第87話 ケバブ

 草薙が絨毯の上に並べた夕食は、小熊が見たことも無いようなものだった。

 羊の肉にスパイスをまぶし、ステンレスの串に刺してオーブンで焼いたシシュ・ケバブ。

 コンソメスープにモロヘイヤのみじん切りを入れて煮込んだ、ムルキーヤスープ。

 子羊のひき肉とポテトにホワイトソースをかけてグラタンのように焼いたムサカ。

 草薙は透明なグラスにアラック酒を注いでくれたが、小熊と南海はバイクで来ていて、それより些細な問題ながら未成年でもあるので遠慮したところ、カルダモンのハーブティーを入れてくれた。

 草薙が自分と後藤の前に置かれたアラックに水を注ぐと、グラスの中身全体が白く濁る。後藤は酒という人類の苦難が始まると同時にもたらされた合法的な毒物を興味深げに見つめていた

 

 草薙の話ではトルコ風だという夕食は、この上なく美味なものだった。

 クミンと唐辛子の利いた羊肉は、後藤の言う通りよく焼いたほうがよかったのか、臭みがいい感じに抑えられ、日本人にも馴染みやすいように付けられたマヨネーズともよく合う。

 ムサカやムルキーヤスープもカルダモンのお茶ととても相性が良かったが、水割りのアラックを共にケバブを食べている草薙や後藤を見ていると、今から一年ほどが過ぎて二十歳になったら、またここに来たいと思わせてくれる。  

 シルクの絨毯に直置きして食べるスタイルも、そうするのが最も正しいと思わせる物だと気づくには充分なもので、床に直で座る料亭の座敷席が苦手だと言っていた南海も横座りでリラックスした様子で、串焼きを上品な仕草で食べていた。

 小熊にとってみれば、肉のボリュームやスパイスの妙はもちろん、何より南海と草薙を会わせるという難題を終えて肩の荷が下りたことが食事を美味くしてくてる。


 これから論文執筆という重荷を背負う南海はといえば、これからオモチャの山で遊ぶのが待ちきれない子供のような目をしていた。 

 小熊はさほど身が入らぬ大学での学業でそんな気分になった事は微塵も無いが、これから修理する壊れかけのバイクを見た時は同じような目をしていたように思う。

 目の前の後藤はといえば、絨毯に両足を投げ出し、意外と小さく可愛らしい足裏を小熊に見せつけながら、非常に無作法な仕草で羊肉にかぶりついている。

 すでに着ているジャージはもちろん、周りの絨毯までこぼした肉汁やソース、アラック酒で汚れている。

 たぶん後藤は背負うべき荷物という物を持たない。以前は多くの人が働く場の安全を担うエンジニアとして、小熊には想像もつかない重荷を背負っていた後藤は、たぶんその頃から何も変わらない。

 草薙はそんな後藤の汚れた口の周りを拭き、後藤に煩わしがられている。周囲の床についた汚れについては無頓着な様子。

 

 小熊は以前仕事で行ったアラビアの調度品を輸入販売する店で、同じような絨毯を見たことがあるが、嫁入り道具の中で最も高価な物になりそうな値段がついて売られていた記憶がある。その輸入商の話ではシルクの絨毯というのは化繊やウールの絨毯に比べ汚れに強く、油性水性問わず大概の汚れは水で擦り出せば綺麗になるらしい。

 草薙はグラスを倒して絨毯に飲ませてしまった後藤のアラックのおかわりを注いでいる。仕事先でもこんなふうに後藤の面倒を見ているのかもしれないと小熊は思った。

 草薙もまた重荷を背負っているが、それをうまくコントロールしている。そのために後藤は必要な人間なのかもしれない。


 絨毯の上に広げられた夕食がほぼ無くなった頃合いに、小熊は膝立ちになった。

 草薙に向かって体を傾け、握手の手を差し出す。

「本日はとても有益な情報を提供して頂き、心より感謝します。今後何かお力になれる事があったらいつでもご連絡ください。必ず助力いたします」

 南海も中腰になって草薙に深く頭を下げた。

「あなたがたが紫のバイクに乗って行う活動を、これからも安寧のうちに楽しめるように、微力ながら最善を尽くさせて頂きます」

 それから小熊は、自分達と草薙を仲介し、ここまで連れてきてくれた後藤を見た。


 後藤は水で割ったアラックが利いたのか、麻のクッションを抱え込みヨダレを垂らしながら眠っていた。

 草薙が後藤の肩を揺すって起こそうとしていうのを見た小熊は、足を伸ばして後藤が抱き着いている厚手のクッションを蹴っ飛ばした。

「私たちはもう帰るぞ、見送れ」

 後藤と同じ病室に入院している時に似た事をした記憶がある。後藤はそうでもしないと風呂にも入らないし、リハビリや検査にも行かない。

 今までアルカイックな微笑みを崩さなかった草薙は、時々口に運んでいたアラック酒をむせさせながら笑った。しばらく咳き込んでいた草薙は涙目になりながら、擦ると病魔が去る如来像のように後藤の頭を撫でて再び寝かしつけながら言った。

「夜のお茶をご一緒できないのが残念です。またいつでもお越しください」 

 窓の外は夏の夕暮れが訪れ、空の色がが夕焼けから夜に変わる狭間。一日に数分だけ訪れる紫の時間がやってきた。

 

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