アキの夏探し
棗颯介
1-1
―――醜い。
―――何もかも。
―――見るに堪えない………!
***
***
***
「暑っ………」
全てを焼き尽くすと言わんばかりに煌々と天高く燃え盛る夏の日差しと、肌に纏わりつくような熱気がひどく不快だった。
自分は今、東京から数百キロも離れたとある田舎町に来ている。幼少期まで俺はこの町に住んでいたそうだ。生まれ故郷ということになる。俺が五つになる年に両親が離婚して、母と共にこの町を出た。以来、今日まで一度もここを訪れたことはない。
あれから二十年以上が経った今になって俺がここにもう一度やって来た理由。それは—――。
「………」
目の前の墓石には確かに母から伝え聞いていた父の名が刻まれている。
先日父の訃報を人伝に知らされた。母と離婚してからは再婚もせず、一人でこの町で暮らしてそのまま静かに息を引き取ったことになる。
「―――寂しい話だ」
両親が離婚した理由は、成人した今になっても自分はよく分かっていない。母に訊ねる機会はそれこそ今まで無限にあったが、触れてはならないことのように思えてついぞ聞けていないままだ。
というより、あまり気にしていなかったのかもしれない。父と別れたのは五歳になるかならないかの頃だ。その当時は父の不在を寂しいと思ったかもしれないが、なにせ離婚という言葉の意味すらよく分かっていなかった時分だ。すぐにその不在にも慣れてしまったのだろう。俺はそういう人間だ。父からすれば薄情な話かもしれないが。
「………」
墓前に手を合わせはしたが、それ以外何も言葉は出てこなかった。父の顔はとうに記憶の彼方、昔の写真で知っているだけ。人となりについてもほとんど知らない。血縁関係があるだけで他人とほぼ変わらない。気の利いた言葉なんて浮かんでこなかった。
無言で父に背を向けて墓地を後にした。田舎だから土地は有り余っているくせにここの墓地は妙に手狭で、雑草があちこち生い茂っているのが暑さも手伝ってひどく不快だった。
父の墓参りと、父が住んでいた家の遺品整理。この二点が、俺が【海の見える町】にやって来た主な理由だ。
来たくて来たわけではない。父の死に際して他に動ける人間がいなかったから。ただそれだけ。消去法で選ばれて白羽の矢が立っただけだ。内心、自分の生まれ故郷だという町が今どんな場所になっているのか多少興味は持っていたのだけれど。
「何もないな」
目立った店もなければ道行く人もおらず、時間という概念すら失われつつあるのではないかと思うくらいだった。本当に何もない土地だ。海と山と空。申し訳程度の家屋と住民。後は電気・ガス・水道・ネットの最低限のライフラインが通っているだけ。ある程度栄えている場所へはバスが通っているが本数は一時間に一本以下だ。
ゆっくりと死んでいく場所。きっとここ以外にもそんな土地は世界中にごまんとあるんだろう。
僅かばかりも魅力的には映らなかった。たとえ自身の生まれ故郷であったとしても。
夏空の下、日差しで火照った俺の頭はこの町に対する興味だとか存在意義を探すことを早々に放棄していた。
「はぁ」
炎天下の中ではただ歩いているだけで著しく体力を消耗する。ようやく見つけた自販機―――これだけ何もない土地だというのに品揃えや機器の外観だけは都会と遜色ないのが妙に腹が立った――――でスポーツドリンクを買い、ほど近い浜辺の堤防で腰を下ろして人心地つくことにした。ちょうどこの辺りはキャンプ場になっているらしく、客の姿はなかったものの向かって正面、海に面している方の堤防がこの一帯だけ緩やかな階段状になっている。観光客向けにこういう作りになっているのだろう。
「っ………、ふぅ」
冷たい清涼飲料水を喉に流し込むと、徐々に火照った身体に涼が戻ってくる感覚があった。海が目の前にあって風が来るのもあるかもしれない。
「………青いな」
僅かに落ち着きを取り戻した身体で改めて見ると、目の前に広がる空と海はとても澄んだ青色をしていた。無数のビルが立ち並ぶ東京にずっと住んでいれば、当然こんな景色は御目にかかったことはない。約二十年前、この町に住んでいた頃にも自分はこの景色を見ていたのだろうか。
気付くと俺は懐からスマートフォンを取り出してカメラモードを起動し、遥か彼方の水平線がちょうど均等に横断する画角でシャッターを切っていた。
別にこの景色が美しいと思ったわけではない。
ただなんとなく、過去に見ていたかもしれない景色だと考えたときに、それをもう一度忘れてしまうのは勿体ないと思っただけ。合理的な思考に基づく行動。
その場で撮った写真の出来映えをスマホで確認していた時だった。
「その写真、素敵ですね」
「?」
それまでせいぜい波音しか聞こえていなかった無の世界に突然発せられた第三者の声。それと同時に自分の頭上に何かがヌッと飛び出てきて足元のコンクリートに影が生まれていた。
視線を上に向けると、そこにもう一つの小さな空が在った。
「―――誰?」
自分を見下ろしていたのは若い少女だった。金色の髪をポニーテールにまとめていて、それが夏の日差しに反射してやけに眩しく感じる。首には一眼レフカメラ―――カメラのことには詳しくないが多分そんなところだろう―――を下げていて、何より特徴的だったのは、左目の白目の部分だけが淡い水色に染まっていたことだ。
「わ、突然ごめんなさい。私、
「―――
「蒼佑さんはこの町の方なんですか?」
「いや、東京から。昔はここに住んでいた時期もあるらしいが」
「そうなんですか、じゃあ里帰りってことですね」
「まぁ、そうなるのかな」
隣に座り込んだ愛季という少女はニコニコ愛想のいい笑みを浮かべて話しかけてくる。その仕草を見て内心自分は美人局か何かではないかと警戒していたのだが。
「さっきの写真、よかったらもう一度ちゃんと見せてもらえませんか」
「―――はい」
言われるがままさっき撮った写真を表示したスマホの画面を彼女に向ける。さすがに出会ったばかりの相手にスマホを手渡す真似はしないでおいた。
「綺麗~………」
「いや、雑に適当に撮っただけなんだけどな。なんだったら今君の目の前にそっくりそのまま同じ景色が広がってる」
「そっくりそのままなわけないです。蒼佑さんが切り取ったこの風景はもう二度と撮れませんよ」
「いや、そんなこと」
こちらが何か言うよりも先に、少女は首から下げていたカメラを手にしてファインダーをのぞき込むと一瞬のうちにシャッターを切っていた。そして液晶パネルを何度かタップすると、撮った写真をこちらに見せてくる。
「ほら、見比べてみてください。空に浮かぶ雲の形、打ち寄せる波の模様や、その時の太陽の位置や光量。空と海の色。これらはすべて次の瞬間には移り変わって、まったく同じものは消えてしまってる。だから蒼佑さんのこの写真とまったく同じものはもう他の誰にも撮ることはできないんですよ」
「そう言われたら、そうだけど」
確かに、少女が今撮った写真と自分が先程撮った写真を見て、両者が全く同じ景色かと問われれば、正常な視力を持つ者なら全員がNOと答えるだろう。
「でしょう?」
そう言って少女はまたニッコリと笑った。
でも、と俺は続ける。
「俺が撮った風景写真は別に綺麗だとは思わない。君みたいに綺麗だって言ってくれる人もそれなりにいるんだろうけども、あくまで俺はね」
「そうですか?でも、綺麗だと思わないのに蒼佑さんは写真に収めたの?」
「いやなんというか、肉眼ではそう映らなくても写真に撮ってみたら案外綺麗に見えるのかもって思ったというか」
「あぁ、そういうことってありますよね。普通の人なら意にも介さず通り過ぎるような景色が、写真に撮ってみるとすごく良い味が出てるみたいな」
「まぁ、そんなことなのかな」
おそらく自分と彼女の解釈は少しずれている。
ずれるという話で言うと、自分は昔から美的感覚が他人と致命的にずれているのだ。早い話、周りの人々が口を揃えて美しいと言う景色、人、芸術品の類。これら等しくすべてに対して自分は彼らと同じ感情を持つことができなかった。物心ついた頃からずっとそう。
俺は何かを美しいと心から思ったことがない。
その“ずれ”を自覚したのは小学生に上がってからだったが、生まれ持った感性というのは如何ともしがたいものがある。だからそれを隠して周囲に合わせるのは地味に苦労した。尤も今年で二十六になる今となっては慣れたものだが。
ただ、一つだけ例外がある。
“美しい”とまではいかずとも、“悪くない”程度には思えるものがあった。
「君は、写真撮影が趣味なのか?」
そう尋ねると愛季という少女は嬉しそうに頷いた。
「はい、昔から写真を撮るのが好きで。今はいろんなところを旅しながら綺麗な景色とかを撮ってるんです」
「へぇ、つまりプロの写真家ってこと?それはすごい」
世辞ではなく本心だった。カメラマンや映像作家と呼ばれる業種の世界は無知だが、少なくとも誰にでもなれてかつ食べていけるような世界でないのは想像がつく。それをまだこんなに若い子がクリエイティブな仕事に就いているというのは素直に感服する。
「えへへ、ありがとうございます。個展とか写真集も出してるので良かったら今度見てくれると嬉しいです」
そうはにかんだ少女に対して、次に俺がこう尋ねるのは自然な流れだろう。誰だってそうすることを同じようにそうしただけだ。
「本名で活動してるの?それとも仕事用の別名義があるのかな」
「はい、アルファベットで
最初に彼女の名前を聞いて、その後写真家だという話を聞いてもしかしたらとは薄々思っていた。
AKI。それは俺が唯一“悪くない”と思える風景写真を撮っている写真家の名前。ここ数年の間にSNSで爆発的な人数のフォロワーを生んでいる、日本だけでなく海外でも名を馳せている新進気鋭の写真家だった。
***
AKIという写真家は謎が多い。SNSのアカウントは持っているし、定期的に写真展や写真集を世に出している。最近では企業とのタイアップで作品を撮って提供することもあるそうだ。
AKIの撮った写真はこれだけ広く世間に認知されているにも関わらず、当のAKI自身はまったくメディアに登場しないことで有名だった。SNSの投稿さえ、旅先で撮影した写真とそのタイトル以外にはまったく本人の言葉が流れてこない。さながら写真界のバンクシーのような存在だった。そのミステリアスさがAKIという写真家に魅入られるフォロワーが増える一因になっていたのは想像に難くない。かく言う俺も、気にならなかったと言えば嘘になる。
―――まさかこんな子供っぽい人だったとは。
某インターネット百科事典に掲載されている数少ないAKIについてのプロフィール情報を信じるなら、彼女は今年で二十四歳になるはずだ。自分とせいぜい二つしか違わない。
なのだが。
「うわぁ~、すごい!このカーブミラー、凄く良い!!」
「………」
視線の先では、どこにでもある電柱やら廃墟に無邪気に目を輝かせている愛季の姿があった。正確には輝いているのは目ではなく彼女が手にしているカメラのフラッシュだったが。
自分には彼女が何にそんなに心惹かれているのか理解できなかった。さっきも言った通り、俺は常人の美的感覚が綺麗に剥がれ落ちている。だがこれも言った通り、写真家AKIの作品の数々に俺が何かを感じているのも事実だ。
今彼女が興奮している生の風景では何も思わないのに、撮った写真からは魅力を覚えるというのも変な話だ。彼女の撮影技術のなせる技といったところか。カメラのことは門外漢だが。
「夏だなぁ~………!」
「夏ねぇ」
目の前にいる愛季は実年齢と比べればかなり若い、というか、幼い印象を受けた。容姿も声も振る舞いも。世の中の厳しさだとか挫折といった、それなりに年齢を重ねた人なら大小なりとも刻まれている“傷痕”みたいなものがどこにも見当たらない。
嫌なことからひたすら目を背けて、好きなことだけを追求して生きてきた。そういう人生を歩んできたのだろうと思った。
「ほら、見て見て蒼佑さん!この写真、すっごく良いと思わない?夏の空の青色と遠くの山の緑が綺麗に調和してる感じがして」
「あぁ、うん。良いと思うよ」
さっきからずっとこの調子だ。この周辺にあるものや遠くに見えるものをカメラに収めては俺に嬉々として見せに来る。出会ったばかりで素性の知れない俺に。他所から来た上にこの何もない辺鄙な土地ではろくに話せる相手もいないのは理解できるが、それにしたって警戒心が些か無さすぎやしないだろうか。こういうところも含めて子供っぽい女性だった。
「なぁ、愛季さん」
「多分年下だし愛季でいいよ。なに、蒼佑さん?」
「どうしてこんな何もない町に来たんだ?」
別に理由そのものにさして興味はなかった。とりあえず何でもいいから適当に話しかけて一度彼女にカメラのシャッターを押す手を止めてもらおうと思っただけだ。
「“夏探し”の旅です」
「夏探し?」
「私ね、この町に夏を探しに来たの」
そう答える愛季の笑顔は夏影に照らされて、とても輝いて見えた。
「蒼佑さん、この町に灯台があるらしいんですけどよかったら一緒に観に行きませんか」
「なんで」
「一人じゃ行けなくて。徒歩だと行きづらいところにあるんです」
「アシスタントとかマネージャーみたいな人は連れてこなかったのか?」
「私フリーの写真家ですし。それに私、車の免許は持ってるんですけど完全にペーパードライバーなので。レンタカー借りるわけにもいかなくて」
「はぁぁ」
そんな風に泣きつかれ、乗り掛かった舟もとい車ということで、俺達はいま車で町の海岸沿いの道路を走っている。東京からこの町に来るにあたって新幹線や飛行機を使う足もあったのだが、旅費をケチって車を選んだのは幸か不幸か。
「本当に助かりました。お礼に後でご飯でもご馳走させてください」
「いいよ、そんなもの」
「蒼佑さん、今は夏休みですか?」
「一応な。東京でエンジニアをやってるんだが、リモートワークだからWi-Fiさえ飛んでいればどこでも仕事はできる。しばらくはこの町にいる予定だ」
「へぇ、すごい。私の知らない世界」
助手席に座る愛季は車窓の向こうに広がる未知の土地の風景に空色の片眼を輝かせていた。
「ずっと気になってたんだが、その目、カラコンでもつけてるのか?」
「えっ?あぁ、この左目のことですか。これ生まれつきなんです。私の家系はみんなそうらしくて」
「所謂オッドアイってやつだよな。猫に時々現れるっていう。人がそうなるのは珍しいな」
「私は結構気に入ってますよ。綺麗ですから」
そう言って彼女は車のサイドミラーに映る自分の空色の瞳を改めて覗き込んだ。
「その、見える視界に異常とかはないのか?」
「はい、幸いなことに。左目で見たら全部が真っ青に、なんてことはないです」
「そうか、それは良かった」
「もしそうだったらどんな世界が見えるんだろうって時々ちょっとだけ気になることはありますけど」
「空に浮かんでる鳥、いや場所によるか。海に沈んだ過去の文明遺跡を泳いでいる魚みたいな気分が味わえそうだ」
「にゃはは。それも楽しそう」
話をしているうちに道はやがて一車線の上り坂になり、左右に鬱蒼とした木々が現れ始める。山道に入っていた。
「人通りと車通りの少ない土地でよかった。こんな道で目の前から対向車が来られたらかなわん」
「昔はこの山のてっぺんにテーマパークがあったそうですよ。今はもう閉鎖されてるみたいですけど」
「そりゃ初耳だ。まぁ、こんな辺鄙な場所に建ってちゃアクセスも悪いだろうし潰れるのも無理はない気もするけど」
俺がこの町に住んでいた子供の頃には既にあったのだろうか。記憶にない。
「併設するホテルはオーシャンビューがとても綺麗だったらしくて。あと朝日や夕日も。営業してる時に一度行ってみたかったなぁ。あ、蒼佑さん、この先の分かれ道を左です」
「はいよっと」
これから行こうとしている灯台はカーナビにも載っていないマイナーな場所らしく、隣でスマホの地図アプリを見る愛季にガイドを任せていた。
“夏探し”と、彼女はそう言った。その言葉の響きをクサいと思いつつも、一方で心の何処かではそれに何かを感じさせられた自分がいるのも事実だった。
俺は何かを探している。いつの頃からだろう。はっきりとそれを自覚したのはつい最近のことだ。昔から旅行や知らない土地に行くことは好きだった。何か言葉で形容し難い感情に背中を押されるように、暇と金さえあれば他に具体的な目的が無くても構わなかった。
俺は、自分がこの世界で生きるに値する何かを探している。ずっと。
愛季に同行(というか運転手役)を頼まれてそれを俺が引き受けた理由は、煎じ詰めればそこに端を発しているのだと思う。
―――まだまだ青いなぁ、俺も。
「あ、見えてきました!」
「ん、あれか」
鬱蒼とした木々に囲まれた山道を進む中、突如視線の先に白磁のように真っ白な塔が現れた。その背景には青い夏空と水平線が僅かに顔を覗かせている。写真家AKIの好きそうな風景が広がっていることがこの距離からでも予感できたが。
「うわぁぁぁ!すごい!世界が全部私のものになったみたい!」
―――大袈裟だなぁ。
「夏だぁ………っ!」
車を降りて灯台の敷地内に入ると、愛季のテンションは最高潮に達したようだった。俺の存在など忘れたかのように夢中でカメラのファインダーを覗き込んでいる。
実際、それは普通の人々が見ればその多くが心動かされる風景なのだろうと思った。目の前には空と海の青がどこまでも広がり、少し視線を左右にずらせばここまで登ってきた山の木々の緑が生い茂っているのが見える。
その山の稜線を目で追うと、人の気配が感じられない大きな建物と、稼働しているのか分からない鉄塔があった。おそらく道中に愛季が話していた件のテーマパークの廃墟なのだろう。
少し視線を上に向けてみた。海沿いゆえか空を飛ぶ鳥の数がこの辺りは心なしか多い。なんという種だろう。愛季なら知っているのかもしれないな。当の愛季といえば「青が澄んでるよぉ………」などとよく分からない言葉を一人で口走りながら今にも泣きそうな表情をしていた。
やはりこの景色を見ても、俺は少しも心動かされない。
それを理解しつつも、俺は惰性のようにズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出し、カメラモードを起動させていた。これはただの旅の記録だ。愛季と違って別に誰かに見せるものでもない。
何枚か、アングルを変えて撮ってみた。空と海。空と海と山。空を背景にした灯台。観光客がそれなりに訪れるのか、灯台の敷地内にはベンチがいくつか設置されている。そのうちの一つに腰を下ろして改めて撮影したデータを見てみた。
やはりピンと来なかった。
「スマホで撮ってるのがよくないのかもな」
「そんなことないです、センスあると思いますよ」
「うわっ」
気付けばまたしても背後から愛季がこちらの手元の写真を覗き込んでいた。
「スマホとちゃんとしたカメラじゃ性能も段違いなんじゃないのか?」
「もちろんいろいろこだわりたいのなら一眼レフとかミラーレスとか、動きのあるものを撮るならアクションカメラとか、ちゃんとした機材を使った方がより良い写真は撮れます。でも最近のスマートフォンでもそれと遜色ない写真は全然撮れますよ。それこそ今蒼佑さんが撮られたみたいに、見えている風景をそのまま切り取るだけの写真とかなら」
「そうなのか?」
「カメラとスマホで一番分かりやすく違いが出るのは、倍率を上げてズームしたときの画質の粗さって言われてます。逆に言えば等倍率でありのままを撮る分には差はそこまで大きくありません。最近のハイエンドなスマホだとレンズの画素数は一般的なカメラにも見劣りしないスペックですし」
「詳しいな、さすがプロ」
しかしそうなると、きちんとしたカメラで自分がこの風景を切り取って撮影したとしても、その出来映えにほとんど差異はないということになる。であれば、使う機材を変えたところで自分の受け取り方が変わるということはおそらくないのだろう。
そのことに対するネガティブな感情が顔に出ていたのか、愛季が励ますように声をかけてきた。
「蒼佑さん、やっぱり写真を撮る才能あると思いますよ。映ってる情景に対するこだわりとか、画角に収める時のそれぞれの被写体の占める割合、今回だと空とか海とか山とか。それらの配分も絶妙で」
「世界的に有名な写真家に言われても世辞にしか聞こえないな」
「え?蒼佑さん、私のこと知ってるの?」
そういえば自分が彼女のことを知っているという話はしていなかった。
「あぁ。熱心に追ってるって言ったら嘘になるけど、以前からSNSなんかであんたの作品は見させてもらってる」
そう言うと愛季は感激したように破顔して俺の手を握ってきた。
「うわぁぁ、ありがとうございます!!私、あの時蒼佑さんに声かけてよかったぁ」
「いや、でも君くらい有名になったらフォロワーなんて腐るほどいるだろ。それこそ俺なんかよりよほど熱心なファンだって」
「そんなの関係ないです!蒼佑さんは私の撮った写真を好きでいてくれてるんですよね?」
「まぁ、はい」
「それが嬉しいんです。それだけで私頑張ってよかった、生きててよかったって思えるから」
「『生きててよかった』か」
「………?」
「いや、うん。それで喜んでくれたのなら、よかった」
「はい、本当に………!」
彼女が羨ましいと思った。この無垢な少女は、自分にとって生きる価値のあるものを既に見つけていて、それを数えきれない人々に肯定されている。俺に無いものを彼女は持っているんだ。
―――出来のスケールが違い過ぎて嫉妬する気にもならないけど。
ベンチに座りながらそのままボーっとしていると、不意に目の前の柵の上に―――訪れた人が海に落下しないためのものだ―――、一羽の黒い鳥が舞い降りた。
「あ、ソラ」
「?」
隣にいた愛季が柵の上に現れた鴉に向かってそう声をかけると、当の黒鳥は「カァ」と一声発する。まるで返事をするかのように。
「一人でどっか行っちゃうんだもん、心配しちゃったよ。どこ行ってたの?」
「カァ、カァ」
「ふむふむ」
「ガァ、カァカァァ」
「ふぅん、なるほどね。そんな場所があったなんて知らなかったな。ソラ、教えてくれてありがと!」
―――鴉と話してる、のか?
一連のやり取りを見て訝し気な視線を送っている俺の存在に気付いた愛季が、あくまでにこやかに説明してくれた。
「この子、ソラっていうんです。うちの実家で一緒に住んでる家族なんですけど、私と一緒に旅してて」
「ペット?鴉が?」
「―――家族でもペットでもない。余は天の遣いぞ」
突如聞き覚えのない声が届いた。この辺鄙な町の中でもさらに奥まったところにあるこの灯台に来ているのは、俺と愛季の二人しかいないはずだ。少なくとも今は。
念のために周囲を見回してみたがやはり人影は見えない。傍に立つ灯台も無人で扉は堅く閉ざされているし人の気配はなかった。
「ここだ、人間」
再度聞こえた誰かの声のする方に目を向けると、やはりというべきかそこにいたのは—――。
「―――鴉が、喋ってる?」
「やはり珍しいか人間。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
オウムのように人の言葉を喋る鳥がいることは当然知っている。だが鴉が人語を解するなんて話は聞いたことがない。驚くなという方が無理がある。
「………腹話術?」
そう口走りながら愛季の方を見るが、「私、こんな低い声出せないよ」と返された。
「まぁ驚くのは無理もないが、決してお前に危害を加える意志はない。見ての通り、ちょっと人間のような口を聞くだけの無害な鴉だ。あまり警戒せず受け入れてもらえれば助かる」
「それは、どうも。ご丁寧に」
いろいろと聞きたいことは山積みだったが、ひとまず今はこの状況を受け入れることにした。
―――一体何なんだよ、今年の夏は。
頭を掻きながら空を見やると、消えかけた飛行機雲が空を奔っていた。さながら空という青いキャンバスに走る白線が、ここの白い灯台と交差しているように見える。
画になる構図だとは思ったが、やはりそれを見ても自分は何も感じなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます