御顔を向けて、私を憐れんで下さい。私は貧しく、孤独です。

悩む心を解き放ち、痛みから私を引き出して下さい。

ご覧下さい、私の貧しさと労苦を。どうか私の罪を取り除いて下さい。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw


「病をいやす存在 ジーザス」THE DAILY with Arthur Hollands 2023/11/02

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=qYOXUwGhSDg


ハマスの戦略は成功するか【イスラエルのための祈り(9)】2023.11.2

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=DBZXz7aSe7Q&t=915s


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)



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