人魚病
@sea-78
第1話
虫の声も、フクロウの鳴き声も聞こえない静かな夜。
晩御飯を済ませ、お風呂から上がると急に眠気が襲ってきた。今日は海沿いを散歩していたからか疲れが溜まっていたようで、大口を開けて品のないあくびが出た。
涙目を擦ってはあ、と息をつく。
まだ夜はこれからという時間帯で寝るにはちょっと早いかも、と思いつつもうベッドに入ることにした。
コップに水を半分くらい入れて飲み干すと、テーブルに飾ってある花瓶の花に声を掛けた。
「おやすみなさい」
紫の花は頭を垂れさせたままで、返答を返してくれなかった。たったひとりの同居人だというのに、随分と冷たい子。
二階へ上がろうと廊下にくるりと振り返った――その時だった。
――ガタっ、ガタンっ‼︎
背にしたリビングから大きな物音がして、「ぴゃっ!」と肩が飛び跳ねた。何かが崩れたような音。不安定に建てたインテリアなんてなかったはずで、なんの物音なのか、さっぱり分からなかった。
「な、なに?」
ドクドクと激しく動く胸に手を当てて、怯えながら再びリビングに向き合う。
暗闇の中。見覚えのない大きなシルエットが動いた気がした。
「いったぁ……」
シルエットから小さな声が聞こえた。大人の女性の声。
何者か分からなくて、自然と息を殺していた。震えながらリビングの入り口にもう一度向かう。スイッチに手を伸ばして、消したばかりの電気をパチンと点けると、さっきまでお利口に立っていたテーブルが倒れていて、その側に全く知らない女の人が尻もちをついて痛そうに腰をさすっていた。
年齢は二十代前半くらい? ブルーの長袖シャツに、暗い紺のパンツ。茶髪を低めのお団子に結んでいて、後ろ姿を見ただけでも、仕事ができるカッコいい系の女性の印象を受けた。
コロコロと、お気に入りの花瓶が水と花をぶち撒けて転がる中、私はようやく口を開いた。
「……誰?」
その声に女の人は振り返って「あ」と、私と目を合わせて固まった。
◆
――ガタっ、ガタンっ‼︎
「いったぁ……」
腰の激痛に思わず顔を顰める。何かを倒しながら床に落ちたようで、大きな物音を自分の耳で拾った。腰をさすりながら辺りを見回す。真っ暗でほとんど見えないが、私が今いるのは屋内らしかった。
とりあえずライトでも探して、ここが何処で何を倒したのか確認しようと思った直後、いきなり周囲が明るくなった。
眩い光に目の前が真っ白に変わる。徐々に目が慣れてくると、目の前には大きなテレビがあった。私の真横には木製のテーブルが倒れていて、私の落下地点にあったのはこれだったようだ。
「……誰?」
背後から若い女の子の声がして、振り返った。この家の住民なのか、振り返った先には、
なんて声を掛けるべきか分からず、数秒間、彼女と目を合わせて、私はなんとか言葉を絞り出した。
「……花瓶は無事です」
「……そう。なら良かった、のかしら?」
◆
「どうぞ、粗茶です。良い茶葉だけどね」
そっと紅茶を出された。白い陶器のティーカップに琥珀色の液体が注がれている。顔を上げると、ティーカップを置いた少女が朗らかに微笑んでいた。
「どうも」
私はできる限り柔らかく笑みを返して、頭を下げた。頭を戻しながら、少女の頭から
歳は高校生くらい。あどけなさが残りつつ、大人の色が見える整った顔立ちに、柔らかくウェーブする青い髪。血が通っていないかのような白く、きめ細やかな肌。青い、柔らかい生地のパジャマの上着に身を包んでいて、お城にでも住んでいそうな上品な雰囲気を纏っていた。
造られたように美しい容姿を持つ少女。何より目を惹いたのは、足の代わりに生えた大きな『尾鰭』だった。水面のような澄んだ青の鱗がキラキラと天井灯を反射していて、神秘的な光を放っている。
少女は自分で車椅子を動かして笑顔のまま、テーブルを挟んで私の正面についた。私が倒した花瓶は花を差し戻されて、テーブルの隅にそっと置かれている。
少女にまじまじと見つめられながら、そっとカップを持ち上げる。フワリと湯気と共に香りが舞って、紅茶に詳しくない私でも良い茶葉であることは分かった。
ゆっくり一口飲んでソーサーに下ろすと、頬杖を付いた少女が人懐っこそうな目で私に聞いた。
「ねえ、あなた名前は? 私はセレンよ」
「ヒイラギです。テーブル、倒してすみませんでした」
「いいのいいの。花瓶割れなかったし、テーブルも壊れなかったもの。それより天井から人が降ってくるなんて驚いたわ」
「私も驚きました」
「おかしな話ね。降って来た本人が驚く? もしかして制御できないテレポート装置にでも乗った?」
「えーっと、まあ、そんな感じです」
「ふーん……ヒイラギは普段何してる人なの? いかにも仕事ができそうなOLぽい感じだけど。デザイナーっぽくもあるかも。あ、花屋の店長とか?」
「残念ながらどれでもないですね。まあ、なんというか、夢診断的な仕事を少々」
「夢診断? 占いみたいな?」
「そんな感じです」
はっきりしない回答にセレンは訝しんでいた。そして、チラリと私の両手の真っ白な手袋に視線を落として「ま、言いたくないならいいけど」と身を引いた。
私の素性がバレたところで大した問題はないが、人によっては不快に思う人もいる。バラすタイミングは見計らいたくて、今は濁しておいた。
「セレンさんは――」
「呼び捨てでいいわ」
「セレンは学生ですか? 高校生くらいの歳に見えますが」
「歳はそう。でも学校は行ってない。この町に学校はないしね」
「普段は何を?」
「散歩行ったり、お茶したり、買い物行ったり、絵描いたり」
「……ニート?」
「まあ、そうなる、わね。ちょっと釈然としないけど働いてないのは事実だし、そう言われても仕方ないわ」
渋々、といった感じで頷いてセレンはティーカップを爪で突いた。
非常に落ち着いている。興味深そうに質問してくる姿といい、私に対してまるで警戒心がない。
「あまり驚かないんですね。いきなり現れてテーブルを倒されたのに」
「ん? 驚いたわ。目、丸くしてたでしょ。子供が描いた太陽みたいに」
「確かにリアクションはしていました。ですが、それだけだった。私があなたなら、こんな怪しい女にお茶を出す気になれません」
「自分で怪しいっていうのね。……確かに得体はしれないけど、言ってしまえばそれだけでしょう。この町じゃびっくり箱みたいな人は沢山いるし、そんなの気にならない」
「ほら、私もその中の筆頭」とセレンはテーブルの下から自分の尾鰭を持ち上げて見せた。青く輝く尾鰭はびっくり箱にしては綺麗で、視界に入るたび魅入ってしまっていた。
「その鰭は……」
「病よ。病名は名付けるなら『人魚病』ってとこかしら。似合わないくらい綺麗で困ったものね」
セレンは少し憂いを帯びた表情で呟くと、次の瞬間にはすぐに明るい雰囲気を取り戻して「ねえねえ、今日は何処で寝泊まりする気?」と私に聞いた。
「何も決めてません。この町には知り合いもいないので近くに宿でもあったらいいんですが」
「よく分からないけど、ホントにノープランで来たのね。旅人みたい。いいわ、今日はうちに泊まりなさいな。空いてる寝室があるから好きに使って」
私の返事を聞くよりも早く、彼女はティーセットを流し台に片付けて「こっちよ」と案内し始めた。
大人しく彼女の後ろをついて行くと、セレンは二階に上がる階段の前で車椅子を止めた。彼女は車椅子から降りると、腕を足代わりに使い、尾鰭を引きずって階段を登り始めた。
「大丈夫ですか? 手伝いますよ」
「気にしなくていい。いつもこうしてるから。それに人の手助けを借りたらずっと甘えちゃうじゃない」
「若いのに立派ですね」
「あなたも若いでしょ。いくつ?」
「今年で二十四です」
「てことは私の八個上? 結構お姉さんね。もうちょい近いかと思った。今更だけど敬語使うべき?」
「若く見てくれたので許しましょう」
「ふふっ」
そんなやり取りをしながら二階に上がる。いくつか部屋が並んでいて、セレンは階段を上がってすぐ目の前の部屋しか使っていないらしい。一番奥の部屋が寝室になっていて、そこを使うように言われた。
「私はもう寝るわ。もし数日ここに泊まる気なら、明日、町で買い物に行きましょう。手ぶらで落っこちて来たし、歯ブラシも着替えも持ってないでしょ? 私の服貸してもいいけど、サイズ合わなそうだし、ボトムスは一本も持ってないしね」
「いいんですか、ここまでしてもらって。一泊させてくるだけでも十分ありがたいのに」
「この町の人間はみんな優しいのよ。邪な考えを持ってるなら対応をあらためるけどそんな雰囲気もないし、気にせずくつろぎなさいな。それじゃ、おやすみー」
そう言い残してセレンは自室に引っ込んだ。
私は自分の後れ毛をくるくると弄りながら、見えなくなった人魚の残像を思い浮かべて、頭の中で考えを整理しながら、寝室に入った。
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