ショートホープと走光性

スギモトトオル

本文

 私は、事実として小さなただの女の子だった。小学生で、甘ったれで、まだ世の中のことなんて、砂場の一粒くらいしか分かっていなかった頃のことだ。

 東京湾の真ん中へどこまでも続いていくようなアクアラインのその長い橋に、私は興奮しきりではしゃいでいた。珍しく両親揃って取れた休日のドライブの目的地はお台場だったはずなのだけど、私のその日の記憶には途中に寄った海ほたるのことばかりが残っている。

 海ほたるは洋上に造られた人工島で、ちょっとした観光スポットにもなっているパーキングエリアだ。私は車を降りるや否や、写真を撮ったりソフトクリームをせがんだりして忙しかった。

『ウミホタルの発光ショーですって』

 パンフレットに書かれているのを見つけたのは、母だった。私の『行く!』の一声で私たち家族三人はそのイベントを見ることになった。

 真っ暗な部屋。どきどきしながら見つめる私の視線の先で、米粒ほどの小さなウミホタルたちが淡い光を放ちながら泳ぎ回り、水槽全体をぼうっと幻想的に光らせる。

 花火で空中に線を描くような、素敵な色のマーカーで画用紙を彩るような。

 ウミホタルたちが描くネオンの模様は、私の心に静かな衝撃をもたらしていた。シュワシュワと炭酸水が弾けるような、些細ささいで刺激的な感動だった。

『あれはね、”危険が来ているぞ”っていうサインなんだよ』

『え、そうなの?』

 後ろに立っていた父が、私にだけ聞こえる声でそう教えてくれた。

『ウミホタルには、光から逃げようとする性質があるんだ。危険に気づいた一匹が、周りの仲間たちをそこから逃がすために、光る液体を身体から出しながら泳ぎ回るんだってさ』

 今思えばショーの待ち時間にでもスマホで調べたのだろう父の説明を聞きながら、不思議な思いで水槽を見つめ続けたのを憶えている。そのうち、焦れた母が煙草が吸いたいとぶつぶつ言い出したので、長くはそこにいられなかったが、綺麗な青白い発光液を出しつつ遊泳するウミホタルたちの姿は、私の心に不思議な高揚こうようを残して留まっていた。


(負の走光性、か……)

 ブレーキを加減しながらゆっくり進入すると、ETCのゲートが開く。

 料金表示を視界の端で捉えて、思わず口の中で舌打ちした。やっぱり、平日のアクアラインは高い。時間に余裕があれば、ぐるりと東京湾沿いを回ってきたのに。

 バックミラーに遠く、東京湾に浮かぶ海ほたるの人工島の小さな明かりがかすかに見えた。両親と一緒にドライブしたのなんて、あれから何度あっただろう。家族旅行の懐かしい記憶と共に、豆粒みたいな光は遠ざかっていく。

 大人になった私は、自立して車も持ち、都会に家を借りて住み、男とときどき暮らしている。

 立派なかばんを持ち、化粧をして、自分の世界のことなら何でも分かっている顔をすることに慣れてしまったが、けれど本当はいつまでも、あの日の小さな女の子にずっと憧れているのかもしれない。そんなことを、ときどき思う。

 海底トンネルから抜け出た先の川崎の空は、既に闇の中だった。星の無い夜空に細い月が浮かんでいる。

 あの人の飛行機は、もう羽田の滑走路に着いている頃だろう。ロータリーに並んで待つのは嫌いだから、極力丁度になるように家を出る時間は調整してきた。

 向こうの到着が早ければ少し待たせることになるだろうけど、それくらいでいいのだ、きっと。お互いに不平を少しずつ預けている関係の方が安心できる。

 大きく右に切っていたステアリングをまっすぐに戻すと、道は下り、海の中を通る短いトンネルへと再び潜っていった。

 トンネルの中を走っていると、時間の流れが外から切り離されたように感じることがある。淡々と頭の上を通り過ぎていくナトリウムランプの演色性えんしょくせいの悪いオレンジ色が、フロントガラス越しの景色を、なんだか冗談みたいに現実味のない薄っぺらな世界へと変えてしまうのだ。

 今の自分を、どこか別の宇宙にでも連れて行ってくれそうで、ささやかな恐怖と興奮が心の表面にさざなみを立てるのだ。

 車はまたすぐに地上に出た。あれほど長かったアクアラインの海底トンネルの後だと、ずいぶん短く感じてしまう。頭上は相変わらず暗いけれど、前方には沢山の明かりが浮かんでいる。もう、羽田空港はすぐそこだ。

 前方に分岐の道が見えて来て、ふと、このまま空港へは行かずに通り過ぎてしまおうか、と考えがよぎった。全て放っておいて、夜の環八かんぱちへ車を走らせるのだ。

 想像する。暗闇と、街路灯と、夜の摩天楼まてんろう。エンジン音だけをそばに感じる、静寂と振動。目の前にのびるアスファルトの道にただただ従順にアクセルを踏む心地よさ。

 そんな夢想をしながらも、現実の私の車はまっすぐ分岐を通り過ぎ、その次の分岐を左折して空港へと入っていく。


 光から逃げるウミホタルの、私は仲間なのかもしれない。


 ウィンドウを開けて、煙草の煙を吐き出す。

 夜のロータリーは思ったよりも混んでいて、人待ちのテールランプが点々と長い列を成している。私は最後尾に車をつけて休憩がてらに一服していた。

 二年前のあの日。私はその時のことを思い出している。

 フラッシュライト。轟雷ごうらいの拍手。あの人は光の中だった。海外の大きな賞に選ばれて、彼は自分のチェロとともにウィーンの式場にいた。私は日本のアパートでそれを見ていた。ワイドショーに取り上げられる彼の姿はどこか白々としていて、なんだか別の惑星の出来事みたいだった。

 ほんの一瞬だった。隣にいた、無名だったはずのソリストは、いつの間にか歓声の中心にいて、スポットライトの下で一張羅いっちょうらのスーツに身を包んで脚光を浴びていた。

 たくさんの人が彼の元へ来ていた。誰も彼もが笑顔を浮かべ、賛辞さんじを並べながら、表情の下ではいかに自分が得をするかばかりを計算していた。誘蛾灯ゆうがとうに集まる昆虫のように、私にはそれが見えた。

 私は、彼の傍に居られなくなった。誰に邪魔をされたわけでもなければ、彼にそう望まれたわけでもない。ただ、居場所じゃない気がして自分から遠ざかってしまった。

 み手で擦り寄る連中と同じにはなりたくなかった。でも、結局は同じようなものだったのかもしれない。光に集まる虫と、光から逃げる虫。私だって、ただの矮小わいしょうな自分をさらけ出したに過ぎなかったのだ。

 本当に必要だったとき、私はあの人の近くにいなかった。最も忙しく、最も誰かにそばに居て欲しいときに私は彼から逃げた。彼のその光の舞台の当事者になることを、無意識に避けていた。


 二本目の煙草が短くなったところで、助手席の窓ガラスがノックされた。

「早かったわね」

「今日は荷物が少ないからね。受取所で待たずに出てきた」

「そう」

 くたびれた革の旅行鞄を後部座席に置いて、彼が乗り込んで来る。

「また煙草? やめたんじゃなかったの」

「やめるのをやめたの。嫌いだった?」

「いや。昔は僕も吸ってたからね」

 そう言いながら、ちら、と私の手元を見て口の端を歪めるように笑う。

「ホープとは君らしいね。まったく、タフな人だ」

「悪いけど、もう一本だけ吸わせて。あなたが来るのが早かったから、足りないのよ」

「どうぞ、おおせのままに」

 黄色い箱から取り出して、くわえる。小気味いい音を立てて銀色のジッポライターを開く。

 摩擦。手のひらの中で、闇に火が灯る。ジェットエンジンの音が真上をけたたましく通過していった。

 煙を車外に吐き出しながら、隣に座るこの人は私のことを恨んでいるんだろうか、ゆるしているんだろうか、と考えた。

 ちらりと隣を見ると、夜でも掛けているサングラスの下で彼が薄く微笑んだ。私はこの人に、今更何を与えてあげられるのだろう。

 煙草が短くなっていく。

 お腹が空いていることに気がつく。そうだ、これから何処どこかに二人で食べに行こう。もう夜も遅いけど、都内なら店はいくらでもあるだろう。刺激的な環八を走らせて、夜の濃密な空気を吸いに行こう。

「行こっか」

 私が最後の煙を吐きながら言うと、彼は穏やかに頷いた。私は携帯灰皿を鞄から取り出す。

 ジュッというかすかな音とともに、蛍火のような小さな煙草の火を消した。


〈了〉

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