第73話 凪

 池尻大橋から三十分ほどカブを走らせ、自宅に帰った小熊は着替える前にスマホを見た。

 後藤からの連絡はまだ無い。今は遅番夜勤の勤務中だという事を思い出す。

 一応は仕事中に私用のLINEをしないという節度を守っているのか、自分への連絡をさほど重要視していないのかはわからない。

 単に忘れているだけなんじゃないかと思ったが、それは無いだろうと小熊は思った。

 もし本当に一つの用を別の用事が入ると忘れてしまうタイプなら、今すぐ後藤の仕事先まで駆けつけて思い出させてやるだけの話。


 小熊は正直、後藤の事を社会における弱者だと思っていた。適応能力が低く後ろ盾にも乏しい弱者が、弱い者なりの生き方で足掻きながら生きているんだと、入院生活での短い付き合いで思い込んでいた。

 しかし今日、中村に聞いた話によると、後藤は円満な家庭に生まれ充実した学生生活を過ごし、小熊からしてみれば羨んでも足りぬほどの高い学歴を持ち、相応の企業に入社した。そして、学生時代から続けている自主映画の製作を続けるため、恵まれた立場を自ら捨てた。

 結局のところ、小熊が見ていたのは想像もつかぬような荒波の中を生きて来た後藤に訪れた、一瞬の凪のような時間だったに過ぎない。その凪の中で、後藤は彼女を良く知る中村が怪獣と呼ぶ、自分自身の中にある構想を育て上げている。

 思えば後藤が電子部品の流通センターで、彼女と同じく高給好待遇の学習塾講師の仕事をオカルトスポット探索という趣味のため投げ捨てた草薙と相互認識するようになったのも、それが共感や親愛にまでは至らなかったのも必然だったんだろう。二人はとても似ていて、だからこそ鏡を見ているように互いが苛立たしい。


 小熊は後藤や草薙のことを、南海が書く論文の養分になりうる協力者として取り込もうと思っていたが、もしかしたら餌として食われるのはこちらなのかもしれない。それも自分自身が後藤や草薙から引っ張り出した怪獣に。

 とりあえず小熊に出来るのは、明日後藤や草薙と会う南海を出来るだけサポートすること。今更備えられる物などなにも無いならそうする以外思いつかない。

 小熊はこのまま服を脱ぎ、シャワーを浴びて就寝しようと思ったが、まだ寝る気にはなれない。気持ちが昂っていたわけではないが、情報入力が多すぎて頭の中を整理する時間が欲しいと思っていた。

 結局小熊は一度バーカウンターの上に出したスマホと財布をデニムのポケットに突っ込み、帆布の巾着袋をたすき掛けに背負い、玄関でバスケットボールシューズを履いた。

 防犯の気休めにFMラジオと暖色の室内照明をつけっぱなしにした小熊は、木造平屋の自宅を出て歩き出した。

 時刻はもうすぐ深夜。夜の賑わいが終わり、静寂の始まる時間。

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