第85話 好餌

 丁寧な所作でダックスから降りた南海は、草薙に頭を下げた。

「素晴らしいダックスです。こんなバイクに乗って夜の道を走っていたんですね?」

 南海は昨日小熊が紫のダックスに乗っている人間に会わせると伝えてすぐに、出来る限りの情報を集め予習して来たらしい。

 ダックスというバイクや上高地という場所、そしてオカルトという深淵とも浅薄とも言える趣味について。

 無論、その情報が慎重な扱いを求められているということも、南海はとうに知っているだろう。

 草薙はダックスと南海、そして四階から見える昼下がりの風景を交互に見て、一瞬お伺いを立てるように後藤のほうを見た。

 視線を送られた後藤はといえば、二人のやりとりに何の興味も示していない様子で。銅のコーヒー沸かしをいじくっている。

 草彅は後藤が何も言わないという事実から南海という初対面の人物についての安全保証を受け取ったかのように微かに笑う。

 もしも南海が草薙にとって危険になりうる人物なら、後藤はニヤニヤと笑いながら会話を見物していることだろう。


 どうやら自分はあまり頼りにされていないのかもしれないと小熊は思った。知らない場所に連れて来られて知らない人に会わされた南海は、まっすぐな視線で草薙のことを見ている。

 草薙は小熊がよくそうなったように、南海の笑顔に魅せられそうになっている様子だったが、意志の力で何とか自分を抑えたらしく、己を力づけて貰うようにダックスのフレームに手を添えながら、南海に言った。

「では、私がこのバイクで行っている活動についてご説明させて頂きたいと思います」

 それから草薙は後藤をほうを向いて言う。

「それとも、食事を先に済ませますか?」

 後藤は麻のクッションに寝転びながら言う。

「いらねぇ、さっきから台所が臭ぇぞ、その匂いがもうちょっとマシになるで焼け、その間に仕事を済ませちまえ」

 先ほどからキッチンのオーブンレンジから肉が焼ける匂いが漂っていた。察するにスパイスをたっぷり使った羊の肉らしい。コンロでは野菜のスープらしき物が煮えている。

 小熊としては独特の臭みが食欲をそそる羊肉を今すぐかぶりつかせて欲しいと思ったが、後藤はレアよりミディアムが好みなんだろう。

 

 それに、草薙がこれから話そうとしている事についても、情報や話題には鮮度というものがある。

 共に食事の席を囲んだ後でこそ互いへの遠慮が和らいで深い話ができることもあるが、そうでないう事もある。

 相手が自分の敵になりうるか味方になるか、有害か無害かわからない状況でないと、警戒心が鈍る事もある。

 草薙はどうかわからないが、少なくとも後藤は南海の事をまだ味方だとは思っていない。

 もし不本意な情報拡散が行われれば、後藤の部下であり職場でも大いに助けられているという草薙が彼女にとって大切な趣味を奪われ、あっさり壊れてしまう。

 おそらく後藤に言わせれば、せっかく最高に面白い壊れ方をする奴だったのに、その機会を逃してしまうことになる。

 ドミノ倒しやジェンガだって組みあがる前に崩してはつまらない。同じく人が銃殺されるシーンでも、撃たれるのが単に野心溢れる一士官か、クーデターを実行し一度が国の実権を握り頂点に立った人間かで意味合いが変わる。

 銃殺を実行するのが、そのクーデター首謀者が腹心と恃んでいた裏切り者なんてことならば後藤の大好物だろう。

 後藤派は人がそんな風に壊れる様を己の養分にしていた。だからこそ草薙にとって絶対の安全を保障する存在になっている。

 愛情や信頼で自分を守ってくれる人間より実利でそれを行う人間のほうが信頼できるのは当然の事。あとはその人間が自分に銃を向けた時にトリガーを引かせなければいい

 草薙はダックスから離れ、小熊たちの居る場に先ほどより丁寧な姿勢で座る。南海も着座を促され草薙の正面に当たる場所に鎮座した。

「では、紫のバイクについて私が知る全てをお話します」

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