1-2
「ソラはね、私の家に千年前からずっといるんだよ」
「暑さで頭がやられたか。と言いたいところだが、当の本人が喋ってるのを見てしまっていると否定できないな」
「順応性が高くて助かるよ。確か、蒼佑といったか。よろしくな」
「あぁ、よろしく。鴉の知り合いができたのは生まれて初めてだ」
灯台からの帰り道。車の窓から見える空は日が西に傾き始めていて、徐々にその光の赤みが増していた。
「で、千年前から生きてるって?」
「正確に言えば千年の時を絶え間なく生きているわけではない。有り体に言えば、『輪廻転生』というやつだな。この身体は一般的な鴉のそれと変わらない寿命しか与えられていないが、死して朽ちるたびに余は生まれ変わっている」
「魔法か
片目の色が不自然だったり人語を話す鴉と一緒にいたり。どう考えてもどこにでもいる一般人、というわけではないのだろう。運転している都合上、前方から視線を逸らさないまま助手席に座る愛季に訊ねた。この辺りはのどか過ぎて信号機すらない。こうなると赤信号で止まれないのが逆に不便だ。
「私の実家は、千年の歴史がある神社なんだ。私は家の神職に子供の頃からあまり興味が無くて詳しくはないんだけど、ある神様を祭っていて、ソラは昔その神様に創られた御遣いなんだって。ねぇ~ソラ?」
「そういうことになるな」
「神様。本当に存在するんだな、そういうの」
「でもソラはその神様のことは覚えてないんだって」
「不甲斐ない話だが、千年の間に何度も輪廻を繰り返す中で、過去の記憶が少しずつ剥がれ落ちてしまってなぁ。愛季の祖先のことや、余を作った“主様”のことはほとんど覚えていないんだ」
「まぁ千年なんて、俺みたいな一般人からすれば想像もつかない時間だしな。すべてを覚えていられないのも無理ないと思うぞ」
「気遣い痛みいる」
正直なところまだ完全には受け入れられてはいない。もしかしたら自分は熱中症か何かで倒れていて、愛季やソラのことも全部自分の頭が脳内再生している妄想の産物なのかもしれないと本気で思うくらいだ。
だがそんなことは決してないと俺の心が告げていた。現実感がありすぎる。夏特有の暑さも、車のクーラーから噴き出す冷風の冷たさも、肉体に蓄積したほどほどの疲労感も。
「あ、蒼佑さん。ちょっと止めてもらえる?」
「?あぁ」
愛季の突然の要望に応えて俺は適当な路肩に車を停めた。エンジンを切って車のドアを開けるとサウナの熱波のような暑さが途端に俺の肌を覆った。この夏空のどこかには熱波師でもいて、毎年夏になるとせっせこ空気を仰いで地上に熱を送り込んでいるのではないだろうか。
「トイレか?」
「ううん、あのお店、ちょっと気になって」
「店?あれか?」
愛季の指差す先には壁の塗装が剥がれかけた小さな商店があった。看板や暖簾のようなものは見えない。昔は建物の壁に店の名前が刻まれていたのかもしれないが、なにせ海沿いにあるこの町だ。長い年月をかけて潮風に少しずつ削り取られてしまったといったところだろう。店のシャッターは上がっており、店先にはこれまたところどころ錆びの入ったベンチが一つと、申し訳程度の小さなかき氷の吊り下げ旗と風鈴が夏風に揺れていた。
まるでデパートのキッズコーナーに吸い込まれる子供のように愛季は商店に駆けていき、店先にいた老齢の店員と何やら言葉を交わすとその場から少し離れて首から下げていたカメラを持ちあげた。
「撮影許可は貰ったらしいな」
「あれはいつも
「神饌?」
傍に居たソラの言葉に聞き慣れない単語を見つけて思わず聞き返してしまった。
「我が主様に捧げる供物のことよ。あれの家系は代々各地を巡り、主様の好む美しきものを収集して捧げているのだ。分かりやすい表現をすれば、美術品や工芸品の類だな。あれの場合は専ら写真だが」
「愛季が写真家になったのはそういう家の事情もあったのか」
「いや成り行きだ。たまたまあれの好むものが家の使命と合致したというだけよ」
「ふぅん。しかし、なんというか風変わりな神様を祀ってるんだな」
神社で神様に供え物といえば食べ物がまず思い浮かぶが、美術品の類を要求するという話は聞いたことがない。学問や芸術の神様を祀っているのだろうか。
「カァ。まぁそう思うのも無理はない。しかし、これは大いに意義のあることなのだ」
「意義?どんな?」
「―――忘れてしまった。だが、余の心は確かに憶えている。これは千年前から続く約束なのだ」
そう独り言ちる神の遣いはどこか寂しそうな目で空を見上げていた。
鴉にも心はあるのか。
俺は内心でどこか他人事のようにそんなことを思っていた。
「やっぱりかき氷のシロップと言えば、全部乗せのレインボーだよね」
「ツッコミどころが多いが、とりあえず写真ばかり撮ってないで早く食べないと溶けちゃうぞ」
「うん、だから溶ける前に写真に残しておかないとね」
店構えの写真を撮り終えた愛季は撮影料代わりのつもりなのか、店のかき氷を注文した。一息入れるのかと思いきや、盆を受け取った彼女はそれを店先のベンチに置くとこれまた撮影会を始めている。
「かき氷なんて、それこそ東京でも食べられるじゃないか」
渇きに負けて注文したピーチジュースをストローで喉に流し込みながら俺は何の気なしにそう言った。
すると愛季は頬を僅かに膨らませて反論した。
「蒼佑さんは情緒なさすぎだよ。“旅先の夏の田舎町で偶然見つけたお店で食べる”かき氷っていうのが良いの。写真と同じだよ。この時期このお店のかき氷は今しか食べられない。だから特別なの」
「そんなもんかねぇ」
あまり心には響かない論理だった。
「俺にはそういう情緒とか、他の人が口を揃えて絶賛する美術や芸術の美しさみたいなものが分からないんだ」
「どうして?」
言っている意味が分からないとでも言いたげに愛季が首を傾げる。
「子供の頃からそうなんだよ。俺はそういう人間なんだ」
「でも、私の撮った写真、蒼佑さん見てくれてるんだよね」
「まぁ。………ある意味、本人を前にしてこんなこと言うのも失礼だっていうのは重々承知なんだが、あんたの撮った写真はちょっと他の人が撮った写真だとか絵とは受ける印象が違うんだ。“美しい”、とまではぶっちゃけいかないんだけど、なんかこう、胸がざわつく感じがするっていうか」
「………」
それまでベンチの前にしゃがみ込んでカメラを構えていた愛季が、不意に沈黙する。店先の風鈴が揺れるチリンチリンという小気味よい音と、遠くから聞こえる蝉の鳴き声だけが嫌に大きく聞こえた。
さすがに気を悪くしたかと思い、謝罪の言葉を述べようと口を開いたときだった。
「蒼佑さん!」
突然一際大きな声で名前を呼ばれて面食らった。
「あ、いやその、すまん!いくらなんでも失礼が過ぎたよな。一生懸命撮った写真なのに今日会ったばかりの男に綺麗に見えないとかなんとか言われて―――」
「私と一緒に“夏探し”、しよう!」
「へ?」
愛季が有無を言わせぬ剣幕でいきなりこちらの手を握ってきた。色違いの双眸で真っ直ぐこちらの顔を見つめながら。
「私、蒼佑さんに知ってもらいたい。この世界の美しさ。この世界は捨てたものじゃないんだんだって」
「は、はぁ………」
「蒼佑さんに『綺麗だ』って思ってもらえるような写真を撮れるように私頑張るから。だから私と一緒に探しに行こう?」
ほんの一瞬のことだった。こちらの顔を覗き込む彼女の表情に、空色の眼に、別の誰かの面影を感じた。遠い昔にも、俺はこんな切実な顔を見たことがある。不思議とそんな気がした。
そのことに気付くのと同時に、自分の心が確かにざわつくのを感じた。それは愛季の撮った写真の数々を過去目にしてきたときと同じ感覚。何かが自分の中で変わるかもしれないという予感。
「―――分かった、よ」
愛季が注文したかき氷はいつの間にか溶け始めてしまっていた。
***
「“夏探し”ねぇ」
あの後、愛季とソラを市街のホテルに送り届けて―――ソラについてはホテルに泊まるわけにはいかないので別の場所で休むそうだが―――彼女と別れた。
そのままコンビニに立ち寄って適当に食料を買い込み、道中で最初に愛季と出会った海沿いのキャンプ場に車を停めて、階段状になったコンクリートの堤防から陽が沈みかけた夏空を今はぼんやりと見つめている。西に見える山の向こうに夕日は隠れ、東の空には星々と細い月がその姿を現していた。
―――この景色も、愛季にとっては涎を垂らすほど“夏”を感じる絶景なのか。
声にならない声を上げながら夢中でシャッターを切る彼女の姿が浜辺に見えた気がして、馬鹿馬鹿しいと呆れて首を振る。
「熱に浮かされた感もあるな」
あの時はついあんなことを言ってしまったが、冷静に考えると今日出会ったばかりの素性の知れない相手と逢引の約束をするなんて、いい歳した社会人の視点から見ればまともじゃない。
でも。
「―――嫌いじゃない」
昔から知らない土地を旅するのは好きだったが、心の何処かでこういうイレギュラーを自分は望んでいたのかもしれない。
どうせ、他にやることもない。騙されたと思って愛季に付き合ってみるのもいいだろう。
ふと視界の端にゆっくりと動く何かを捉え、彼方の水平線に向けていた視線をそちらに向けると、白のワンピースを着た一人の少女が歩いていた。無言で。やや覚束ない足取りで。文字通り熱中症か何かで熱に浮かされているような危うさを感じる振る舞いに見えた。ましてほとんど日が落ちかけている時間帯だ。こんな田舎町で誘拐だのなんだのといった事件なんてそうそう起こらないだろうとは思うが、暗い時間に年端の行かない少女が一人で外を歩いていれば心配の一つもするのが一般的な社会人の感性というものだろう。だから俺はあからさますぎない程度に注意深くその少女のことを観察することにした(あまりじろじろ見ると逆に自分が不審者扱いされるかもしれない)。
「………」
暗がりの中でよくよく目を凝らして少女を視線で追うと、俺はある一つの異変に気付いた。暗がりだからこそ気付けたのかもしれない。
少女の目の色。
―――黄色い?
少女の目の色は、一般的な日本人のそれとは違う輝きを放っていた。黄色、あるいは金色に見えた。いくらなんでもカラーコンタクトということはないだろう。少女の見た目はどう見積もっても十歳になるかならないかといったところだ。
その小さな異変に気付いたときだった。
それまで虚ろな目でふらふらと浜辺を歩いていた少女が徐に立ち止まると、ゆっくりとその視線をこちらに向けたのだ。自然、少女の金色の眼がこちらを捉えることになる。正面から見ると本当に異質なものを感じる。眼以外はどこからどう見ても無力な少女でしかないというのに、蛇に睨まれた蛙のように表情筋を僅かに動かすこともできなくなった。
「………」
「………」
暫しの間静寂が辺り一帯を支配した。蝉の鳴き声も、それまで規則正しく続いていた波の音すら耳に届かなかった。
「―――醜い」
沈黙を破った少女の声は人間のものとは思えないほど透き通っていた。明確な罵詈雑言の類の言葉を浴びせられたというのに、欠片ほどの怒りも湧かないほどにすっと静かに俺の心に溶け込んでいった。
「―――うっ………?」
彼女の言葉を聞いた次の瞬間、左側頭部に刺すような痛みが走った。
―――い、痛い!?なん、だ?
痛みに思わず蛇に睨まれたことも忘れ、目を閉じて頭を抱える。それでも痛みが和らぐことはなかった。
「く、ぐぅ………っ!」
痛みに声が漏れる中、閉じているはずの瞼の裏にやがてある景色が浮かび上がった。
森だ。夜の森。強い風にざわめく木々を、月の照らす空から見ている。地上には無数の人々の姿が微かに見える。遠すぎてはっきりとした輪郭は捉えられない。だがその人々が皆一様にこちらを見上げていることだけはなんとなく分かった。
小さな点がこちらに迫ってくるのが分かった。しかしそれはこちらに届くより前に重力に引き寄せられて地上に落下していく。矢だ。無数の矢がこちらに放たれている。自分は今人々から敵意を向けられている。殺意を向けられている。
―――憎い。
―――恨めしい。
―――醜い。
そんな感情が自分の心を満たしていく感覚があった。
しかしこれは自分の感情ではない。これはこの光景を見ている“誰か”の感覚だ。
「違う」
「これは、俺のじゃない………!」
瞼の裏に再生された情景と“誰か”の感覚をかき消すようにそう叫ぶと、やがてそれらと共に頭痛も消え去った。最初から存在しなかったように。
「っ、はぁ、ハァ………今のは………?」
呼吸が整えながら瞼を開けると、そこには先程まで見ていた意味不明な光景など当然なく、先程までと変わらない夏の夕暮れの浜辺がそこに在った。もう空の色はほとんど藍色に変わっている。もう数分もすれば辺りは完全に夜の闇に包まれるだろう。
金色の眼の少女は、既に浜辺から姿を消していた。
「―――なんだったんだ、あの子」
一人呟いたその疑問に答えるものは誰もいなかった。物言わぬ月と星だけが、ただ静かに自分を見下ろしていた。
***
愛季を迎えに宿泊中のビジネスホテル前まで車を走らせたのは翌日の昼だった。
「おはよう、蒼佑さん」
「あぁ」
今日も天気が良い。遠くに見える内陸側の山の上に雲が浮かんでいるようだが、海のあるこちら側の空には雲一つない。気候的なコンディションとしては今日は申し分ないのだろう、愛季からすれば。
「カァ」
上空で鴉の声が聞こえる。普段なら日常的な環境音として聞き流すところだが、ことこの町に滞在している間はそういうわけにもいかない。
「あ、ソラも。おはよ~」
「もう正午を過ぎているぞ、愛季。しかしこの町は良いな。空気が澄んでいて、飛んでいて気分がいい」
「なんかどこか人間臭いところあるな、お前。バイカーみたいな感想だ」
挨拶もそこそこに、俺はさっそく愛季に本題を切り出した。
「で、今日はどこに行くんだ?」
「うん、昨日Googleマップのストリートビューでこの町の地図を調べてたんだけどね、ここから少し行ったところに農免道路があるみたいなの。そこ行ってみたいな」
「農免道路?」
所謂農道のことだろう。つまり周りは田んぼや畑に囲まれた何もない道だというのは容易に想像がつく。
「………一応聞くが、そこには何かがあるのか?」
「“夏”が私達を待ってる!」
「はぁ」
相槌とも溜息ともつかない声が漏れた。傍らにいたソラがフォローするように黒光りする嘴を開く。
「蒼佑、諦めろ。これはこういう奴なんだ」
「まぁ、いいけどさ」
むしろ自分の感性からは出てこない発想と行動だ。とりあえず付き合うだけ付き合ってみよう。
「“夏”とやらが見つかればいいが」
「見つけるんだよ!しゅっぱーつ!」
「ガァァ」
音頭をとるようにソラが鳴いた。案外ノリの良い性格なのかもしれない。
目的地の農道には車で数分もかからなかった。とはいえ徒歩で行けば間違いなく気温で汗だくになってしまう程度の距離ではあっただろう。車で移動するのは決して間違ってはいない。
「夏ぅぅぅぅっ!!」
「いや、普通の田舎道だろ」
路肩に車を停めると居ても立ってもいられなくなったのか弾かれるように愛季は助手席から外へ飛び出し、昨日と同じように首から下げたカメラのファインダーを空色の眼で覗き込み、次から次へと向きや角度を変えてはシャッターを切っていく。
―――道路の側溝まで撮るのか。苔やらなんやらで別に綺麗なもんでもない気がするけど。
やはり自分には理解しがたい感性を愛季は持っているらしい。いや、俺以外の人間なら理解可能な範疇の感性なのかもしれないが。
「空、青いな」
「ん、呼んだか」
傍にいたソラが反応を示した。
「ああいや、悪い。あんたじゃなくて上空の“空”のことを言った。今日も青いなって」
「昼間の空は青いだろう。雨が降ろうが雪が降ろうが、雲の上に出れば依然空は青い。余からすれば当然のことだ」
「あんたは翼を持ってるからな。空なんて見慣れてるか」
「何か、空の青さに対して思うところがあるような口ぶりだな」
「いや、そこまで深刻な話じゃないよ。ほら、俺の名前。『蒼佑』って字に“蒼”が入ってるだろ。死んだ親父が好きだったらしいんだ。青い空。だから俺の名前は『蒼佑』になったって、母さんから聞いた」
「感傷に浸っていたというわけか」
「まぁ、うん。この町は俺の生まれ故郷だ。つまり親父はここから見える青空を見て、生まれてきた俺に名前を付けたことになる。何も思わないなんてことはないさ」
父はこの空が好きだった。となればきっと、この無限に続く青が“美しい”とも思っていたんだろう。
「確か、お前はこういった風景に心動かされない男なんだったな。父の思いを心から理解できないことに、後ろめたさでも感じているのか?」
「後ろめたさか。どうだろうな。親父とは小さい頃に生き別れてそれっきりだ。分かりやすい形での罪悪感みたいなものはないよ。でも、うん。このもやもやした感覚に名前をつけるなら、あんたの言う通り後ろめたさってことになるんだろうな」
「名というのは、親が子に与える最初で最大の贈り物だ。後ろめたさを感じられるだけ、お前はまだ親孝行な方だと思うぞ」
「千年も生きてると、年の功が違うねぇ」
礼代わりにやや皮肉交じりの笑みを送ると、ソラはバサバサと翼をはためかせて徐にこちらの頭の上に乗っかってきた。
「うぉっ」
「―――余は、親ともいえる主様のことをほとんど覚えていない。主が何の目的があって余を創ったのか、余がなぜ神永の家に身を置いているのか、何も思い出せんのだ。今は、漠然とした心の声に動かされてこうして愛季の旅に連れ添っているが、果たしてこれが本当に主様のためになることなのか、正直分からん」
「後ろめたさを感じてる?」
「後ろめたさなどというものでは済まん。罪深き不敬だ。万死に値するだろう」
「神様っていうのはそこまで懐が小さいもんなのか?」
「あまり軽率な口を開くな、人間。天誅が下っても知らんぞ」
そう言って神の遣いたる黒鳥が嘴で軽く自分の頭をつついてからそこを離れた。
「いてっ」
つつかれた頭を手で擦りながら、ぼんやりと空を見上げる。雲一つない青。吸い込まれるようだった。ソラの言う主様とやらも、この空の何処かから俺達を見ているのだろうか。
「………」
何の気なしにスマートフォンのカメラを上空に向けてシャッターボタンを押してみた。フレーム内には当然青しか映っていない。肉眼で見たときは気付かなかったが、こうして写真で切り取って見てみると、その青は均等な一色というわけではないようだった。画角の中央付近の色が僅かに濃い。もっともこれはカメラのレンズを通している影響なのかもしれないが。撮影に疎い自分にはよく分からない。
「―――醜い」
気付けばそんな言葉を口にしていた。完全に無意識だった。
「そんなことないよ、すごく引き込まれる写真」
「………?」
いつの間にか傍らにいた愛季が手元のスマホの写真を覗き込んでいた。もはや驚きもしなかった。
「あぁ、いや、今のは俺もおかしかった」
「?」
「愛季はどうだ?満足いく写真は撮れたのか?」
「うん、沢山。蒼佑さんも観てみる?」
「ん」
そう言って愛季はこちらにカメラの液晶モニタを見せながら一ページずつ写真を送っていく。鼻唄を歌いながらとても楽しそうに。さながら都会でウィンドウショッピングを楽しむ年頃の女性のようだった。
「つくづく写真が好きなんだな。愛季はどういうきっかけでこの世界に入ったんだ?」
「蒼佑さんが通ってた学校って、写生大会みたいな行事ってあった?」
「ん?あったけど」
「私のところにもあった。学校の近所の公園に皆で行って、それぞれ思い思いの風景を絵に描いたの」
「ほう」
「みんなは草木やお花や遊具やお空を描いてたんだけど、私は公園の隅っこに捨てられてた、踏みつぶされてぺしゃんこになった空き缶を絵に描いたの」
「小学生にしちゃ、なかなかのセンスだな」
「はい。先生もクラスの子たちも、不思議そうな目で私とその絵を見てた。もちろん他の子たちが描いてた草木やお花や遊具やお空だって私は綺麗だと思った。でもその時の私にはそれよりもあの日陰でひっそり潰れた空き缶の方が綺麗だって思ったの」
「なるほど、それは周りからはちょっとズレたやつだって思われそうだな」
「そう。今でこそ私の撮った写真はいろんな人に注目してもらえてるけど、子供だった頃の狭い世界では、私はおかしな感性をした変わり者っていう扱いだった」
「それで友達ができなくて、ますます一人で趣味の世界に没頭して結果写真家の道に入ったと」
「そんなところ」
にゃはは、と愛季が愛想笑いを浮かべる。手元の液晶には先程愛季が心血を注いで撮影した田んぼ沿いの細い用水路の画が切り取られていた。
「愛季は、この画のどこが良いと思って撮ったんだ?」
「強いて言えば、目立たないところかな」
「目立たない?」
「蒼佑さんは普段道を歩いていて、こういう用水路を注意深く眺めたりする?」
「しないな」
「でしょ。多分、他の多くの人だってそう。私だって日がな一日それだけを眺めることはさすがにないよ。だから撮った。珍しくて」
「まぁ、珍しいかどうかって話をすれば確かに珍しいって話にはなるのか」
「あと、こういう田んぼの緑とか川や水路を流れる水って、夏って感じがするでしょ?稲は秋には収穫されちゃうから、一面の緑が見られるのは夏の時期だけだし」
「なるほど、季節感があるっていうのは同意しよう。―――ん?」
カメラの写真に意識を向けていると、ふと愛季ともソラとも違う何者かの気配を背後に感じ、思わず振り返った。
「「うわぁっ!?」」
俺と愛季が飛び跳ねるように身体を震わせたのはほとんど同時だったと思う。
「………」
振り返ればそこに一人の少女が無言で立っていた。白いワンピースに青みがかった黒い髪。そして何より目を引いたのは、結膜部分が金色に光る双眸。
「君は、昨日海岸を歩いていた子か?」
「蒼佑さん、この子と知り合いなの?」
「知り合いってわけじゃない、昨日ちょっと見かけただけというか」
夜の浜辺を一人で歩いている金眼の年端のいかない少女なんて忘れろという方が無理がある。まして出会い頭に謎の頭痛とフラッシュバックが起きれば尚更。
「………」
少女はこちらの声など聞こえていないかのように、ある一点をひたすら見つめている。それに愛季が気づいたのか、膝を折って目線を合わせると努めて優しく少女に話しかけた。
「私が撮った写真、見たいの?」
「………見たい」
やや遅れて返ってきた少女の声は、やはり昨日の夜に海岸で自分が聞いたのと同じものだった。
「そっか。うん、いいよ、好きなだけ見て?」
そう言って愛季は首からかけていたカメラを少女に寄越した。簡単な操作の説明だけすると、少女は食い入るように愛季の撮った写真の数々に目を通していく。
愛季がカメラの液晶に目を奪われている少女の横から再度話しかけた。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「………」
「お名前は?」
二度問いかけてようやく少女は愛季の声に気付いたようだった。
「………せつな」
「せつなちゃん。良いお名前。お外お散歩してたの?」
「さがしてた」
「探してた?何を?」
「―――“なつ”」
「………?」
この海辺の田舎はどうやら、“夏”を探す物好きが集まってくる町らしい。少女の返事に、正直なところ俺は少しだけ運命じみたものを感じていた。
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