第8話 旅路のはじまり

 ようやく手に入れた緑色の宝石は、以前と変わらずにとても美しかった。


 MT車を運転するための免許を手に入れたその足で、さっそく北岡自動車を訪れたみどりは、引き出されてきたクルマを見て思わずため息をついた。最初に見た時にも綺麗なクルマだとは思っていたが、今目の前にあるクルマはピカピカに輝いている。


「乗り出しに必要な整備は、一通り全部済ませてある。これでこのクルマはお前さんのものだ」


 北岡はそう言って、三本の鍵が付いたキーリングを翠に手渡す。握りの部分が黒い、「SUZUKI」の刻印が彫り込まれた非常にシンプルなキーが一本と、全部が金属製のキーが二本。そのどれにも、今どきの車のもののようなスマートキーとしての機能などはついていない。


「タカシの奴、物持ちは良い方だったし、保存状態も比較的良かった車だったから、思っていたよりは手が掛からなかった……ただ、オイル関係は納車前整備の費用で賄ったが、タイヤだけは追加で新品を入れさせてもらった。工賃はサービスしておくから、タイヤの実費分だけ追加で支払って欲しい」


 そう言って北岡が出してきた追加の請求書の金額は、幸いにして翠に支払えないものではなかった――と言っても、ここまでの支払い全部で、翠が働き始めて以来蓄え続けてきた貯金はほぼ使い切ったも同然だったのだが。30年近く前のクルマにそれだけの金額を支払ったことに対して、全く不安がないと言えば嘘になる。


 近くのATMでお金を下ろして追加の支払いを済ませた翠は、胸を躍らせながらカプチーノのシートに座った。


 初めてこのクルマのシートに座った時に感じた、運転席の視点の低さと独特のタイト感。このクルマを運転するために必要な操作は、全て手を伸ばした位置で完結するし、見たことのない青いエンブレムがついたハンドルとシフトノブの触り心地は、これ以上は無いと思えるぐらいにしっくりとしている。


 ハンドル横のキーを回して、エンジンをかけてみた。比較的おとなしめの低い排気音が、耳朶に心地よい。


「握りの部分が黒いキーはマスターキーだ。スペアキーを作るときに必要になるから、なくさないように気をつけろ。あと、今さらな話になるかも知れんが、一応言っておく」


 運転席に座る翠を覗き込むようにしながら、北岡が言った。


「どんなクルマでも言えることではあるが、このクルマ、くれぐれもぶつけないように気をつけろよ。修理用のパーツが減ってきているからってのももちろんあるんだが、元々軽量化のためにあっちこっちのボディパーツがアルミで出来ている。ぶつけたボディを板金するとなると高くつくからな」


 北岡の言葉に、翠は曖昧に頷く。今までに車を運転する機会がほとんどなかったということもあるが、マイカーを手に入れるのも初めてという身からすれば、車での事故というものがまだイメージ出来ていない。色々な意味で事故は起こさないに限るから、せいぜい安全運転を心がけようと思うぐらいのものだ。


「何か他に気をつけておくことってありますか」


 翠が尋ねると、北岡は唇の端を少しだけ釣り上げて笑った。


「スピードメーターにある積算走行距離計オドメーターの数値が5,000キロほど増える度に、またクルマをここに持ってこい。エンジンオイルの交換をしてやるから」


「5,000キロ、ですか」


「本当は3,000キロごとにオイル交換をするのが一番良いんだが、お嬢ちゃんがこのクルマを普通に乗るだけだったら、そこまでシビアなオイル管理は必要ないだろう……とはいえ、定期的なオイル交換をさぼったら、クルマの調子ってのはどんどん悪くなっていく。それは一つ覚えておいた方がいい」


「分かりました」


「このクルマの操作マニュアルの類いはグローブボックスに入っているから、分からないことがあったら、まずはそれを読んでくれ。それでも分からないことがあったら、店に連絡をくれればいい。ああ、それと」


「まだ何か?」


 車を買うという行為は、こんなにも色々と注意を受けるものなのだろうか――そう思った翠が少しだけ怪訝な顔をすると、北岡はそれまでとは一転して、少し険しい顔で言葉を続けた。


「このクルマのハンドルは、お嬢ちゃんが本当に信頼出来る相手以外には絶対に握らせるな。何度でも言うがこのクルマは、今となってはとても貴重なクルマだ。いい加減な奴にハンドルを握らせて事故でも起こされた日にゃ、お嬢ちゃん、きっと悔やんでも悔やみきれないぞ」


 北岡の言葉が、今の翠にはいまいちピンと来ない。そんなことがこれから先、起こる可能性があるのだろうか。


「それって北岡さんになら、このクルマのハンドルを預けても大丈夫ってことでいいですか」


 翠が少し茶化すように言うと、北岡はニヤリと笑った。


「これでも客の車の扱いには十分注意しているつもりだし、言っちゃ悪いがその辺のドライバーよりは車の運転にも自信はあるさ」


 そう言われて、翠はこの店の事務所に飾ってあった、少し埃を被った額縁入りの写真のことを思い出す。


 それは、どこかの山道らしい場所を走っているレーシングカーのような車の写真と、その車を取り囲んで並んでいる揃いのユニフォームを着た大勢の男達の写真だった。ひょっとしたら北岡は、昔は何かの自動車レースに関係していた人物だったのかも知れない。


「まだ聞いておいた方がいいことはありますか」


「いや、今のところはもう無いな」


「じゃあ、そろそろ行きますね。このクルマのこと、色々とありがとうございました」


 そう言い残して、翠はパーキングブレーキを下ろしてギアを一速に入れ、そろそろとクルマを走らせ始める。


 店の敷地から出て行くカプチーノの後ろ姿を見送りながら、北岡はぼそりと呟いた。


「せいぜい良き旅を、……なんて思う辺り、俺も随分と感傷的になったか。歳は食いたくないもんだな」

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