夏の終わりに

ねむ

夏の終わりに(一話完結)

「せんぱーい、花火しましょうよお」

 何の前触れもなく訪ねてきた後輩は薄べったい花火のファミリーパックを片手にそう言った。

 窓の外は日が傾き始め、空は紫がかっていた。ノックの数は数知れず、しまいにはチャイムまで連打し始めた後輩に対しここは先輩として正すべきだと思った。

「おいおい、せめて事前に連絡するとか、そうでなくとも隣人の迷惑になることはやめたほうがいい」

 後輩はゆっくりと首を傾け、心底不思議だ、と言う顔をした。

「えー。だってどうせ先輩、暇じゃないですかあ。それなのにすぐに出ない方が悪いんですよお」

 それに、と攻勢が一転しそうになったので早々に話を切り上げ、後輩の言葉に従うことにした。クーラーで涼しく湿度の低い状態に保たれていた部屋の中とは一転、外に出るとじめっと暑苦しい空気が私の身体を包んだ。

「あ、つ…」

「せんぱぁい、早くいきましょうよお」

 長髪を揺らしてこちらを振り向いた後輩は胡乱に笑っていた。


「せーんぱい、早く始めましょうよお」

「だったら手伝ってくれよ」

 私の言葉を意に介せず後輩は波打ち際で足の裏をくすぐる砂の感触を楽しんでいた。その間私は花火のビニール包装と格闘する。ファミリーパックなだけに包装の数が多い。べりべり、べりべりと人工的な音がさざ波と交互に聞こえてくる。

 結局その作業が終わったのは後輩が波との戯れに飽きて私の横に戻ってきた頃だった。

「せぇんぱい、できましたか?」

 こちらをのぞき込んでくる後輩の長い黒髪がパラパラと私に降りかかった。潮の香りとは違う、後輩の髪の香りがなんだかいけないものな気がして、顔を逸らした。

「え、なんですかあ?」

「…ほら、準備できたから。やるんだろ」

「わーい」

 後輩は花火の束を持って飛んで行ってしまった。まったく、落ち着きのない奴だ。

かち、かちと点火棒が音を立てて桃色をしたろうそくに火をつける。潮風で大きく揺れる姿は実に心もとない。

「最初はこれにしよっと」

 後輩は蒲のような形をした花火を一本取ると、蝋燭に近づけた。しかし、先端が僅かに焦げるだけで一向に点火しない。

「あれ?着かないなあ。せんぱーい」

「はいはい」

 後輩がずい、とこちらへ押し付ける花火を受け取ろうとすると急にぼ、と火花が上がった。

「うわっ、あぶねえ」

「ひ」

 後輩は少し体をびくつかせたが、すぐに、と笑みを作り

「ありがと、先輩」

 と言った。こちらを向いた顔は花火の暖かい光に照らされてその凹凸がより鮮明に見えた。一度、胸が大きく脈打った。なぜかはわからない。

「ん」

 やっとのことでそれだけ言うと、後輩はもうそこにはいなかった。


「先輩、これってなんですかあ」

 後輩は他の花火とは違う、小さなこよりを持っていた。赤色で、片方には薄い紙、もう片方は僅かに膨らんでいる。

「ああ、それは線香花火だよ」

 一本を受け取ると、膨らんでいる方をそっと蝋燭に近づける。先端が赤く光り、丸まってサクランボのような形状が出来上がる。それはしばらく粘度の高い液体のようにプルプル震えていたが、やがて小さな火花を上げ始めた。それは波の音で掻き消えてしまいそうなほど小さな音を立てていた。

「あ、落ちちゃった」

 横で後輩が大きく仰け反ったが、私は自分の線香花火に意識を集中させていた。ぱち、ぱちとけなげに小さな火花を上げている。なぜだろう、最後に家族と行った花火大会を思い出した。何年前の事だったか、もう忘れてしまったけど…

「あ」

 ぽと、と赤い球体が落下した。残念だけど、もうおしまいだ。花火のカスで恐ろしく澱んでいるバケツの中へ投げ込むと、次の花火を取りに後輩の方へと向かった。


「最後の一本、やっていいですかあ」

「どーぞ」

「やったあ」

 恭しく蝋燭に手持ち花火を近づける。静寂。波の音以外に聞こえなくなるこの瞬間が、ほんの少し好きだ。

 しゅ、しゅう、と小さな音を立てて花火が咲く。赤、緑、とゆっくり色が変わってゆく。

 後輩の顔をそっと見ると、その瞳の中で小さな花火が踊っていた。ぱち、ぱちと音を立てていたそれはやがて勢いが弱くなり、最後に一回小さく光ると、そのまま消えた。辺りが暗くなる。いつの間にか日が沈むのはこんなに早くなったのか。

「あーあ。楽しかったあ」

 後輩は少し名残惜しそうに言った。海から吹いてくる風はほんの少し涼しくて、上気した私たちを諫めてくれているようだった。

「んじゃ、片付けるか」

夏が終わる。そう思った。


 花火が終わった後の私たちは口数も少なく解散した。パチパチと音を立てて鮮やかな光と咲かせた光景が、終わった後の真っ暗な海の寂しさを増幅させていた。

「またやろうな」

 なんだかこの雰囲気に耐えかねて、柄にもないことを口走る。まずい、後輩に茶化されると思いその顔を見ると意外にも後輩は表情を明るくした。

「言質取りましたからね!約束ですよお」

 その笑顔が脳裏に焼き付いた花火を重なって、ほんの少しくらくらした。

「…ああ」

 少しだけ次の夏が待ち遠しくなった。気がした。

                                   終わり

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夏の終わりに ねむ @nemu-san

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