第5話 逃走劇の真実

 剣奴には解放される方法が一つだけある。コロシアムで百勝を果たせば、国王からの賛辞として褒美を得られる。そうして与えられる権利を使えば剣奴は自由になれるのだ。

 前人未到の全戦全勝を果たしているオルファは当然、とっくの昔に百の試合をこなしているが、これまで褒美を求めなかったから未だに剣奴として戦っている。

 自由になれるのに見せ物を続ける姿はいっそうオルファへの恐怖を掻き立てて、だからオルファがエデを求めた時に誰も拒めなかった。

 

 エデの素性は、枢機卿にオルファの殺害依頼を出した国王と一部の重臣しか知らないことだ。彼らがオルファの要求を呑んだため、エデは名実ともにオルファの所有物になってしまった。

 かくしてオルファの物になったエデは、オルファに与えられた個室に連れて行かれて、真っ先に身体を洗われた。

 

「うん、やっぱり綺麗な髪」

 

 ベッドの上でオルファはエデの藍色髪を手に取って、嬉しそうに微笑む。黙って綺麗にされるがままになっていたエデは、ため息を吐き出しながら尋ねた。

 

「……私なんかを欲しがって、何をするつもりなんですか?」

「あら、私はお友達が欲しかっただけよ。ここ、男の方しかいないんですもの」

「なら恩赦の権利を使う必要もなかったでしょうに。私だってコロシアムの剣奴なんだから」

「エデ、嘘をついてはダメよ。リタニアのあなたが剣奴になるはずがないでしょう」

 

 さらりと、オルファはエデをたしなめる。オルファがあまりにも当たり前のように言うものだから、エデも違和感に気付くのが一瞬遅れた。

 

「……え。どうして、私のこと」

「驚いたわ。まさかこんなところで、顔を知っている子に会うなんて思っていなかったから。四年ぶりね、エデ」


 覚えているのは当然だろう、と告げるような声音だった。オルファは絹織物に触れるような手つきで、エデの髪を梳かしていく。

 一方、エデはオルファの言葉を理解できずに固まっていた。面識があるのは事実でも、ただの孤児にすぎなかった自分のことをオルファが覚えている理由がわからない。


 どうして。どうして。どうして、と。エデの思考は疑問ばかり溢れさせる。エデが黙りこくっているからか、オルファは不安げな声を出した。いとも呆気なく大人を斬り捨てる姿からは想像できない声は、エデを現実に引き戻す。


「もしかして、覚えているのは私だけだったのかしら」

「……いえ、私も覚えています。あなたが私に気付いているなんて思わなかったから、びっくりしただけ」

「それならよかった。あのとき、エデは私の手を褒めてくれたでしょう?」

「手……」


 エデは四年前の記憶を辿る。神を信じていたときのことは思い出したくないけれど、オルファと交わした言葉はすぐに蘇った。

 令嬢にしては、やけにしっかりとした手のひらに感じたのだ。当時のエデは、それが武器を振るうことで硬くなった手だということに気付かなかったけれど、何かを努力している証だということは察していた。


「馬に乗っているからだと、言っていましたね」

「ええ。私が剣術を習っていることは内緒だったから、いつもそうやって誤魔化していたの。でも、初対面で気付かれたのは初めてだったせいか、エデのことはずっと印象に残ってて」


 オルファはくすくすと笑う。その姿に、貴族令嬢から剣奴に堕とされた悲嘆は見えない。エデは、記憶に残る令嬢時代のオルファと、剣奴としてのオルファがまったく一緒だということを不意に理解した。

 自分は人を殺してから、神を信じることも、自分の意思を持つこともやめたのに。変わった自分と変わらないオルファの差が不思議だった。


「……オルファ。あなたは、辛くないのですか?」

「辛い?」

「私はあなたが剣奴に堕とされた理由を知りません。けれど、ろくでもない理不尽があったから、あなたはここにいるんでしょう?」


 それは本当にオルファだけに向けた問いかけなのか、エデ自身よくわかっていない。オルファは「そう」と小さく相槌を打って、問いに答える。


「今の私は剣奴としてご飯を食べているだけ。私がオルファだって事実は何も変わらないから、そこまでちゃんと考えていなかったかも」


 オルファはエデの髪を束ねて編み込みを作る。満足できる仕上がりになるとベッドから降りて──エデの視点からすると何一つ前触れなく、窓に嵌められた鉄格子を強引に取り外してしまった。


「……え?」


 堅牢なはずの鉄格子が、ごしゃっと音を立てて破壊された。予想外の光景に、エデが自分の視覚と聴覚を疑っていると、両手をオルファに包まれた。

 オルファはにこりと、たおやかに笑っている。そうして、今しがたの破壊行為の意図をエデに告げた。


「私は貴族でも剣奴でも何も変わらない。でも、お腹が空くのは辛いから、そろそろ逃げようと思っていたの」

「え? ……え?」

「ここ一ヶ月くらい、どうにも私を殺しに来る人が増えたように感じていて。そこにリタニアから送られたあなたでしょう? この国が戦争に入るなら、剣奴にご飯をくれる保証はなくなっちゃうわ」

「え、えっと、ご飯?」

「寝る場所も大事だけれど、最優先はやっぱりご飯だって山ごもりで学んだの。だから、エデ。一緒に逃げましょ」


 オルファは有無を言わさずにエデの身体を抱き上げると、階段を降りるような気安さでコロシアムの最上階から飛び降りた。

 こうして無敗の剣奴とその所有物はコロシアムから脱走に成功するが、前代未聞の脱走劇が大きく話題になることはなかった。


 オルファの祖国がザザとの戦争に突入したのは、二人の逃走からわずか半月後。オルファを恐れ、センセーショナルな話として取り上げるはずの国民たちも、侵略の危機を前にすれば逃げ出した少女二人のことを気にかける暇などなかったのだ。

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