第62話 苦手

 相模原のショートツーリングで思いがけず充実した時間を過ごした小熊は、南大沢駅前付近で南海と別れた。

 夜はまだ浅い時間。もう少し一緒に居たそうな雰囲気の南海を振り切るのにかなり強い意志力が必要だったが、小熊にはやる事があった。

 八王子市と町田市を隔てる丘陵をカブで登り、直進すれば自宅に向かう道を左折して尾根幹線道路を少し走った小熊は、スマホのナビを見るまでも無く地元の道路として記憶し把握している市道へと右折し、目的地に向かう。

 そんなに長い距離を走ることもなく、目当ての場所である川崎の黒川駅に着いた小熊は、勝手知った木造アパートのドア前に立った。

 薄いドアを拳で叩く。客人として居住者に来訪を伝えるためではなく、侵入者として相手に心の準備と神への祈りをさせるためのノック。日本以外の国ではもっと手っ取り早くそれを行うポンプアクションで撃てる道具もあるらしいが、どうやら不要な様子。 ノックをした小熊は間髪入れず玄関ドアを開け、中に押し入った。

 部屋の中には後藤が居た。どうやら小熊の知る神ではなくそれより世俗的で色彩的にも黒い物に祈っているかのように、散らかったダイニングスペースの真ん中で蹲っていた。

 小熊には南海のためにやるべき事があった。その前に小熊なりに通す仁義というものがある。

 

 後藤はつい先日小熊の襲来を受けた時、明日から家に居る間も玄関の鍵を締めてチェーンをかけておくと言っていたが、後藤みたいな奴が一回痛い目を見たからといって生活における面倒な義務を律儀に実行するとは思っていなかった。 

 目論見通り施錠されていない玄関ドアは簡単に開き、小熊はドアを蹴破る時間を短縮させる事が出来た。カブで来たのも正解だった。カブ以外のバイクなら近づいてアパートの前で停まる音で、後藤にドアロックやバリケード構築の時間を与えていたが、カブが家の前に停まる音は、ありふれすぎていて普通の人間なら気にも止めない。

 とりあえず小熊は亀の子のようになっている後藤の着ている薄汚れた旅館浴衣の襟首を掴んで引き起こし、顔を近づけて言った。

「あんたにやってもらいたい事がある」

「帰れ!死ね!バイクで事故起こして真っ二つになれ!私はおまえなんかに何もしてやるもんか!」

 少し粘り強い説得が必要だと思った小熊は、後藤の首が襟でいい感じに締まるように半ばぶら下げながら言った。

「ある人物と会って欲しい。それから、その人間と草薙さんとの面会の手配をして欲しい」

 後藤は既に日本語として意味を成さない叫び声を上げ、小熊に唾を飛ばしていたが、襟を掴まれて引っ張られた浴衣の帯が解け、ほぼ素っ裸になってしまった後藤は顔を赤らめて襟をかき合わせながら言った。

「お前は私がこの世で最も苦手なことの上位二つを私にやれと言っている」

 小熊は手を後藤の襟から放す。さほど整っていないが、あまりにもだらしないので古代ギリシャの貴族が来ていた貫頭衣にも見えなくない浴衣を形だけ着直した。その下に何も着けていない事は、さっき見たくないのに見てしまった。貧相だからではない。猫背の姿勢と表情で騙されがちだが、強引に引っ張ってみると後藤は意外なくらい艶めかしい体をしている。それが何かの役に立った事は一度も無いらしいが。

 ダイニングスペースの床にあぐらをかいた後藤は、幾らか落ち着いた様子で床を這い、通販の段ボール箱からカフェオレの缶を二つ取り出して一つを小熊に転がす。

 後藤が自分の分の缶を開けて一口飲み、幾らか落ち着いた様子なので、小熊もさっき飲んだばかりのカフェオレを開けた。


 どうやら後藤にとっての応接間らしきダイニングの安っぽいビニール素材の床に座りながら、後藤は言った。

「もう一度言うが私はそういう事が苦手だ、やる気も無い」 

 床に座った小熊は、自分がチャンピオンの布製バスケットボールシューズを履きっぱなしだという事に気づき、紐を解きながら答える。

「知ってる、だから私がサポートする。苦手な物は私にもある。魚の内臓とか、きっと今は苦手だが酒を飲むようになると好きになる」

 後藤はカフェオレの缶を床にガンガン打ち付けながら言う。

「わけわかんねぇ死ねよ、私は忙しいんだ、仕事がある」

 小熊は手首のデジタル時計を一瞥して言った。

「仕事や生活の邪魔はしない、それより、そろそろ時間じゃないか?」

 後藤は手首を振り、入院時から寝る時も着けっぱなしのスマートウォッチを見た。小熊がこの時間にここに来たのには理由がある。

「そうだ配信だ! ちくしょう覚えとけよ! 邪魔したら殺す!」

 川崎市北部の電子部品流通センターで配送主任を務めている後藤治李のもう一つの仕事、定時配信の時間が始まる。

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