金柑とネリネ

羽賀

*1



祖母が死んだ



それは本当に突然のことだった。


昨日まではいつものように生きていたというのに。

今朝、祖母の家に訪れた訪問介護の人が風呂場で倒れている祖母を発見したそうだ。結果はその場で心肺停止。死因は突然死。

死ぬにしてはあまりにも唐突で、学校で聞いた電話越しでの母の声が、いつもはキンキンして煩かったのに今日はやけに遠く感じた。



「美穂子、今日このあとカラオケ行かない?商店街の」

「ごめん、今日は私家に帰らないと」

「あ、そう?じゃあまた今度誘う」



美穂子の2つ括りのお下げ髪から見えるうなじにはしっとりと汗が滲んでいた。夏休みが終わって秋に差し掛かるそんな時期。祖母は死んだ。まだそこまで老いていたわけでもないのにいったいどうして?美穂子の頭にはそんな疑問がよぎった。



「いやあ、でも本当に。見つかったのが早期で良かったわ」

「ほんとうね、こんな地獄みたいな暑さで放置されてたら腐って大変なことになってたわよ」


畳と家の匂いが染み付いた祖母の自室に母と、叔母と私の三人でもう言葉を発さないその人を眺める。こうやって見ると、眠っているように見えるのに。おはよう、と声をかけたら「美穂子ちゃん」とあの柔らかい笑みで起き上がりそうなのに。


「...本当に、死んでるんだよね。おばあちゃん」

「よく見てみなさいよ、つま先が死後硬直で真っ直ぐでしょう?それに少しだけ血の気が少ない。吐血もしたんでしょうね」

「それにしても本当に寝てるみたい、こんな日が来るなんて」


祖母の体をタオルで優しく拭きながらそうやって私に答えを与える母は、現役の看護師で今日も本当なら出勤だったんだけど祖母の訃報を聞いて慌てて飛んできたらしい。叔母も叔母で電車で二駅先の街で自営業をしてるのに店を閉じてわざわざやって来たのだろうか。


「他の親戚にはもう連絡したの?春子」

「当たり前じゃない、皆泡吹くんじゃないかみたいな顔してたわよ。夜になったら来ると思う」

「圭くんにも連絡したの?あの子今部活で忙しいんでしょ?」

「そうなの、だから電話かけたんだけどあの子ったらスマホ家に置いていってるのよ?現役の高校生がそんなことあるかしらねえ」



春子と秋子、なんともそのままみたいな名前をしている叔母と母は果たして本当に母親が亡くなったのか?と思うほどにベラベラといつもと変わらず話を続けている。

それがちょっとよく理解できなかった。


「美穂子、あとでおつかいに行ってくれない?親戚皆来るし多分泊まると思うから」

「ええ...私が行くの?」

「アンタがこの一族の中で一番年下なんだから行きなさいよ、私たちはこれから葬儀とか手続きで忙しくなるから!」


あんなにも温厚な祖母からどうやったらこんな娘が生まれるのか、美穂子はため息を付きながらも逆らうわけにはいかなかったので仕方なく了承して静かにその部屋を立ち去った。まだ夏の終わり、夕暮れと蝉の鳴き声がやけに鼓膜の中を反響してまだセーラー服姿の美穂子をそれはそれは苦しませた。


なんせここはただの田舎で避暑地でもなんでもないからだ。



『美穂子、明日おばあちゃんの家に行ってちょうだい』

『...ええ、また?私先週も行ったんだけど』

『そんなこと言わないでよ、おばあちゃん先月腰痛めたって言ってたでしょう?』


そんな会話をしたのがまるで遠い遠い昔のことみたい。つい一昨日の話なのに。いつものように優しい笑みで私を出迎えて一緒に御飯を食べて、川で冷やしている野菜を取りに行って、宿題をして、祖母の何気ない話を聞いてたのに。

もう”あの”祖母はこの世には存在していなくて、二度と言葉を交わすことはないなんて。


祖母の家を出て母から預かったタクシー代を握りしめて、人通りがあるかもわからない田舎道を一人で歩く。この道も、幼い頃からずっと通っていた馴染みのある場所だったのにもうそれも無くなるのかななんて。

そう俯きながら歩いていると眼の前に、一つの人影が映って顔を上げた。



「...あ、美穂子!ばあちゃん死んだって本当か?」

「圭介...うん、本当だよ。さっき知ったの?」

「おう、部活終わって家に帰ったら母さんの置き手紙があって...本当に、死んだんだよな?」

「そうみたい、まだ信じれない。寝てるみたいなんだもん」


日に焼けて焼けた肌が痛々しく見えるのに、綺麗な造形美をした顔がそれを精算してくれるのか。つくづく羨ましいと心のなかで思いながら美穂子は圭介の顔をじっと見つめた。走ってきたのだろうか、汗が滝のように溢れ出てソレは彼のポロシャツにまで染み込んでいた。


「熱いでしょ、拭きなよ」

「いやいいよ、汗だくだし臭いし」

「そんなこと気にしないから、見てるこっちが心配になる」



自分のスカートのポケットからハンカチを取り出し圭介に差し出すとやけに焦った顔でその善意を断るものだから美穂子はムッと表情を曇らせた。

何を気にすることがあるのか、自分は幼い頃私の歯ブラシで歯を磨いたこともあるくせに。従兄弟なんだから遠慮することなんてないのに。



「というか今からどこに行くつもりだったんだ?」

「商店街の方に出て晩御飯買ってきてって、母さんが。タクシー代も貰ってる」

「...そっか、じゃあ俺もついていく」

「なんで、別に私一人で大丈夫だよ」

「だって今行ったって母さんと秋子叔母さんしかいないんだろ?なら美穂子と一緒の方が良い」


地味な顔立ちで、根暗な性格をしている私みたいなのとは大違いで圭介は眉目秀麗で運動も出来て県内でも有数の高校に通っている。生まれた時期も一緒でずっと一緒にいたのにどうしてこうも差ができてしまったのか。



「俺たちさ、喧嘩したときもここの道歩いてたよな」

「うん、...おばあちゃんと手繋いで」

「そうそう、川で喧嘩して叱られてお互いボロボロに泣きながらさ」



圭介の格好は白ズボンに青のポロシャツと如何にも野球部そのもので、部活が終わって服も着替えずに来たのだろう。ほんの少しデオドラント剤の匂いがするその男の横に並んで歩いていく。



「懐かしいな、俺が中学に上がって野球部に入ってからは会う機会減ったけどさ...ばあちゃん、いつも俺達に会う度に3人でどこか行ってたよな」

「...圭介、意外と覚えてるんだね」

「当たり前だろ、大切な家族なのに」



キリッとした眉毛をしなりと垂れさせて笑う従兄弟は何故か知らないけど眩しかった。何度も嫌と言うほど見てきた顔なのに、今日は何故か嫌だとは思わない。

それどころか、会えてよかったと思ってしまう自分がいた。何故かわからないけど今のこのままだと自分は一人ぼっちになってしまいそうで。



「......早すぎるよ、せめて俺達が成人するまでは生きててほしかった」

「そうだね、...早すぎる」

「美穂子も俺もこんなにも大人になったんだぞ、ってこの間じいちゃんにも報告してたばかりなのにさ」

「俺と美穂子のこと、本当に大事にしてくれてたんだよな。ばあちゃんは」


なんでだろう、なにかが心の中で渦巻いているというのにその”なにか”がさっぱりわからない。言葉が喉に詰まって上手く喋れない、まるで深海で溺れているかのように。






「.........美穂子、泣いてんのか?」

「...え、あ。そう、...みたい」


ポロポロと出てくる涙の理由はさっぱり分からなかった。いや、分からないわけではなかった。ただ言葉にしてしまったら本当になってしまいそうで。



「...は、ははは。わたし、泣いてるんだ」



————もう涙なんて、久しく流してないや。

満杯のコップに最後の一滴を落とされて、溢れ出るかのように啖呵を切った涙腺はみるみると美穂子の頬を伝い地面に落ちていった。堪えたくても堪えられなくなった嗚咽が喉奥から漏れて、喉を鳴らす。



「.........美穂子、」

「おばあちゃんが、っ...死んじゃったよお...!!けーすけ...!!」




まるで子どものように涙を流す私の肩をグッと掴んで美穂子の顔を自分の胸元に押し付け、庇うような圭介は同い年のはずなのに私よりも随分と大人に見えた。

そしてその野球で鍛えた血管が張るその焼けた腕は、幾分も大人の男で私だけがこの世界に取り残されている気がした。



こうしてる間にも、世界は私をおいて回っている。

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