わたしだけでつくられたあなたになって

エテンジオール

第1話

「明日のお昼、わたしが作ってきてもいいかな?」


 始まりは、確かそんな言葉だったと思う。高校二年の秋、まだ少しじっとりとした湿度が残る教室で、つきあい始めたばかりの彼女はそう言った。お互いに何となく心が惹かれて、いつの間にか友達以上恋人未満の関係を楽しんでいた想い人。周囲から見れば明らかだったらしい両片思いの状態が、お節介な共通の友人によって変えられた次の日。


 人生初の恋人に浮かれ、戸惑い、せっかく恋人になったのだからなにかそれらしい事をしようと話していた放課後。ただ出かけるだけでは今までと同じで、けれどそれらしいところに誘うには気恥ずかしさが勝って。お互いに何かしら思いついているはずなのに、そのことを伝えられないまま過ぎた1時間。お節介な友人に見られたら、間違いなく白い目で見られていただろう空気を変えたのが、その言葉だった。


 緊張した様子で放たれた高里からの提案に、僕が返したのは当然イエス。女の子にお弁当を作ってもらえるなんて、とても恋人らしい行いだ。逆に女の子にお弁当を作るのも、ただの友達ではできないことである。作る側の好意と、受け取る側の作り手への信頼。それが両立して初めて成り立つ“手作りお弁当”は、まさに僕らが求めていた恋人らしい行動の体現と言えるだろう。



 少し大袈裟なくらいに喜んで賛成した僕を見て、高里は安堵したように胸をなで下ろし、そのままふにゃりと笑顔をうかべる。僕が高里への好意を自覚したキッカケになった笑顔。見慣れたはずのそれに、何故か胸が高鳴ったのは、それが僕の為だけに向けられたという優越感からか。


 自分でも理由のわからない高揚感を隠して、高里からの質問に答える。普段のお弁当についてや、好きなおかず、苦手なおかずについて。最初お弁当のものに限定されていた質問内容はいつの間にかオムレツの加熱具合やラーメンの味など、お弁当向きではないものにまで及び、一方的な質問は双方向の雑談になった。



「食材の買い物にも行かなきゃだから、そろそろ帰らないと。……明日のお弁当、楽しみにしててね」


 途中まで一緒に帰ろうとした僕に、何買うか見られたくないから10分くらい時間を潰してから帰ってとつれないことを言って、うちの近所に住んでいる高里は恋人を置いて帰っていった。


 これまでだって別々で帰ったことなんていくらでもあったし、むしろ一緒に帰ったことの方が少数であるのに、何故かひどく寂しい気持ちになりながら一人座り、言われた通りに時間を空けてから帰る。当然、先に出た高里に途中で追いつくなんてこともなく、僕は家に帰るまで一人だった。高里が行きそうなスーパーによれば遭遇できるんじゃないかなんて考えも浮かびはしたが、実際にやったら時間を潰した意味が無くなるのでやめておいた。




 お弁当のことが気になりすぎて、晩御飯の味も満足にわからないまま夜が過ぎる。せっかく僕の好物を作ってくれた母は、心ここに在らざる状態で呑み込まれたことに少し不服そうにしていたが、そうなった理由を伝えたら明日のお昼はお赤飯にしようと言い出した。喜んでくれているのか、息子の青春を台無しにしようとしているのか、判断に困る発言だったが、きっと何も考えていないだけである。僕の母はそういう人間だった。



 案の定前日のやり取りを忘れてお赤飯とからあげのお弁当を用意していた母の作業の手を止めさせて、お弁当代替わりの五百円玉を受け取る。もちろん僕へのお小遣いではなく、わざわざお弁当を作ってくれる高里への手間賃だ。『もしかしたら気を使って、お金なんていいよって言うかもしれないけど、貰ってばっかりの恋人関係は不健全だからその時は無理やりにでも押付けな。名目はなんでもいいけど、デート代の足しとでも言っておけばいいと思うよ。……もし渡せず帰ってくるようなら、あんたは一週間もやしのフルコースだ』とは母の言葉。




 母から受け取るものを受け取ってしまった以上、今更後に引くことも出来なくなってしまい、背水の状態で学校に向かう。胸のドキドキが恋人からの初お弁当への期待によるものか、一週間もやし生活への恐怖によるものかわからなくなってしまったのは、僕の情けなさのせいか。


 そう考えて下駄箱前で少しブルーになっていると、雑多な話し声と靴音に紛れた、聞き覚えのある足音と、ストラップの鳴る音。高里の足音だ。足音だけで人の区別ができるほどのソムリエではないが、大切な人の足音だけは何となく識別できるようになっていた。


「おはようっ!……我ながらなかなかの出来だから、今日のお昼は楽しみにしていててね」


 後ろからやってきて、挨拶よりも先に肩をとんっとしてくる高里。普通に近付いてきた後に、突然忍び足でやってきて脅かそうとしてくる、高里のお気に入り?の遊びである。最初は驚いたが、何度もやられるうちに足音でわかるようになったので、驚かなくなってしまった。僕が足音で高里に気がつけるのは、間違いなくこれのせいである。



 片手に持った保冷バックを見せつけながら自信満々に言い放った高里に挨拶とお礼を伝え、中身を見るのはお昼まで待つ。すぐに開けたい気持ちも山々ではあるけれど、大人しく待っていることもまた風情だ。


 そうして待ちに待ったお昼休み、お弁当箱を開けると真っ先に目に飛び込んできたのは、鮮やかなピンク色のハートマーク。白い米の上にふりかけられた桜でんぶだ。


 あまりにもわざとらしくてそれっぽい見た目に驚き、続いてメインであろうおかずの方に視線をやる。小さなハンバーグに、緑色の炒め物。大きすぎないからあげに、中にほうれん草だろうか、緑が混ぜ込まれた卵焼き。


 卵焼きに緑を求める必要は果たしてあるのかと考えながら、目の前で自信ありげな顔をしている高里の許可をとって一口。口の中でほぐれるだしの効いた卵はほうれん草ととてもよく合っており、“野菜嫌いの子供用”という印象を持っていた僕は、心の中で緑卵に非礼を詫びた。


「……どう、かな?美味しくできていると思うんだけど、お口に合ったかな?」


 先程まで自信ありげだったのに、突然心配そうな様子を見せて聞いてくる高里に、すごく美味しい、毎日でも食べたいくらいだと素直な言葉を告げる。毎日お弁当を作ってほしいなんて、まるで味噌汁プロポーズみたいだなと言ってから気がついたが、幸か不幸か高里はそこに言及しなかった。


 何となく勝手に気不味くなり、お弁当を食べることに逃げる。そうして少しすると意識はお弁当だけに向かって、直前の失言は気にならなくなっていた。高里がどうやって作ってくれたのかを考えながら、そこに込められた想いを考えながら食べるお弁当は、これまで食べてきたお弁当の中でいちばん美味しい気がした。


「あっ……わたしのハート、かけちゃったね」


 だから、気になるようなことは言わないでほしい。桜でんぶのハートを食べただけなのに、罪悪感がかきたてられるような表現をするのはやめてほしい。


「ふふっ、わたしのハート、食べられちゃったね」


 お弁当の中身を空にして、ご馳走様でしたとお礼を言うと、高里はお粗末さまでしたと返した後に口元をにまっとさせながらいたずらっぽく囁く。食べてる途中に気になることを言わないでほしいと言ったから、食べ終わってから気になることを言ったのだろうか。それなら僕の要望にも答えてくれていることになるので、何も問題はないだろう。強いて言えば羞恥心がすごいことが問題だろうが、そうなるような恋人らしい事をしようと言い出したのは僕だったので、やはり問題はない。



 そうやって教室の中で食べたのが、初めての高里の手料理。冷たいのに温かくて、甘くないはずのものまで甘くて、味そのものもさることながらそこに込められた想いが美味しかったお弁当。


「ちょっと褒めすぎだよ。そんなに褒めても、明日からのお弁当くらいしか出てこないよ」


 感謝を伝えて、毎日食べたいくらいだと再び失言をすると、高里は気恥ずかしそうにはにかみながらそんなことを言う。そうして話の流れで翌日以降もお弁当を作ってもらうことが決まって、僕のお昼に楽しみが増えた。



 ……最初は、お昼だけだったのだ。平日の学校の日にお弁当を作ってもらって、昼休みに一緒に食べる。それだけだったのに、いつの間にか休日のお昼が作られるようになっていた。土曜日は一緒に遊ぶ日になって、その日は高里がお弁当を作ってくれた。


 気が付くと、我が家では僕のお昼が用意されていないのが当たり前の状態になっていて、僕にとってもお昼は高里の用意してくれたものを食べるのが当たり前になっていた。


「いつもお弁当を作ってくれる高里ちゃん、お母さんもお礼と挨拶したいから今度連れてきなさい」


 その状態が続いたある日、母親からそんなことを言われて、高里の我が家への来訪が突然決まる。付き合い始め、お弁当を作ってもらうようになってから3ヶ月ほど経ってのそれは、一般的に見たら早いのだろうか。その判断すらつかない僕は少し迷いながら高里に話をもって行き、二つ返事でOKを返される。


 しばらく母と高里の間で日程調整のために伝書鳩となり、“高里が家に来る”という話はなんだか知らないうちに“高里が家でご飯を作る”という話に変わる。何が起きたのか、どのタイミングでそうなったのか、伝言を伝えるだけの僕には全くわからなかったが、いつの間にかそういう話になっていた。


 高里が僕以外に手料理を食べさせることに、若干とはいえ抵抗を覚えなかったと言えば嘘になるが、『あんたがそんなに楽しみにしているご飯を食べてみたい』という母と、『一度食べてもらって、安心してもらいたい』という高里の意向が一致した結果に対して、僕ができることは何もない。


 大人しく受け入れて、ほんの少し残ったモヤモヤした気持ちを家の掃除をすることで解消する。普段なら自主的に掃除なんてしない僕であっても、恋人が来るとなったら話は別だ。大掃除を超える勢いで特に水回りを掃除して、綺麗になったところでなぜ自分は水周りに拘ったのだろうと疑問に思う。残されたのは掃除の手間が省けてホクホクな母と、部屋の掃除まで手が回りきらなかった僕だった。


 そうやって準備を進めていると高里がやってくる日になって、玄関から即座に母に攫われていく。恋人が初めて家にきたにもかかわらず、邪魔だからと部屋に押しやられ、さらには買い物に行かされる惨めな男が僕だった。


 なんとも言えないような複雑な気持ちになりながら、ちょうどできていなかった部屋の掃除をして、それが程よく済んだところで高里から呼ばれる。料理が完成したらしい。


 思ってたよりも部屋が綺麗だったと言う高里の言葉に、少しだけ救いを見いだしながらリビングに戻れば、随分と仲良くなったらしい母が、高里のことを名前で呼びながら迎える。僕だってまだ苗字でしか呼べていないのに、母がもう名前で呼べているのはコミュニケーション能力の差だろうか。いや、多分単純に僕がヘタレなだけか。


 そんなことを考えながら高里の作ったご飯を食べて、母と一緒に感想を言う。高里が言うには簡単に作れるものらしい青椒肉絲は、どんどん白米が欲しくなる味だった。食感の残った筍とピーマンが美味しい。


 青椒肉絲はピーマンと肉を表しているから、筍は入っていなくてもいいのだと、微妙に使えない豆知識を披露されつつ、卵の中華スープを飲む。筍入りの青椒肉絲を作った直後に話す内容か?と少し疑問に思ったが、高里は一緒にエビフライを食べている時にエビの殻とゴキブリの羽の話をするタイプの少女だった。


 そんな、ちょっとズレているところもなんだか愛おしいんだよなぁと頭の中で一人惚気けて、そうしているうちに随分母と高里が打ち解けていることに気がつく。高里が自身の家庭環境、父子家庭で、ほとんど親が家に帰ってこないことや、それもあって普段から自炊していることを母に話していて、それによって高里は母にとって庇護対象に収まったらしい。


 僕が聞くまでに数ヶ月かけた話を、初対面の日に済まされてしまうのは、あまり嬉しいものではなかったが、そのおかげで二人が打ち解けられたのであれば、僕は喜ぶべきなのだろう。高里の話を聞く限り、お父さんは高里のことを愛していない訳ではないようだが、それでも日頃高里が寂しい思いをしているのは事実なのである。


「梨沙ちゃん、よかったらこれから家でご飯食べない?無理にとは言わないけど、一人でご飯食べるのって寂しいでしょ?」


 一方的に高里を身内と捉えた母が、普通初対面ではまず言わないことを言う。さすがに断るだろうと思った僕の予想に反して、高里の返事はまさかのイエス。僕が嫌じゃなければとの事だが、好きな相手と過ごすことが嫌なはずもなく、僕の答えもイエス。



 全員が受けいれたことで、普通ではない話は決まってしまう。いや、僕にとってはいいことでしかないのだが、まるでこうなるように決めていたかのようなトントン拍子は、少しだけ気味が悪かった。


 僕が口を挟む間もなく相談を進める二人によって、今後高里は母に一言連絡を入れて来たいタイミングで我が家に来ていいことになった。どう考えても初対面の相手に対する扱いではないのだが、そこはもう気にしない方がいいのだろう。僕は常識で物を考えることを放棄して、二人の会話に相槌を打つだけのナマモノになる。




「おはよう。朝ごはん、できてるよ」


 その結果、翌日の朝起きると部屋に高里がいた。何を言っているのか分からないと思うが、僕にも分からない。ただ、なにか大きな力の働きを感じるだけだった。


 何も理解できないまま高里の話を聞いてみると、どうやら前日に高里が帰ってから、寝起きドッキリをやりたいと計画を立てていたらしい。一緒に住んでいないはずの恋人に起こされるドッキリとの事だが、驚きよりもむしろ恐怖の方が勝った。いるはずのない人が寝起きにいるのは、普通にこわい。


 そのことを素直に伝えると、これからはいるはずの人になるからもう怖くないねと斜め上の返しをされる。一回だけで済ませるつもりはなく、繰り返しやるつもりらしい。そしてドッキリでなければ、朝から高里に会えること自体はうれしい。恋は盲目というか、僕はちょろいやつだった。


 こんな経緯で、僕の朝ごはんを高里が用意するようになった。元々お昼ご飯は頼っていたから、これで食事の三分の二を握られたことになる。四捨五入すれば、僕の食事は全部高里に作られたと言えるだろう。ついでにお弁当を作って貰えるようになって、とても楽になったと母は喜んでいた。僕がちょろければ、母は適当だった。ストッパーはどこにもいない。




 きっと、ストッパーがいれば違ったのだ。もし高里がもう少し普通よりの価値観を持っていたら。もし僕がこれほどまでにちょろくなければ。もし母があれほど簡単に落とされていなかったのなら。


 そんなたらればのことばかり考えてしまうのは、そんな些細な“もし”があてはまっていれば、僕の悩みは生まれていなかったか、もう少しあとになるはずだったからだ。少しずつ僕の日常に入り込んで、そこにいるのが当たり前になっていった高里は、いつの間にか僕が口にするものをすべて作るようになっていた。


 365日朝昼晩……実際には三食食べない日もあるからもう少し少なくなるかもしれないが、文字通り全部の食事を管理しようとして、管理されることを僕に望んだ。


 最初は、嫌じゃなかったのだ。高里が作ってくれるものはいつだって美味しくて、きっと栄養うバランスだって考えられていた。母の食事を悪く言うわけではないが、母の手料理を食べていた頃よりも健康的になったのは間違いない。


 そして、実際に作ってくれる高里だって、僕からしてみれば何がそんなに楽しいのかわからないが、いつも嬉しそうにご飯を作ってくれたし、そうすることで笑顔になる高里を見るのが、僕も好きだった。 誰にとってもいいことだったから、この関係は続いたのだ。


「……昨日の晩、どこで何を食べてきたの?」


 そんなふうに軽く考えていたから、そう言われたときは驚いた。高里と出会った高校を卒業して、一緒の大学に入ってからしばらく。サークル勧誘の流れで仲良くなった先輩に連れられて、飲み会とカラオケに連れて行かれた翌日の朝。


 すっかり我が家に馴染んで、実家には二週間に一回帰るかどうかといった具合になっていた高里は、いつものように朝ご飯を用意してくれた後に、これまで見たことがないほど不機嫌そうな様子で僕に昨晩のことを聞く。


 なにか悪いことでもしてしまったか、具体的には、約束や記念日なんかを忘れてしまったかと考えるも、何も心当たりは思い浮かばず、一旦素直に聞かれたことに答える。初めて入ったチェーン店らしい居酒屋で、焼きそばや唐揚げなどの”らしい”メニューを食べた。先輩たちはお酒を飲んでいたが僕はジュースで済ませたこと。


「おいしかった?」


 高里は怖い顔をしながら僕の話を聞いて、最後まで話し終わると同時にそんなことを聞く。味については、アルコールを飲んでいる人が好きそうな味、あるいはご飯が進みそうな味であったものの、ジュースしか飲んでいない僕には少し濃すぎた。ついでに油っぽくて茶色いものばかりだった。


 だから、不味い訳では無いし普通に食べれる味ではあったけれど、それほど美味しいとは思わなかった。普段高里が作ってくれるもののほうがずっと美味しいし、どちらを食べたいかといえば間違いなく高里の料理だ。


 そう伝えたところ、高里は直前までの怖い顔を消して、それなら今晩はわたしが美味しい唐揚げを作ってあげるねという。流石に2日連続で油物は抵抗があったが、高里の表情を見ると何も言えなくなった。




 それ以降、高里は僕がどこかでご飯を食べてくる度に、店の名前とメニューを聞いて、同じものを作るようになった。これが、僕の小さな悩み。あるいは幸せな悩みとも言えるだろう。好きな人が自分のために、自分の舌に合わせた料理を作ってくれる。外で食べてくると少し不機嫌になる。ただそれだけの小さな悩み。



 そんな惚気のような幸せな悩みは、大学在学中から始まり、就職後も続く。僕と高里の関係は数年経っても良好で、いつしか高里は自分の家に帰らなくなっていた。完全に住居を僕の家に移して、母とも本当の親子みたいに、あるいはそれ以上に仲良くしていた。


 あまり手のかからない子とはいえ、いきなりいなくなって一人暮らしになったら母が寂しがるだろう、そんな思いはさせたくないという意見が高里と一致して、僕らはそれぞれ家から通える会社に就職した。そこそこ手のかかる方はともかく、高里なんならお世話してくれる方が残ってくれることを母はたいそう喜んで、籍を入れるまではいくらでもいなさいと言ってくれた。


 そんな言葉に甘えてまだ独り立ち、二人立ち?せずにぬくぬく実家で暮らしながら、毎日毎食高里の料理を食べる。働き始めてこれまでより忙しくなっても、高里が台所を譲ることはなかった。むしろ、昼間に会えない分の何かをぶつけるかのように、力を入れて料理するようになった。バランスよく考えられた食事のおかげで僕は風邪知らずだ。


 そのことには感謝しているのだが、何年も続いていると、たまにジャンクフードが食べたくなる。どこにでもあるようなチェーン店のハンバーガーや、チェーン店のコーヒー。高里に言えば似たようなものをより僕の好みに合わせて作ってくれるのだろうが、チェーン店の良さは味よりも店の雰囲気にある。


 けれどもそんな主張をしたところで高里が受け入れてくれるとも思えないから何も言わずに諦めて、ジャンクフードへの欲望を我慢していたある日、職場で出張の話が出た。うちからは少し離れたところに、2週間だけ出張して欲しいとの事。


 その話を聞いて頭の中に浮かんだのは、2週間高里の料理が食べられないことに対する残念さと、普段食べられないものを食べられるかもしれないことへの期待。それとついでに、普段高里がどれだけ時間をかけてくれているか知っているくせに“期待”なんてしてしまう自分への失望。


 出張のことを伝えると、とても寂しそうに行ってらっしゃいと言ってくれた高里の姿に胸を締め付けられつつ、同時に考えるのは向かった先で何を食べるか。そうか、そうか、つまり僕はそんなやつなんだなと納得しながらその日を待って、昼に移動しながらハンバーガーを食べる。


 カラフルなモノトーンの包装紙を剥がせば、口の中に広がるのはチープな味。高里と付き合う前の、中学から高校初期によく食べていた味は、記憶の中にあるよりもずっと微妙だった。思い出が美化されていたのか、僕の基準が変わったのか、きっと両方なのだろう。


 あまり美味しくないことにがっかりして、けれどそうなることも予想通りではあったので、そこまで引きずらず移動に集中する。ハンバーガーの味に関わらず、移動が終われば仕事が待っていて、仕事が終わればご飯が待っている。今回の出張先には美味しいものが多いと聞いたから、楽しみにしていたのだ。



 そして、普段食べることの出来ない地域の新鮮な食材を使った料理に舌鼓を打ち、それを何度か繰り返せば帰る日がくる。帰った僕に待っていたのは、予想通りというか不機嫌そうな高里。不機嫌そうにしながらも八つ当たりとかはしないし、なんなら普段よりも気合を入れて晩御飯を用意してくれているのが愛おしい。


「……出張先のご飯、おいしかった?」


 この問いかけに対する正解は、きっとそうでもなかったとか、君のご飯が一番だとかなのだろう。機嫌が悪い理由がわかっているのだから、あえて火に油を注ぐ必要はない。


 けれど、高里の機嫌を取るために美味しくなかったと言うのは嘘になるし、それはいつも料理をしてくれている高里に対しても、出張先で食べたご飯に対しても失礼なことだろう。そう思って素直な感想を口にしたところ、高里はポロポロと涙をこぼす。


「……すごく酷いワガママなんだけど、外でご飯を食べないでほしいの」


 高里が泣き出して、そうなった理由は理解しながらも、どうしてそこまで思い詰めてしまったのかがわからなかった僕に対して、ひとしきり泣いた高里は話し始める。


「うちのお父さん、あんなんだけど、昔は家族思いで、いつも一緒にご飯食べてたの。お母さんが料理得意で、それを楽しみにしてたお父さんは毎日ちゃんと帰ってきてた」


 高里のお父さんは、僕が高里と出会った頃にはほとんど家に帰らなくなっていた。たまに帰ってきて、寝て、またどこかに出かけるのだと愚痴っていたことを覚えている。


「お母さんが死んじゃってからなんだ。ああなったの。お母さんが作るご飯がなくなったら、お父さんは帰ってこなくなったの。それが嫌で料理の練習をしたんだけど、ダメだった」


 たぶん、わたしのご飯は美味しくなかったの。そう高里は言って、へたくそに笑う。最初は自分が作れば帰ってきてくれたのに、いつしかお惣菜を買ってくるようになったと。お惣菜これがあるからお前は作らなくていいと言って、それでもご飯を作ろうとしたら外で食べてくるようになったと。


 大切な一人娘をもらう身として、義父子でサシ飲みに行ったことがある僕は、高里にとってトラウマのようになっているらしいこの出来事の別視点の話を聞いている。お義父さんにとって、高里はあくまで高里で、その母ではない。それなのに必死で母の代わりになろうとする高里が見ていられなくて、子供は素直に甘えていればいいのだという思いで惣菜を買ったこと。何を言ってもダメだったから、代わりになることを諦めさせるために外食をするようになったこと。


 それが巡って伴侶を見つけることになるなんて、あの頃は考えていなかった。あの子のことをよろしく頼む。そう言っていたお義父さんの言葉をそのまま伝えていいものか、少し悩む。普通に考えたら、高里のトラウマは誤解なのだから解くべきだ。けれどその経験が、執着と呼べるまで高里の行動指針に深く根ざしているのもまた事実。そこに簡単に手を加えるのは、許されることなのだろうか。


「おねがい。わたしが作ったものだけ、わたしが管理しているものだけ食べて。あなたに、いらないものを混ぜないで」


 それが許されるのは、その原因となったお義父さんだけだと思った。そこに蹴りをつけるのべきなのは僕ではないのだと。そう考えてお義父さんに連絡を入れようと心に決め、そのまま今の高里の発言に意識を戻す。これを受け入れたらきっと、旅行の楽しみなんかは半減するのだろう。あるいはそもそも旅行すること自体がなくなるかもしれない。今まで直接言葉にされたことがなかった時と比べて、締めつけも段違いになるだろう。




 普通なら、受け入れ難い言葉だ。そのはずなのに、僕は何故か、“それくらいなら”と思ってしまう。これからもずっと彼女の作る食事が約束されるなら、ほかのものが食べられないことくらい大した問題じゃないと。


 そんなはずもないのに、大したことじゃないと思ってしまう僕の判断基準は、きっと既におかしくなっていたのだろう。頭の中の比較的冷静な部分でそう判断しながら、高里のお願いに対して肯定の言葉を返す。多少人付き合いで苦労することになるとか、そんなものは些末な問題に過ぎない。





 そうして、料理のことで自分の子供と揉めている彼女を見たときまで、僕はその判断を後悔することは無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わたしだけでつくられたあなたになって エテンジオール @jun61500002

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ