第72話 怪獣

 小熊は無糖の炭酸水で喉に刺激を与えながら、中村の問いに答えた。

「だいたい想像はつきます。学校や職場に馴染めず親からもネグレクトされ、趣味でも人間関係が築けないまま家に籠るようになって、閉め切った部屋の中でゲームやSNSに溺れる。ニュースで報道される犯罪者の経歴でよく見るお決まりのパターンでしょ?」

 小熊の言葉を聞き中村は吹き出した。食べていたペペロンチーノをむせさせ、ペーパーナプキンで口を押さえながら言った。

「まだ犯罪には着手していないよ。私も仕事先の同僚も、配信を見ている人たちもそうなるのは時間の問題だと思っているが、まだやっていないと思う。しかし小熊くん、犯罪をやってしまうそうな危うさじゃなく、たった今やってしまった直後のようなところも彼女の魅力だと思うけどね」

 中村はビールをぐいっと飲んでから、少し酔いが回ったような目つきで小熊を見ながら言った。

「それに治李くんが今の治李くんになるまでの道筋は、小熊くんの見立てとは少し異なる」

 小熊はホットサンドイッチの耳を齧りながら、話の続きを促した。


「治李くんは生まれ育った神奈川県の高校での成績は優秀で、趣味の映画研究でもいい仲間に恵まれた。高校で動画部の部長をしていた時は、彼女が脚本と監督を務めた自主制作映画が地方賞を受賞したこともある」

 小熊の記憶では、入院時の後藤は持ち込んだノートPCで見るサブスク配信の映画をよく見ていた記憶がある。

 有料のプランに加入していた後藤は院内Wi-Fiとあり余る入院時間でで話題の人気映画を視聴できたが、面白くもなんともなさそうな顔をしていたように見えた。

 中村はペペロンチーノの唐辛子を齧りながらビールを飲んでいる。小熊はまだ飲んだことがないが、あのビールという飲みものはとても苦いものらしい。

 「その後、治李くんは神奈川の工業大学に入学した。そこでも実習で多忙な工学専攻の間を縫って、自主制作映画のゲリラ撮影をしていたらしい」

 小熊は後藤を病室から連れ出し、事故で外装が破損したスーパーカブの交換作業に付き合わせた時の事を思い出した。

 後藤はカブのエンジンや車体には何一つ興味を持たなかったが、一つだけ小熊に質問してきた。エンジンを制御するプログラムについて。

 小熊はカブのエンジンを制御しているのは機械的なキャブレターで、電子的な制御部品といえば点火電圧を昇圧し調整するCDIトランジスタとコンデンサぐらいだと言ったところ、バイクにもそのエンジン制御にも興味や関心を失った様子だった。


 病室では小熊より少し長く後藤との時間を共にした中村は、ビールの酔いが回ったのかくすくすと笑いながら言った。 

「今度治李くんが高校や大学の時に制作した映像作品を見せてもらうといい。彼女はスマホ一つでゲリラ撮影するのが得意だったそうだが、犯罪や性的映像のようなわかりやすい物では無く、黄金町の居酒屋で騒ぐサラリーマンや多摩川のホームレス、県警本部の前で一日中立番する警察官をただ延々撮った映像とか、そういう物の定点観察映像を好んで撮っていた」

 中村はフロアの中で一段高い位置にあるカウンター席から、そこそこ埋まっている客席を眺めながら言った。

「私はテレビの人間だから、正直それらの作品が評価され収益を得られる物だとは思えない。たた一つだけわかるのは、平々凡々とした人生なんてものがこの世のどこにも無いということ。皆がそれぞれ自分の波風に晒されながら生きている」

 小熊は人文学の講義で、劇作家の寺山修司が覗きで警察に捕まった話を聞いたことがある。

 氏は女の着替えや裸ではなく、ごく普通の家庭が夕飯の食卓を囲んでいる様を覗いていたらしい。

「後藤が人間の本質が知りたいと望んだってことはわかります。でも何でグロテスクな映画を好むようになったのかはわかりません」

 中村はビールジョッキについた水滴がカウンターに落ちる様を見ながら言った。 

「きっと私と同じく、映像で表現できる物の限界について思うところがあったんだろう。そして治李くんは、映像作品を媒介にして、それを見た人間がどう動くのかを知りたくなったと言っていた」

 小熊はもう一つ、些細ながら気になることについて聞いてみた。

「後藤には親が居ないと聞きました」

 中村は何一つ隠す事なく話してくれた。聞いた者、知ってしまった人間の責任を負わせる意図があるのかもしれない。

「工業大学を卒業した治季くんが、横浜の重機メーカーに入社して間もない頃、両親が隣家の延焼火災で死去した。一人娘の治季くんが望まぬ事を何一つやらせない、いいご両親だったそうだよ」

 小熊は自分と同じく家族が誰も見舞いに来ない後藤をからかった事があったが、後藤は言葉を濁すだけだった。返すべき借りが一つ。

「結局、保護者を喪った後も親族が後見人になり、治李くんは今までと変わらぬ暮らしが出来るようになったが、重機メーカーのエンジニアをしながら、休日は自主製作映画の素材を撮りにいく。充実しているような暮らしに不足や不満を覚えるようになった。今までやってきた事をそのまま続けるのではなく、何か大きい事をするための充電を必要としていたんだ」

 小熊は半分ほど残したボロニアサンドイッチの残りにかぶりつきながら言った

「それで電子部品メーカーの不正規雇用社員になったんですか?」

  

「時間が自由になる事もそうだが、責任を負わなくていい生活をしたいと治李くんは言っていた。家に帰ってからも制御プログラムの稼働や現場で起きるエラーが頭から離れないような暮らしでは、学生時代から今まで積み上げた自主制作映像の構想や理念まで掻き削られて消えてしまうと。厄介な責任を負わずにすむ仕事で暮らしの糧を稼ぎ、ネットで誰彼構わず喧嘩でもするような怠惰な暮らしをしないと、自分の中にある怪物は育たないと」

 中村にとってそうであったように、後藤もまた不意の入院生活で、怠惰を腹いっぱい食ってしまったのかと小熊は思った。

「今のモンド映画についての解説動画も、治李くんが怪物と呼ぶ、彼女の想像と創作の胎児を育てるための助走期間なのかもしれない」

 残っていた炭酸水を飲み干した小熊はグラスを音立ててカウンターに置き、中村を正面から見据えた。

「後藤が怪獣と呼ぶ物を、あいつの腹を切り裂いて引きずり出せと言うんですか?」

 中村もジョッキのビールを飲み終え、ジョッキを小熊に突き出しながら言った。

「小熊くんと南海くんは、その一助にはなってくれると思っているよ」

 小熊は席を立ち、中村に握手の手を差し出しながら言った。

「今日はありがとうございました。私は私にとって必要な事をします。たとえそれが外科医か助産婦の真似事でも」

 中村はバーテンを呼び、ビールのおかわりと思いきや温かいお茶を注文しながら小熊に言った。

「期待しているよ」

 カフェバーを出た小熊はハンターカブに跨り、走り出した。

 

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